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しおりを挟む押し黙る僕の前で、彼女が笑った。今までに見たことのないほど美しく、底知れない暗いものを感じさせる笑みだった。思わず、ごくりと生唾を飲み込んだ。その様子を見て、彼女の挑発するような微笑みが更に深くなった。
「一緒に行く?」
「え?」
「一緒に行くなら、教えてあげる」
夜の暗さのせいなのか、そう言って笑みを大きくする彼女の表情は今まで見たことのない、凄みを感じた。いつもと同じ、優しくて包容力を感じさせる笑みの様にも見えたが、目も、唇も、別人の様に見えた。
周りの空気が、僕の命が、彼女に向かって吸い込まれていく様な、不思議な感覚だった。頭の芯が痺れている。何も考えられず、ただ己の呼吸の音だけが頭の中で反響していた。
「どうする?」
一瞬、僕は己の中の獣に負けてしまいそうになった。彼女の、赤く熟した唇に自分の唇を重ね、何度も荒々しく前歯を打つけながら、、乱暴に舌を絡めたい。彼女の唾液を嚥下し、自分の唾液を彼女に飲ませてやりたい。その後、白い首筋に食らい付き、強く吸い付いて、幾つもの赤い跡を付けてやりたい。
彼女も僕の内心の衝動を感じ取っているのか、形の良い唇を意味ありげに歪め、獲物を狙う様な目付きで僕の目を見ていた。
彼女と初めて会ったあの日のように、誘われる様に、引っ張られる様にして、僕は自分の顔を彼女に近付けて行った。顔が近付く毎に、彼女の唇の笑みが大きくなっていく。白い歯を剥き出し、目はギラギラと怪しい光を放つ彼女の顔を至近距離で見た。僕の中でカチリと何かが切り替わった。
「……やめとく」
「あら」
僕が今まで見てきた彼女は、こんなに下品で嫌らしい笑みを浮かべなかった。「ほくそ笑む」と言う言葉が似合う様な、そんな笑みを見せた事は無かった。そんな彼女が何故、今、こんな事を言い、こんな笑顔を浮かべるのか、そう考えると、僕の中で荒れ狂っていた黒いものが一気に引いて行った。
「いいの?」残念そうで、しかし安心した様な口調だった。
僕はその時、ずっと自分の中で蓋をしていた考えを受け入れた。彼女は人間ではない。そもそも、砂に埋もれている時点でおかしいのだが、僕は分かってはいても、それと真正面から向き合う事は出来なかった。
「じゃあ、これでサヨナラだね」
「うん」
呆気ないものだ。僕は立ち上がって服についた砂を払うと、「バイバイ」と、一言で別れを告げた。
悲しくなかった訳ではない。何も気の利いた言葉が出てこなかった。その四文字で、僕は自分の涙腺に蓋をした。
「左様なら、リョウちゃん」
彼女が改めて言う。少し口を結んで、喉の奥から込み上げてきそうなものを飲み込む。僕もまた、彼女と同じ様に返そうとして、ふとあることを思い出す。
「名前、何ていうの」
「名前?」
「うん。最後くらい、名前で呼ばせてよ」
何かを噛み締める様に、彼女が一度目を閉じた。下唇が少し震えている。再びゆっくりと瞼を開いた彼女の瞳は、何かで濡れた様な光を放っていた。
一文字一文字、丁寧に、彼女は自分の名前を発音した。彼女の声が僕の鼓膜を震わせる度、僕は今まで生きてきた中でも一番の感動を覚えた。
最後の一文字を言った後、彼女は静かに微笑んだ。悲しそうで優しい笑み。唇を閉じて鼻から大きく息を吐いた彼女の表情は、悲しそうでありながらも、期待に満ちた様な煌めきもあった。
「さよなら、____」彼女の名を口にしている間、僕は彼女と唇を重ねる以上の昂りを感じていた。誰かとキスをしたり、身体を重ね合うことよりも、ずっと官能的で尊い瞬間が、その時その場所にはあった。
僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は満面の笑みを浮かべた。とても嬉しそうに、僕を見上げている。僕も笑っていた。
彼女と別れるのはとても苦しい。しかしそれ以上に、彼女が眩い笑顔を浮かべていることが幸せだった。
何の悔いもない。僕はその場から立ち去り、二度と会いに行かなかった。翌年には、あの公園は綺麗さっぱり無くなり、真新しいアパートが建った。
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