極上の女

伏織

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二章

2-4

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 翌日、学校に行ったら、一部始終を見ていたクラスメートが周りにその話を言い触らしていて、何かある度に「土下座したら許してやる」「言うこと聞いてほしければ土下座しろ」と言われるようになった。土下座はしなかった。


 私が頭を下げるべき相手は、母と教師のみであった。それ以外の為に土下座なんて、するわけない。


 当然私は周りから避けられ、嫌がらせをされるようになる。

 言ってしまえば「いじめ」だが、物を捨てられたり水をかけられるのなんて、母に何回もされてきた。今更苦にならない。


 だがある事件をきっかけに、不登校になった。
 クラスメートの男子に、母の悪口を言われたのだ。

 図書委員だった私は、放課後、図書室で返却された本を棚に戻す作業をしていた。


「お前、母親もキチガイなんだろ?キチガイ親子。きもい」


 普段図書室に来ないような、体育会系の部活をしていて、がたいの良い男子だった。
 彼が私に背後から近付き、そう言いながら、制服の上から私の胸を鷲掴みにして、乱暴に揉みしだいてきた。


「…………」


 何かが切れるような音が、頭の中でした。

 私が振り返って見詰めると、彼は怯えた様子で手を離した。


 仲間らしい男子が三人、後ろの方でニヤニヤしながらこちらを見ていた。


「な、なんだよ」


 仲間が見ている手前、格好付けたかったのだろう。男子―――――確か、佐藤とかいう奴は、強い口調で言った。

 私は佐藤に一歩詰め寄って、ブレザーの襟を掴んで彼の顔を引き寄せた。


「私の母親が何だって?」

「は?」

「私の母親が何だって?」

「…………」

「よく聞こえなかったの。もう一度言って?
 私の母親が、何だって?」


 佐藤も負けじと私を睨むが、全然怖くなかった。私は彼の目をじっと見据え、同じ質問を何度も繰り返した。

 きっちり20回目で、佐藤の回答がやっと聞けた。


「キチガイ!」


 そう吐き捨てた佐藤の顔に、頭突きを食らわせた。

 その一撃で佐藤の鼻が折れたらしく、彼は滝のように鼻血が溢れ出した鼻を、ひいひい泣きながら押さえていた。大丈夫か、と仲間が駆け寄って来る。

 援軍に助けさせてなるものかと、私は手に持っていた分厚い本で佐藤の頭を殴った。殴った後の本を、素早く仲間の一人に投げ付けると、上手い具合に一番でかい奴の頭に当たった。


「ああキチガイだよ!文句あんのかコノヤロウ!」


 あんなに恐ろしい声を出したのは、生まれて初めてだった。

 直ぐに教師がやって来て、事態は収束した。私が佐藤にやったことは一応「正当防衛」として処理されたが、やりすぎだということで母を学校に呼ばれた。




 学校に駆け付けた母は、最初こそ私に激怒していたが、侮辱された母のために佐藤を殺しかけた(頭蓋骨にヒビが入ってたらしく、入院した)と解ると呆れた様子で微笑んだ。


「そんなに怒ることじゃないでしょ、お母さんは実際に“キチガイ”なんだから」

「お母さんがキチガイなのは、お母さんのせいじゃない」


 全ては父のせいだ。母は苦しんでるのだ。



 それから、私は不登校になったが勉強はきちんとしていた。定期テストを受けるためだけに登校し、教室に行くとクラスメート達が怯えるので、生徒指導室でテストを受けた。
 不登校だからと馬鹿にされたくなくて必死に勉強したからか、テストはほとんど満点だった。



 高校受験が近付いてきた頃、私は手首を切るようになっていた。毎日部屋に籠り、本を読んだり、手首を切って、血に見とれて時間を潰しながら毎日を消費した。

 あまり部屋から出なくなると、元々忙しい両親(父は大して働いてはいないが、浮気相手の家で暇を潰していた)と会うことはほとんど無くなった。

 母が帰宅する前に夕食を作って、自分だけ先に食べてからまた部屋に籠る。一日の食事はそれだけだった。


 ある日、私は手首を深く切りすぎた。

 カッターや普通のカミソリが家に無かったため、刃に凹凸のある安全刃のカミソリで切っていた。何度も同じ所を引っ掻き、少しずつ傷口を深くしていくのが、楽しかった。


 その時の私は何故かすごくイライラしていて、怒りまかせにカミソリを手首に押し付けた。

 刃に凹凸があって切れにくいからと、侮った。


 力いっぱい押し付けて切った。刃はパックリと肉を裂き、太い血管にまで達したらしい。

 ピンク色の肉が見えた。不健康な私にしては、なかなか美味しそうな色だと思ったのを覚えている。


 溢れ出した血液が傷口を満たし、腕を伝って床にポタポタと落ちていく。


 初めて見るおびただしい出血に、しばし感動して見入っていた。わざと腕を心臓より低い位置に垂らし、床に溜まっていく液体を眺めた。


 笑いながら、上手く呼吸が出来ずに、ヒッ、ヒッ、と、しゃくり上げた。凄いよ、この血。いっぱい出てるよ。楽しいよ。




 どれくらいの時間、そうやって自分の血に見入っていたのだろう。気付けば外は真っ暗で、電気を点けずにいたため、部屋中は闇に飲まれ、何も見えなくなっていた。


 傷口にそっと触れてみる。既に血は乾き、固まり、がさがさとした感触がした。



 ……これくらいじゃあ、死ねないみたいだ。



 諦め混じりの溜め息を吐き、部屋の明かりを点けた。

 足元のカーペットに染み込んだ血の後が、黒ずんでカピカピに乾燥している。どうやって掃除をしようか、考えつつ汚れた手首を洗うため、部屋を出ることに。


「うわっ!びっくりした」

「あっ」


 なんというタイミングだろうか。私が部屋の扉を開けようとドアノブに手を伸ばした瞬間、ノブが動いて向こう側から母が扉を開いたのだ。

 私が成長するにつれ、器用になり知恵も付いていく。それに従って母の私への態度も、少しずつ軟化していた。それでも辛く当たられることのほうが多かったが、以前の鬼のような母ではなくなった。


「ケーキ買ったから、一緒に食べよう」


 私を殴っていた頃は、全く想像が出来なかったような笑顔を私に向けてくれる母。だが、私はそれどころではない。

 早く手首を隠さなくては、と素早く左手を背中に回すが、忘れていた痛みがその時になって襲ってきた。思わず顔をしかめ、小さく呻いてしまった。

 それでもなんとか左手首を体の後ろに隠したが、目敏い母はあっさりと気付いてしまう。


「ちょっと、見せて」


 と、乱暴な手付きで私の左腕を掴み、無理矢理引っ張って目の前に出させる。左手を強く握り締め、手首に走る傷の数々を見詰める母。だんだんと目が大きくなり、口がぽかんと開く。


「あ、ああ、あん、あんた…………な、あ………ああああ………っ」


 びっくりするくらい沢山の涙が母の目から溢れ、傷口を塗らしていく。彼女はしばらくの間、口と目を大きく開いたまま、涙を流し続けた。


「ごめんなさい」


 当の私は、そんな謝罪の言葉しか言えなかった。親に泣かれるのはとても辛い。消えて無くなりたくなる。


「ごめんなさいお母さん。ごめんなさい」


 しばらくして落ち着いた母は、私の手首を水で綺麗に洗って、救急箱の中にあった大きな絆創膏をしてくれた。

 そして私を両親の寝室のベッドに寝かせ、母は私の部屋の床に染み込んだ血液を掃除しに行った。


 私の部屋で泣いてる母の声を聞きながら、目を閉じた。




 父は私がリストカットをしている事実も、長い間学校に行っていないことも知らなかった。

 もうほとんど家に帰って来なかったから、多分浮気でもしていたのだろう。



 母にリストカットがばれてから、私はパッタリと切るのをやめた。母があんなに泣いたのを見たのは初めてだった。自分が傷つけられるよりも、母に泣かれるほうが辛かった。


 中学校三年生の冬、とある高校の後期試験を受けた。私が受けた高校受験はその一校だけだった。

 倍率も低く、家にも近かったその高校の受験に合格するのは、とても容易かった。


 私は、高校には真面目に通うつもりだった。
 教科書も学用品もきちんと揃え、いい成績をとる為に、入学前から予習も沢山した。

 母も私が頑張ろうとしていることが嬉しいのか、笑顔を見せることが増えた。





 しかし、ここでも私の父親が邪魔をしてくる。








 高校に入学して半年経ったある日、私は担任に呼び出された。

 そして、こんなことを聞かされた。


「授業料が、半年間一度も振り込まれていない」


 衝撃の事実だ。

 担任は私に、まさか授業料のお金をくすねているのか?と疑いを抱いていたようだが、そんなものはお門違いだ。

 担任曰く、授業料を支払うはずの父親に確認したところ「娘に毎月振り込ませてます」と言ったそうだ。「母親は失踪したので、連絡先が解りません」と。


 そこまで聞いたところで、正直もうあまりにも馬鹿馬鹿しくて、笑いしか出なかった。
 その場で母に電話して、学校に来てもらい、この一件を説明したところ、母も同じように笑いしか出ないらしかった。笑いと怒りが混じった笑顔を浮かべながら父親に電話し、一通り怒ったあとに


「貴様のせいで娘の人生も終わった。離婚するぞ」と言って切った。

 携帯電話を閉じた瞬間から母は恐ろしいほど無表情になり、私のほうを見て「ごめんね、あんたの父親がクズだから。もう高校には通えないよ」抑揚の無い声でそう告げた。

 そのまま退学の手続きを済ませ、荷物をまとめて帰宅した。短い高校生活だった。


 母が私の学費のために貯金していた口座、生活費用の口座、いつのまにかそういった通帳やカードが家の中から消えていた。
 私や母が留守の内に、父親がそれらを持ち出し、お金をあるだけ「盗んだ」。
 いくら家族だとしても、やってることは泥棒と同じだった。
(母が寝てる間に、保険証や印鑑も持ち出して口座の暗証番号を変える手続き等に使っていたみたいだ。使ったらこっそり戻していた)



 なんというか、呆れた。
 父親にも、母にも呆れた。

 どうしてそんな最低なことをするのか、どうしてそんな最低なことをされていると気付かないのか。
 理解に苦しむ。



 父親のずる賢さ、母の間抜けっぷり、実に滑稽な夫婦から生まれてしまったこんな私。

 両親はそのまま離婚、私は母についていくことにした。


 離婚する際、更に笑える事実が発覚した。

 母方の祖父は航空自衛隊出身の人で、毎月多額の(少なくとも、私や母の給料よりは多い)年金を国から頂いていた。さすが母の父親、お金のやりくりも上手かったのか、貯金もかなりあった。


 父親は、その祖父から、長い間お金を巻き上げていた。
 時に脅し、時に泣き付き、大抵は娘である私の母がお金が必要だと言ってる、という内容の文句で月に十万単位のお金を貰っていたのだ。

 どうりで祖父が母を嫌うわけだ。「お前は信用しない。お前は娘じゃない」とばかり母に言っていた謎が解けた。

 祖父は、金遣いの荒い娘の旦那が泣き付いてきてると思っているのだ。さぞや父親に同情したことだろう。

 母は祖父に必死に説明したが、年を取り、強い偏見を抱くようになった祖父は、ついにそれを信じなかった。
 信じないまま、離婚してからも父親に「慰謝料」を払い続け、私が18歳の時に死んだ。ガンだった。享年は知らない。一度も会ったことはない。向こうが拒否していた。


 父親に最後に会ったのは、母方の祖父が死んだ翌月である。

 山の中に住む父方の祖父母は常識ある人達で、何故息子があんな最低な人間に育ったのか不思議なくらいだった。多分、簡単な言い方をすればグレてしまったのだろう。グレたまま更正しなかったんだろう。


 母が私を心配して(またリストカットしないか、とかを)、父方の祖父母の家に預けた。
 父方の祖父母に母が事情を話したところ、彼らの手には追えないということで、いわゆる精神病院に入院することになった。まあ、素人が無理に矯正しようとするよりは、だいぶ賢い選択だ。


 入院の予定日の三日前だった。

 父方の祖母を手伝って夕食の準備をしていたら、外で大きな音がする。それはバイクのエンジン音らしく、だんだんと家に近づいてきた。


 私はそれだけで、訪問者が誰かが解った。味噌汁用に切っていた豆腐を急いで鍋に入れ、包丁を置いて家の奥に逃げ込んだ。



 真新しいバイクに乗ってきた父親。家に上がって図々しくも私が作った味噌汁を飲み、居間で食事をしていた。

 こっそり玄関に出てバイクを盗み見た。気持ちの悪い金色に塗装された大型バイクだった。明らかに安物ではない。



 あんなものを買うお金が何故、どこから出たのか。父親の名前ではもう金融会社のローンは組めない。ちなみに父親は母の名前でも借金をしていたため、母も破産して、ローンを組むこともクレジットカードを作ることも不可能だ。

 まさか母方の祖父のお金だろうか。それとも別の人のお金だろうか。
 あの人の娘だからこそ解る、父親には貯金という概念は無い。彼がお金を持っているわけない。


 夕日に照らされるそのバイクを見ていたら、だんだんと腹が立ってきた。


 あのバイク、どうやったら粉々にできるだろうか。

 どうやったら、帰り道に事故に遭うように細工できるだろうか。


 そんな危ない考えを巡らせていると、いつのまにか背後に父親が立っていた。

 振り返ったらすぐそこに父親がいた。私を見ていた。

 私も父親を見た。悔しかったが、父親との思い出がありすぎて泣きそうになった。


 ほとんどイライラしていた母と違って、父親は暇があれば私と遊んでくれた。お金の問題や、暴力さえ覗けば、優しくて好い人のはずなのだ。

 一緒に縄跳びをした。父親は格好つけて二重跳びをしたが、途中でズボンが脱げて、私は大笑いをした。

 調理学校に通い、昔シェフをしていたこともあり、料理が上手だった。レストランで出てくるような、とても綺麗な形のオムライスを作ってくれた。

 私がまだ小さかったころ、よく肩車をしてくれた。一度だけ、扉を潜る際に父親が屈むのを忘れ、私は扉の枠に顔をぶつけて鼻血が出た。小さな熊の人形を買って、慰めてくれた。


 楽しかった。
 思い出すだけで、笑顔になった。



 父親はその楽しかった思い出を、一気に踏み潰したのだ。


「ほら」


 そう言って、私に右手を差し出す。何かを握り締めていた。

 何かと思い、それを受け取る。
 ぐしゃぐしゃの千円札だった。


「おじいちゃんとおばあちゃんを、よろしくな」


 ショックだった。
 この期に及んで、こいつはまだ何も解ってらっしゃらない。

 恐らくこいつは馬鹿なのだ。何でもお金で解決できると思ってる。自分がそうだからと、私もお金さえもらえば機嫌が直ると思ってる。


 そもそも、千円札一枚で自分の両親を「よろしく」だと?お前の親は二人揃って千円の価値しかないのか?お前、親まで捨てる気か。


 あまりにも怒りが強すぎて、身体が上手く動かせなかった。声すら出せなかった。

 父親は私の様子を見て何を満足したのか知らんが、「よし!」と言って、玄関から出て行った。そしてあの気持ち悪い色のバイクに乗り、去って行った。


 それ以降、父親の行方は知らないし、知りたくない。

 私は入院の予定をキャンセルして、夜行バスで母の元に帰った。



 そしてアルバイトをするようになり、今に至る。



 。 
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