愛の償い

伏織

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というわけで、私は帰宅したくない。あれは毎日のことだ。
なのでサツキ達が誘ってくれる遊びにはついて行きたいが、先立つものも無い。母から渡される小遣いは毎月500円あれば良い方で、彼女の機嫌によっては何も貰えないこともある。母は決して家から出て行かず、一日何をしているのかわからない。少なくとも他の家族が居る時は、私には暴力を振るい、父のことはずっと罵り続けている。

寡黙で口下手な父は、母の罵詈讒謗ばりざんぼうを黙って聞いている。何を思っているのかはようとして知れないが、少なくとも気分は良くないだろう。




次の日も、私はあの駅のホームに立っていた。向かいのホームに昨日の男の子が居たらと思うと、申し訳が無くて自傷行為に及ぶこともなかった。それに右膝はいまだに痛む。時折思い出させる様に鋭い痛みを発する。よく見たら少し腫れている。触ると熱を感じる。

いつも通りにホームに滑り込んできた電車に乗り込み、知らない手が下手な手つきで尻を撫で回す知らない手を無視しながら、最寄りの駅に着くのを待った。しかし今日はぼんやりとしていたせいで、一つ駅を乗り過ごしてしまった。
少し焦ったが、しらない場所ではないので、歩いて帰宅することにした。何となく、そうしたかったのだ。


いつもの駅とは違う駅前の光景を眺めながら歩くと、少し気分が良くなった。右膝の痛みも今は大人しくしている。あまり早くは歩けないが、不自然には見えない程度には歩ける。茶色いタイルの上を歩きながら、私はどこかで寄り道をしたくなった。ショッピングモールや、こうえんが次々と視界の端をかすめるが、どれも私が行きたいところではなかった。

駅前を抜け自宅方向への道に出ると、綺麗な並木が頭上まで伸びている。カサカサと葉が擦れ合う音を聞きながら、歌でも歌いたい様な気持ちで歩き出した。




ふと視線を道の向かい側に向けると、見覚えのある姿があった。いや、気のせいかもしれないと自分に言い聞かせて無視した。父は仕事中の筈だし、あんなに若い女性と手を繋いで歩けるほど積極的な人間でもない。第一、私と母が居る。いくら何でも不貞は働かないだろう。

振り返りたい衝動を抑え付けた。首筋に無数の針が刺さる。何も見なかった。私は、何も、見なかったのだ。
突如として我が身に襲いかかって来た底知れない恐怖心は、冷静になって考えてみれば「今更か」と己を呆れさせた。娘に虐待する上に、いつも自分を罵倒する妻。そのくせ夜には異常なほど擦り寄ってくる。同じ家に居るのだ、聞きたくないのに聞こえる。

父も逃げ場所が欲しい時があるのだろう。そう思うと、感じていた恐怖や焦燥が一気に穏やかになった。父に対する哀れみと、しかし同時にぐつぐつと静かに激る怒りとで混乱しながら、立ち止まって振り返った。

10メートル程後方から、父もこちらを見ていた。何とも言えない気持ちで小さく首を傾げて見せると、父は真面目な表情で二度、頷いた。大丈夫そうだ。彼の性格を考えると、少なくとものちに説明があるだろう。タイミングを待とう。



悔しいほどに、自分は子供だ。大人の身勝手には太刀打ちできない。
いや、きっとこれは大人になってもそうなのだ。自分の身勝手に周りを巻き込み、そして自分もまた、誰かの身勝手に翻弄ほんろうされる。しかし何とかそれに耐えられる様になる。それが大人になると言うことなのだろう。

自分の力で生きていない子供のうちは、どうしても覚悟というものが持てない。己の無力と胸の痛みに、私は耐えていけるだろうか?

母はどうなんだろう。彼女の様に人の二倍苦しむ人は、他の大人よりはたくさん苦しむんじゃないか?死んでしまうかもしれない。彼女を守るのは誰なんだ。私は彼女のサンドバッグにしかなれない。









心臓が足元まで落ちてしまった様な苦々しい気持ちを感じながら、自宅に近いところにある団地の前の道に差し掛かった。いつの間にここまで来ていたんだろう。

幼いころはここら辺に遊びに来ていた筈なんだが、不思議と詳細の記憶がない。まあ、たまに来ていた程度なのだろう。何より、幼い頃の記憶はすでに母の暴力に染まっていた。あまり思い出したくない。

団地の並ぶ一帯に、急にたくさんの木で生い茂った場所が現れた。小山でもあるようで、こんもりとした守りに覆われた中を、石でできた階段が上へと伸びている。その階段の前に来ると、不思議と足が動かなくなった。


階段の先は木に覆われて見えない。なんとなく懐かしさがある。この先に行ってみたい。
右足で一段目を踏んだ瞬間に鋭い痛みが走り、母の怒鳴り声が脳内に響いた。早く帰ったほうが良いのかもしれない。帰りが遅くなると、母にいつも以上に殴られるかもしれない。恐怖が私の腹を内側から引っ掻いて来たけど、すぐに切り替えた。父と同じだ、私も。少しくらい逃げた気分になりたい。

右膝の疼く痛みに何度も母の顔を思い浮かべながら、私は上へと続く石の階段を上って行った。
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