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第10話 ストリート420

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 今日はゲリラライブのせいで疲れたし、なんかひなりちゃんの真面目トークについて考えていたら業務が完全に上の空になってしまったので、バイトは早退させてもらった。
 ひなりちゃんにはちょっと悪いことをしたかもしれない。もっと遅くまで彼女の愚痴に付き合うのが、ボクのここでの仕事だから。
 少し罪悪感を覚えながら、店を出る。
 時間はもうとっくに夜だけど、依然として街は活気を残していた。
 まだ終電がある時間帯だからなのか、普段と全然景色が違って見える。いつもなら閑散としているはずの駅へと続くアーケード街に、今日はそこそこの人通りがある。
 ボクはここから徒歩15分くらいのところに住んでいるので、電車に乗る必要はないのだけど、家まではここを通って駅前を通り抜けていかなければならない。
「やりたいこと、か……」
 サラリーマン風のお兄さんや、自営業っぽい感じのおじさん、特殊な商売をしていそうなお姉さんや、バンギャっぽい女の子……、すれ違っていく色んな人々のソレを想像しながら、ぼんやりと歩く。
 ふと、ピンク髪をしているボクのことを、行きかう人々はなんだと思っているのだろうかと、疑問に思った。
 それこそ、ビジュアル系かアイドルかタレントかお水かなにか、そんな辺りが妥当か。
 たぶん、ボクのことを週一でメイドさんをしている引きこもりにニート女装男子だと見抜ける人なんて、どこにもいないんだろうなあ。
 謎の優越感に浸る。
 そうこうするうちに、アーケード街を抜けて、駅前に辿り着く。
 眼前には改札を抜けていく無数の人、頭上にはオレンジ色の電車。
 ざわざわと話し声、ガタガタゴトンと電車の騒音。
 そんなものを感じながら駅前の広場を歩く。見慣れた風景。聞きなれた音。音――?
「え?」
 ボクは、耳を疑う。
 駅前の広場には、昼間には待ち合わせで多くの人がたむろしている。そして、その人たち目当ての大道芸人が、なにかパフォーマンスをしていたりする。
 なら、夜は?
 そんなこと、考えたこともなかった。
 普段は、昼と深夜しか通らないこの場所に。夜に。
 どんな景色が、どんな人が、どんな音が、広がっているのか、なんて――。
 ドゥンドゥンドゥッドゥドゥドゥッゥ――――。
 懐かしい。四弦の、低く唸る音。
 落ち着いているのに、どこまでも熱く過激な、あの娘の音色。
 その楽器からは本来出ない量の強烈な自己主張。
 ああ、これは、間違いなく……。
「杏ちゃん…………?」
 ボクは耳を疑って、そして。目を疑う。
 通り過ぎていく誰もがちらりちらりと、雑踏に溶け込みきれないそのアタック感に振り返っていた。そして時折、足を止める。
 彼等の瞳には、荒れ狂う黒髪美女の目にも止まらぬ指捌きが、しかと焼き付いたことだろう。
 それは、ボクの両目にも、今――。
 わずかながらも出来た数人の人だかりの中心で、彼女まるでは聴衆を食い殺すかの如く挑戦的な目をして、その愛用楽器を弾いていた。
 気圧された人が慌てて踵を返す程の気迫で。たぶん、残るのは、よほどのもの好きだけ。
「ははっ……」
 ベースだけで、路上ライブって……。ばかでしょ、ほんと、ベースばか…………。
 ボクは久しぶりに彼女のそんな姿を遠目に見て、思わず、苦笑した。
 なのに、
「あ、あれ……?」
 視界がぼやけて、目頭が熱い。つうっと、頬を何かが伝っていく。
 気付けば、足も動かない。
 立ち尽くす。その場に。
 ――がっ。
 背中に、軽い衝撃が去来した。
 急に立ち止まったボクに、どうやら後ろを歩いていた人がぶつかったらしい。
「ちっ」
 スーツ姿の男の人が、舌打ちをしながら雑踏に消えていく。
「ご、ごめんなさい……」
 それでもボクは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 道行く人が、怪訝そうにこっちを見ている気がした。でも、ボクはそこから動くことが出来なかった。不意に遭遇した大好きな音に、ボクの体は完全に硬直してしまった。止まっていた時間が、ここに来てこれまでの未払分を徴収しに来たみたいだった。
「…………っ。」
 耳を穿つ青春の唸り。でも、そのサウンドは、確実に昔よりも進化している。
 けれど、遠目に滲んで映る彼女のどこまでも好戦的な笑みは、きっと、あの頃の、まま……。
 ぼろぼろと、何かがこぼれた。ちっぽけなシミが、描かれるそばから溶けていく。ボクがこれまで失ってきた全てが、具現化してアスファルトに吸い込まれていくみたいだった。
「…………。」
 耳をすませていると、なぜかさっきひなりちゃんに言われたことが、ぼうっと頭に浮かび上がる。
 やりたい、コト。
 その言葉が、目の前の光景に重なった。
 邪悪で気味の悪い笑みを隠そうともせずにせっかくの綺麗な顔を獣めいた闘気で台無しにしながら鬱陶しいくらいに長い黒髪を鮮やかに振り乱して。
 ただ、楽しそうにベースを弾いている。
 誰の為でもない、聴かせる気なんて微塵もない。
 ただ、自分のためだけに弾いている。独りよがりのベースライン。ゴリゴリのスラップ。
 そこには、他に何の心算も魂胆も法則も道徳もない。
 ただ、「好きだから」弾いている。子供みたいに単純な原理。
 それは、ボクがいつかなくしてしまって、あの子がついこのまえ手に入れて、あの人がいま溺れそうになっている、ひどく魅力的で、ひどく淡い、脆くて危険な根源欲求。悪魔の胎動。
 杏ちゃんは、それをずっと、一心不乱に貪り続けてきた。
 たとえいくら辛酸を舐めようとも、孤独であろうとも。
 だから、どこまでも半端物になってしまったボクとは違って、キミはまだ、とんがったまま。極端な、まま。
 ――ボクはきっと、そんなキミが、大好きだったんだね。
 
 あっという間に曲が終わり、一旦演奏が止む。
 それでも、身体の中にはさっきまでの音圧が残響している。「ノレ!」と高圧的に求めてくる、有無を言わさぬうるさいグルーブが。
 ――委ねてしまいたい。全てを。なにもかもを、変えてしまうとしても。
 ボクはごしごしと目を擦って、前を向いた。
 と――、その時だった。
 一区切りついて、わずかながらも拍手をもらった杏ちゃん。ふうっと息をつき、長い黒髪を前から後ろにふぁさあと翻して、満更でもなさそうな表情を浮かべる。
 そんな彼女に、青い制服の男性が歩み寄っていく。
 杏ちゃんは、顔に浮かべる野卑な獣性こそ鞘に収めていたが、まだ演奏中の余韻が消えないのか、近付いてくるその人影にまるで気づいていない様子。
 だから、まあ、仕方なくといった感じで、青い制服の男性――つまりどうみても見回りの警察官――は彼女の肩を叩いた。
 すると、せっかくいたわずかばかりの観客も、それを見てかかわり合いになるのを避けてか散り散りにその場を去っていく。
 それをやや遠巻きに眺めていたボクは、どうすべきか少し迷った。
 だって、今のこの顔面で彼女と会ってしまうというのは、先日の一件もあって、気まずい。それに、ボクは元々自分から彼女に別れを告げたわけで、単純にどの面を下げてその場へ介入すればいいのかもわからない。
「どうしよう……」
 せっかく動き出した心が、時が、シラフになった途端、掻き消えそうになる。
 いつもの逃避癖が、平気な顔をして鎌首をもたげ出す。
 ずり、ずり……。
 つい、後ずさる。
 すると――。
 どんっ。
 背中に、また何かがっしりとしたものがあたった。
 反射的に、振り返る。
「おおっと。って、うわ、キミめっちゃかわいいじゃん! やっべー、うっは、チョー俺んタイプだわー。もう秒で運命感じちゃうレベル? ねえねえ、この後どうよ?」
 なんかすごいチャラい金髪で背の高い男の人がボクに笑いかけていた。
 な、ナンパ……?
 まあ、何度かされたことはあるけど、なんでこんなタイミングで……。
「え、あの、その……」
 困ったボクは、怖かったのもあって、咄嗟に無害そうなかわいい声を出してしまった。
 いや、なんならいっそここで男声を出してしまえばよかったのだけど。そんなことしたらこの人を刺激してしまうんじゃないかと思うと、怖くて。あと、その、ボクはあんまり素の自分が、好きじゃないから……。
 でもまあ、ボクは割と元の声もなよなよしてるし、杞憂か。
「いいじゃーん。絶対楽しませるからさ~。メシも奢るし。一緒に飲み行こーぜー?」
 ボクの苦しみも内面も素性も性別も何もかも知らない頭の悪そうなチャラ男さんは、しきりにボクを誘う。
 それだけかわいいと思われているらしいことは素直に嬉しかったけど、ボクはそれよりも杏ちゃんがどうなっているかが気が気ではなかった。
 だから、思い切って。
「その、ごめんんさい。女の子、またせてるからっ!」
 そう叫んで反転。一目散に駆け出した。
「え、は、ちょ! って、え!? 女の子!?」
 困惑気味の声が背後から聞こえる。
 けど、意識はもう、一人の女の子の方に向いている。
 逃げるのは、得意。
 彼から逃げるため、それを撒くためという理由付をすれば、そっちへと走る身体は軽くなった。さすがにどんな人でも警察官の前ではナンパしたりしないだろう、そんな動機付けが、弱いボクの心から本当の動機を隠して、肉体を行使させる。目的地まで大した距離はない。あっという間に、ボクは二人の声が聞こえる距離にまで肉迫した。
 ちょっとだけ、聞き耳を立ててみる。
「だから何度も言ってるよね? やるなら許可を取ってって」
「……じゃあ、やっていい?」
「あのさあ、そういうことじゃないの。僕に言われても困るから。これも毎回言ってるんだけどなあ……。それにね、君みたいな若い女の子が遅くまで一人でいたら……」
「ハタチ、超えてる……。オトナ」
「はあ、本当に大人ならそんな子供みたいな言い訳しないでくれるかな?」
「……ねえ、もう弾いてもいい?」
「だからダメだって。ね、お姉さん、いいから今日はもう帰ろう?」
「まだ、足りない」
「僕も別に意地悪で言ってるわけじゃないんだ。頼むから」
「……なら、邪魔しないで」
「邪魔って……、まったく……」
 どうやら警察官の人が、無許可で路上ライブをやっているっぽい杏ちゃんを注意しているらしい。人の良さそうな感じのそのおまわりさんは、だいぶ困り顔だった。
 公僕にも相変わらずのベースバカ対応な杏ちゃんに呆れてしまう。
 けど、そんなある種不思議ちゃんとも言える中学時代から何一つ変わっていない彼女の言動が愛おしくて、ボクは介入を決意した。
「あ、おまわりさん、ごめんんさい。その変な女の子、ボクのお友達でー」
「え、そうなの?」
 突然メス声全開で近寄ってきたピンク髪のボクがどこか胡散臭かったのか、おまわりさんはやや驚いたように、杏ちゃんに問いかける。
「……さあ?」
 しかし彼女は、無表情で小首を傾げるという絶望的な返答をした。
 まあ、確かに彼女にとってはこの前デリヘルで対応した客という認識だろうから、それも無理はないのかもしれない。
 なんというか、ボクは学生時代に彼女の前で女装したこと自体はあるのだけど、その時は今のようなメイクでも髪型でも髪色でもなかったから、今のこれがボクだとは杏ちゃんにはわからないのだろう。たぶんこの前も、それでバレなかったのだと思う。なにせボクが本格的に女装を始めたのは、ママの事故がきっかけだから。
「え?」
 おまわりさんが、かなり困惑気味にこっちを見る。
 友達だと言って割り込んできたのに、それを他ならぬ杏ちゃんが認めないというのだから、その反応も当然である。
 だからボクはメイドさんとしてお給仕する上で身に付けた全てを駆使してにこやかな笑顔をつくり、
「あははー、いやー、見ての通り杏ちゃんてばちょっと変わってるものでー。すみませんでしたー、うちの杏ちゃんがご迷惑をかけてー。大変でしたよね?」
 杏ちゃんの肩を馴れ馴れしく抱きながらそう言ってのける。
 すると、
「いやいや、むしろちゃんとお友達がいるみたいで安心したよ」
 おまわりさんはボクが杏ちゃんの名前を知っていることと彼女が特段嫌がったりしないのを見て友達だと信じてくれたのか、そう言って人あたりのいい笑みを浮かべた。
「君も、こんなにいいお友達がいるんだから、あんまり心配かけるような真似はもうしないでね?」
「……はあ」
 杏ちゃんは誠意も生気もない空返事でうつむいた。
「ふふっ、すみません。杏ちゃん、未だに子供みたいな大人なのでー」
「まったくだよ……。この間も駅前で喧嘩というから駆けつけてみれば、なにやらナンパ目的の男と揉めたらしく、掴み合いになっててね。だけど、なのになぜか彼女の方が男に掴みかかっていたし……、それに、初めて注意した時だって……」
「うひゃー、杏ちゃんロックだなぁ……」
 知人がなんか曰く付きの人みたいになってて戦慄する。まあ昔から学校一の有名人というか変人というか……そんなようなポジションだったし、それが地域のお尋ね者にランクアップ(ダウン?)しただけかー。
「って、済まないね。思わず愚痴ってしまった。じゃあ、僕は巡回に戻るけど、気をつけて帰るんだよ? ふたりとも、べっぴんさんなんだから」
「はーい。おつとめ、がんばってくださいねー!」
 去っていくおまわりさんの後ろ姿に、普段滅多にまかない愛想を振りまく。
 それにしても、たぶん杏ちゃんのついでだしおべっかもあるかもだけど、おまわりさんまでボクをかわいい女だと認識しているのか。なんだか法律にまで認められた気がして、承認欲求がバリバリに満たされていくのを感じる。
 と――。

「歌う気になった?」

「え?」
 二人きりになるなり、急にぶち込まれたなんの脈絡もないセリフに、はっとする。
 目の前にはスーパーロングストレートの黒髪と、凛とした瞳。
「あたしのまえに顔だしたってコトは、そういうコトでしょ」
 突き放すでも疑問形でもなく、単に事実を叙述しているといった風に、彼女は言った。
 ――もしかして。
「……なんていうか、気付いてる?」
 ボクは彼女の整った顔を恐る恐るうかがいながら、そう言った。
 相変わらず、表情の読めない綺麗な顔をしている。少し素で怒っている様に見えてしまうほど鋭利で美しい感じの、ちょっと声をかけづらいタイプの綺麗な顔を。
「……ばかにしてるの?」
 返って来たのは、ほんのり怒気を孕んだ声。つまり、けっこう怒っている。
 ……絶望。
 けれど、初恋の子に日常的に女装している事実と、それでデリヘル対応させていたことがバレてしまったらしき事実を悟り、ボクは早々に心理的負荷が限界突破。逆に開き直った。
「いやー、杏ちゃんならふつうにそういう可能性もありそうだなって」
「……有家も、ちゃんと男だったんだね」
「ひぐっ! うぐっ……、こ、この格好見て言うことが、それ?」
 彼女の口から放たれる、そんな言葉に、ボクのメンタルが色んな意味でゴリゴリ削れた。だって、それはつまり彼女はこれまでボクのことを異性とは思ってなかったってことじゃん。しかもデリでのことを揶揄してる感もあるし、なんかもう、病む……。
「じゃあ、なんて言えばいい?」
 むしろそれ以外に言うことなんてどう考えても山ほどあるだろうに、彼女はまるで思いつかないという様な無垢な表情で、そうボクの目を覗き込んでくるので――。
「き、キモい……とか?」
 自分で言って悲しくなってきた。メンがヘラヘラしてくる。
 なのに。
「なんで?」
 無機質に、追い打ち。
 それ、ボクに言わせます? 普通?
「え、女装してるし」
「にあってる」
 え、えぇー……。なんというか、もっと言うことなかったのかなー……。感性よ。
「へ、あ、そう。あ、ありがと。」 
「……。」
 ボクの言葉を聞くと、彼女はなぜかしばし黙って目を伏せた。
「というか、デリヘル呼んでてひかなかったの? しかも、知り合いなのに」
「途中まで、気づかなかった。だから……」
 彼女は、眉間に皺を寄せて、言葉を探すように、おもむろに。
「それに、あんたかもって思った瞬間、もう、わけ、わかんなくなって……」
「た、確かに。そりゃそうだよね。ボクもいきなり杏ちゃんが出てきたときはわけわかんなくなったよ……」
 それにしても、杏ちゃんもちゃんと動揺とかするんだよな。見た目にはまるでわからないけど、案外心の中ではそれなりに感情が揺れているのをボクは知っている。
「……でも、ちゃんと勃ってた」
「ひゃえ!?」
 まさかの発言に、変な声が出た。
 そりゃああいうところで働いているのだから知識はあるんだろうけど、なんというか、ボクにとっての杏ちゃんは、いつまでも純真なままな感じがしていたから、衝撃で。
 ボクが一人でわたわたしていると、彼女は更なる爆弾を真顔で投下する。
「あたしのこと、好きだったの?」
「えっ」
 いまさらそんなこと、このタイミングで聞くう? ほんとこの娘、どうかし過ぎでしょ……。
「どうなの?」
 めっちゃ淡白な声で、大事なことを聞いてくるこの感じ。果てしなく杏ちゃんだ。
 いつだってこれに、振り回されてきた。
「えっ、まっ、まあ。なかぁ……なか……に……?」
 今だって、平常運転の美貌がじいっとボクを見つめて。
「……そうなんだ。しらなかった」
 彼女にしては割としつこく聞いてきたくせに、すごい興味なさそうな声でぼそっとそうつぶやいた。
「はっ、あ、はい。」
 なんだったんだろう、今の……?
 そう思っていたら、また。
 いつもの自己完結式話法で。
「……じゃあ、歌ってよ」
 彼女はまた、なんでもないようなふうにそう言った。
 ボクを有家俊嘉だと認識した上での発言ならば、決してなんでもなくなんてないはずのその言葉を。いともたやすく。まるで、今夜の夕飯をお母さんにリクエストする娘の様な気軽さで。
「へ……?」
 ボクは固まってしまう。彼女みたいに真っ直ぐになれないボクは、止まってしまう。
 ――ぎゅう。
 それでも、呆けて情けない声を漏らすボクの手を取って、彼女は続ける。
「あたしは、好きだったよ。有家の……うた。たぶん、イマでも……」
 杏ちゃんが、ボクの方へ一歩、踏み込んだ。
 近付いてくる、白い肌と黒い髪。透き通った声と、澄み切った瞳。
 なんだか急に、世界に二人きりの様な錯覚を覚える。
 吐息が、近い。他の音が、聞こえなくなる。彼女へと、すべての意識が、集中していく。
 囁きが、聞こえる。
「だから、また、歌ってほしい……。あたしと」
 彼女が、つううと、長い指でボクの首筋を撫でた。
「いいのかな……。ボクは……、」
 負い目。一方的にバンドを止めた負い目。もう、遠くにいると、思っていた。
 だけれども、杏ちゃんの目にはまだ、ボクの姿が映っていた。
「あんたがいなくなってから、あたしにはあんたじゃないとダメだって、わかった……。わかったの! だから……」
 演奏する時以外、表に出ないはずの彼女の感情、その内に秘められているはずの想いが、発露した。握られた手の握力が、増す。
「でも、ボクは勝手に、」
「うるさい! しらない! いいから、なんでもいいから! また、あたしと、音楽、してよ……!」
 吐き出された声は、少しだけ、掠れていた。それはこれまでに、一度も聞いたことのない声だった。
 いつだって前を向いている彼女が、下を向く。
「あたしのベースで……よがってよ……!」
 束の間の、沈黙。そしてもう一度、キッとこちらを見た。肩をいからせ、歯を食いしばり。
「杏ちゃん……」
 ボクはなんと言えばいいのか、わからなかった。
 二人は、そうして、しばらく無言で視線を交わし続けた。
 でも、彼女の表情は、段々と無へ帰っていく。
 やがて。
「………………いいたいことは、それだけ」
 まだ少しだけ残った感情を吐き捨てるようにそう言って、彼女は握りしめていたボクの手をぶっきらぼうに手放した。
「そっか」
「だから、もう出来ないって言うなら、消えて。……もう、二度と、あらわれないで」
 冷たくて、色のない声が、ボクの耳を覆う。
 もしかしたら、彼女はこれを言うために、あそこまで感情的になってくれたのかな、なんてことを、思った。
 だから、ボクは、いろんな人の見えない後押しを感じながら、なんとか、そのどうしようもない口を開いた。
「わかった。じゃあ、ボクからも、お願いがあるんだ――」
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