3 / 15
2
しおりを挟む「ただいま」
玄関のドアを開いて、小さな声で言った。誰にも聞こえない様に、極限まで顰めた声で。
聴覚を研ぎ澄ませて、家中の聞こえる限りの声を聞き取ろうと努力した。特に人の気配もしないし、目立つ物音もしない。強いて言うなら、リビングに置いてある古い置き時計の音くらいだ。あれは母が気に入っている時計だが、秒針の音がやたら大きいので時々嫌になる。
ドアの隙間からゆっくりと身を滑り込ませ、ゆっくりと玄関の三和土を移動して、上り框に鞄を置いた。そこで動きを止め、再び家の中の物音に耳を澄ませる。苛立ちを煽る様な、大きな秒針の音しか聞こえない。
良かった、誰も居ない。
ホッとして大きく息を吐いた。吸い込むと、家の停滞した生温い空気が肺を満たしていく。
私は上り框に置いた鞄の横に腰掛けると、靴を脱ごうと身を屈めた。
「“ただいま”は?」
指を止めた。中学の頃から履いている古い靴。そこから伸びている己の足首。靴に添えられた右手の甲には、赤黒い痣が一つある。
「“ただいま”は?」
先ほどより鋭くなった声が、私の首に刺さる。背中にも、心臓にも深く突き刺さる。
「ただいま……」震える声で何とか応じた。私の背後に立つ母は何も言わない。屈めていた身を起こして、両手を膝に乗せた。喉の筋肉が意思とは関係なく震えていた。
「ただいま」
もう一度、少し大きな声で繰り返した。
突如、頭蓋骨の内側で鈍い音が響き、私の体は左側の壁に叩きつけられた。母は一つに結んだ私の髪の束を乱暴に掴むと、壁から引き離して再び叩きつけた。
「帰ってきたら、まず“ただいま”でしょ⁉︎いつも言ってるよね?どうして親の言いつけが守れないの⁉︎」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
頭を両腕で守りながら必死で叫ぶ。母はずっとおかしい。私が子供の時から、ずっとこの調子だ。しかしどうしても抵抗しきれない。
母はいつも泣いているのだ。泣きながら、しかし涙に濡れた双眸には激しい憎悪を浮かべながら、私を殴り続けている。
「あんたなんか!産まなきゃ良かった!顔も不細工で、性格も不細工!
こんなゴミ産まされるくらいなら、死ねば良かった‼︎」
三和土に突き飛ばされ、私は倒れ込んだ。三和土のタイルの感触を頬に感じながら、腹に叩き込まれたつま先が胃を抉る痛みを受け入れた。
痛いのは一瞬、痛いのは一瞬……、己に何度も言い聞かせながら、母の怒りが収まるのを待った。体に力を入れると、その分痛みが増す様な気がする。ならばいっそ動かず、この痛みを受け入れてしまう方がずっといい。
「死ね!死んじまえ!」腹を蹴り、頭を踏みつけながら、母は泣きながら罵った。体が痛いのは平気だ。怪我をしても、しばらくすれば治る。体の痛みはどうってことはない。
「ゴミ!クズ!早く死んで保険金で親孝行しろよ!こんな汚物とちが繋がってるなんて気持ち悪くて仕方ない‼︎」
「産まれてごめんなさい!迷惑かけてごめんなさい!」
「違うだろ‼︎‼︎」
一声大きく吠えると、母はぐしゃぐしゃになった私の髪を掴んで顔を上げさせた。目を大きく開いた母の顔が視界いっぱいに広がる。涙がボロボロと流れている彼女に瞳には何も映っていない。私の顔すらも見えていない。
「“こんなゴミを産んでくれて、ありがとうございます”だよ。早く言えよ」
「こんなゴミを産んでくれて……」
「土下座しながら言うのがマナーだろ」
至るところがズキズキする体を何とか起こし、私は三和土の上に正座した。膝の骨がタイルに擦れて、皮膚が引っ張られた。鋭い焼ける様な痛みが走って一瞬動きが止まった。しかし頭上で母の怒りがまた静かに爆発するのを感じて、上げそうになった声は飲み込んだ。
裸足の母の両足の前に両手を揃えて、ゆっくりと首を垂れた。そして息を吸い込んで、「こんなゴミを産んでくれて、ありがとうございます!」と叫んだ。
「うるさい!汚い声で喋るな!」
母の裸足が私の頭を蹴り飛ばす。謝っても声が気に入らないと再び蹴られた。謝っても駄目、そもそも声を出しても駄目。そうなってしまっては、私はもう無言で両手を合わせて、母に向かって必死に拝みながら暴力を受け入れる事しか出来なかった。
「死ね!死ね!」
何度も私に向かって降ってきた罵倒が、玄関のドアが開く音と共に止まった。大きな手が私の肩を掴むと、優しく起き上がらせた。
「ただいま」父はそれだけ言うと、私たちを放置して家の中に入って行った。母は無言で父の後を追って行った。
左手に体重を掛けて立ちあがろうとすると、さっきタイルに当たって痛かった右の膝にさす様な痛みが走った。大きく息を吸い込み、痛みが治まるまで待った。どうやら折れてはいないらしい。痛くて上手く力は入らないけど、さっきよりは大分良くなった。
痛くない左足で何とか立ち上がると、手を伸ばして何とか上り框を掴んだ。引き寄せる様にして移動して腰を掛けると、今度こそ靴を脱いだ。昨日は声が耳障りだからと殴られた。明日はどんな声で「ただいま」を言えばいいのだろう。
右足を庇いながら何とか階段を上がり、自分の部屋に入った。部屋の扉を閉めた瞬間、階下から母が父を罵る声が響き渡った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる