愛の償い

伏織

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「ただいま」

玄関のドアを開いて、小さな声で言った。誰にも聞こえない様に、極限までひそめた声で。
聴覚を研ぎ澄ませて、家中の聞こえる限りの声を聞き取ろうと努力した。特に人の気配もしないし、目立つ物音もしない。強いて言うなら、リビングに置いてある古い置き時計の音くらいだ。あれは母が気に入っている時計だが、秒針の音がやたら大きいので時々嫌になる。

ドアの隙間からゆっくりと身を滑り込ませ、ゆっくりと玄関の三和土たたきを移動して、上り框あがりかまちに鞄を置いた。そこで動きを止め、再び家の中の物音に耳を澄ませる。苛立ちを煽る様な、大きな秒針の音しか聞こえない。

良かった、誰も居ない。
ホッとして大きく息を吐いた。吸い込むと、家の停滞した生温い空気が肺を満たしていく。
私は上り框に置いた鞄の横に腰掛けると、靴を脱ごうと身を屈めた。


「“ただいま”は?」


指を止めた。中学の頃から履いている古い靴。そこから伸びている己の足首。靴に添えられた右手の甲には、赤黒い痣が一つある。


「“ただいま”は?」


先ほどより鋭くなった声が、私の首に刺さる。背中にも、心臓にも深く突き刺さる。
「ただいま……」震える声で何とか応じた。私の背後に立つ母は何も言わない。屈めていた身を起こして、両手を膝に乗せた。喉の筋肉が意思とは関係なく震えていた。


「ただいま」

もう一度、少し大きな声で繰り返した。
突如、頭蓋骨の内側で鈍い音が響き、私の体は左側の壁に叩きつけられた。母は一つに結んだ私の髪の束を乱暴に掴むと、壁から引き離して再び叩きつけた。


「帰ってきたら、まず“ただいま”でしょ⁉︎いつも言ってるよね?どうして親の言いつけが守れないの⁉︎」

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

頭を両腕で守りながら必死で叫ぶ。母はずっとおかしい。私が子供の時から、ずっとこの調子だ。しかしどうしても抵抗しきれない。
母はいつも泣いているのだ。泣きながら、しかし涙に濡れた双眸には激しい憎悪を浮かべながら、私を殴り続けている。


「あんたなんか!産まなきゃ良かった!顔も不細工で、性格も不細工!
 こんなゴミ産まされるくらいなら、死ねば良かった‼︎」


三和土に突き飛ばされ、私は倒れ込んだ。三和土のタイルの感触を頬に感じながら、腹に叩き込まれたつま先が胃を抉る痛みを受け入れた。

痛いのは一瞬、痛いのは一瞬……、己に何度も言い聞かせながら、母の怒りが収まるのを待った。体に力を入れると、その分痛みが増す様な気がする。ならばいっそ動かず、この痛みを受け入れてしまう方がずっといい。

「死ね!死んじまえ!」腹を蹴り、頭を踏みつけながら、母は泣きながら罵った。体が痛いのは平気だ。怪我をしても、しばらくすれば治る。体の痛みはどうってことはない。


「ゴミ!クズ!早く死んで保険金で親孝行しろよ!こんな汚物とちが繋がってるなんて気持ち悪くて仕方ない‼︎」

「産まれてごめんなさい!迷惑かけてごめんなさい!」

「違うだろ‼︎‼︎」


一声大きく吠えると、母はぐしゃぐしゃになった私の髪を掴んで顔を上げさせた。目を大きく開いた母の顔が視界いっぱいに広がる。涙がボロボロと流れている彼女に瞳には何も映っていない。私の顔すらも見えていない。


「“こんなゴミを産んでくれて、ありがとうございます”だよ。早く言えよ」

「こんなゴミを産んでくれて……」

「土下座しながら言うのがマナーだろ」


至るところがズキズキする体を何とか起こし、私は三和土の上に正座した。膝の骨がタイルに擦れて、皮膚が引っ張られた。鋭い焼ける様な痛みが走って一瞬動きが止まった。しかし頭上で母の怒りがまた静かに爆発するのを感じて、上げそうになった声は飲み込んだ。

裸足の母の両足の前に両手を揃えて、ゆっくりと首を垂れた。そして息を吸い込んで、「こんなゴミを産んでくれて、ありがとうございます!」と叫んだ。


「うるさい!汚い声で喋るな!」


母の裸足が私の頭を蹴り飛ばす。謝っても声が気に入らないと再び蹴られた。謝っても駄目、そもそも声を出しても駄目。そうなってしまっては、私はもう無言で両手を合わせて、母に向かって必死に拝みながら暴力を受け入れる事しか出来なかった。


「死ね!死ね!」


何度も私に向かって降ってきた罵倒ばとうが、玄関のドアが開く音と共に止まった。大きな手が私の肩を掴むと、優しく起き上がらせた。
「ただいま」父はそれだけ言うと、私たちを放置して家の中に入って行った。母は無言で父の後を追って行った。

左手に体重を掛けて立ちあがろうとすると、さっきタイルに当たって痛かった右の膝にさす様な痛みが走った。大きく息を吸い込み、痛みが治まるまで待った。どうやら折れてはいないらしい。痛くて上手く力は入らないけど、さっきよりは大分良くなった。

痛くない左足で何とか立ち上がると、手を伸ばして何とか上り框を掴んだ。引き寄せる様にして移動して腰を掛けると、今度こそ靴を脱いだ。昨日は声が耳障りだからと殴られた。明日はどんな声で「ただいま」を言えばいいのだろう。

右足を庇いながら何とか階段を上がり、自分の部屋に入った。部屋の扉を閉めた瞬間、階下から母が父を罵る声が響き渡った。
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