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しおりを挟む彼女はもう居ない。どこかに行ってしまった。
僕の知らない土地に行ったのか、それとも僕の知らない世界に行ったのかは解らない。とにかくもう、二度と彼女に会えない。
二十歳で実家を出て、八年ぶりだろうか。僕は妊娠中の妻と、五歳になる息子と共に、故郷へと里帰りした。電車で三十分もあればいける距離なのだが、今日まで何となく行く気になれなかった。
駅のロータリーには、タクシーもバスも停まっていなかった。タイミングが良いんだか悪いんだか、........その時はなぜか、不自然だと感じなかった。
妻の体調も良さそうだし、僕の実家もそこまで遠い訳ではないため、三人でゆっくり歩いてみようという話になった。
僕と妻は中学校からの付き合いなので、お互いに懐かしい街並みを眺めては、思い出話をしあうのが楽しい。何度もどこかを指差して、何度も笑い合う。二人の間で、息子は少しつまらなそうにしている。
昔よく行った本屋の角を曲がり、しばらく歩いていくと住宅街に入る。僕の実家は、駅から見て反対側寄りにある。
昔と変わらない建物もあれば、変わってしまったものもある。懐かしさと同時に感じる寂しさに、胸が僅かにギュッと締め付けられた。
........_____。
「え?」
「どうしたの?」
誰かに呼ばれた様な気がして立ち止まって振り返った僕に、妻が不思議そうに聞いてくる。「いや、何でもない」僕は振り返った先にあった、少し古いアパートを指差して妻に尋ねた。
「ここ、昔は小さな公園があったの、覚えてる?」
「知らない。よく行ってたの?」
「まあ、うん」
忘れもしなかったが、はっきりと思考しないように避けてきた記憶だった。ずっと隅に追いやって風化を待っていたのに、彼女の匂いや息遣い、あの優しい瞳は少しも薄れていなかった。途端に、僕の身体の奥底からマグマの様な熱いものが込み上げて来そうになる。
彼女はもう居ない。どこかに行ってしまった。
己を必死に抑えながら、強く言い聞かせる。
ふと、それまで僕と妻の会話を黙って聞いていた息子が、こう言った。
「パパ、赤ちゃん産まれたら一緒に公園で遊べるかな?」
「すぐには無理だよ」
僕より先に、妻が楽しそうに答える。愛おしげに微笑みながら、息子の頭をそっと撫でた。僕も小さく笑った。
「妹が産まれて、公園に行けるようになったらみんなで行こうね」
それを聞いて、妻が驚いた顔で僕を見た。「なんで知ってるの?」無意識なのか、右手で己の少し膨らみ始めた腹を撫でる。
「何?」
「いや、性別。一昨日病院で女の子だって教えてもらったの。
来週はリョウくんの誕生日だから、その時にサプライズで言いたかったのに」
半開きになった口を、すぐに閉じた。答えようもない。僕は知らなかったが、「わかっていた」それだけなのだ。わざとおどけた口調で「勘が当たった」と言うと、妻の驚きの顔が綻んだ。切れ長なあの目とは違う、丸っこくて人懐っこそうな瞳がきらりと光った。
僕も嬉しくて笑った。世界一愛する存在が、戻ってくる。
「名前、僕が考えてもいい?」
終わり
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