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第1章 英雄の娘、冒険に出る
001 食堂の看板娘リーベ
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テルドルで人気の食堂エーアステはただいま開店準備中だ。
決して広くは無いホールの中、丸テーブルに椅子が上げられていて物寂しい雰囲気を漂わせていた。そんなホールには1人の少女の姿があった。
肩口まで伸ばしたあかね色の髪を後頭部で結い上げ、ポニーテールにしている。それをぷらぷらと揺らしながら清掃をしていた。そんな彼女はエメラルドのように澄んだ緑色をした瞳を窓の外へ向けた。
窓枠に切り取られた景色はまるで動く絵画のようだ。石畳の上を人や馬車が行き交う様はいつも変わらないようで、しかし日々、確かに変化している。
その些細な変化に気づくたびに、彼女は小さな幸福を感じるのだ。
この日で言えば、お向かいさんのプランターに植えられたガーベラがツボミを付けていた。
ガーベラという花は気品あふれる名前をしているのに加え、花弁もそれに相応に鮮やかで美しいものである。
そのつぼみが開かれたのならば、彼女と、ここで食事をする人々は幸せになれるだろう。
「早く咲かないかな?」
1人呟くと厨房から母の声が響いてくる。
「リーベ、ボーッとしてないで掃除を済ませてちょうだい」
「あ、はーい」
リーベ。それが彼女の名だった。この国の言葉で愛を意味するその名を、彼女はなによりの宝としていた。両親から名前を呼ばれるたび、自分が愛されているのだという明るい気持ちが胸に起こり、胸をときめかせた。
このときめきこそが彼女の原動力であり、彼女は「よし」と、気持ちを引き締め、自らの任務である清掃へと望むのだった。
そうして粗方終えた時、彼女はふと、入り口脇の壁に掛けられた1枚の絵画に目が留める。
それは20年前に起きた魔物の暴走――スタンピードと、それに立ち向かう冒険者たちの姿を描いたものだった。
中央には2人の剣士と、1人の魔法使いが描かれている。彼らを背中から見る構図であり、画面の手前には他の戦士たちの背中や横顔が大きく描かれている。
そして彼らの目先には種々様々な魔物たちの姿があった。
「…………」
蜜蝋で磨かれた額縁には真鍮板が付けられていて、そこには『断罪の時』と、題名が彫られている。
彼女はこの食堂に些か相応しくないその題名を、小さく呟いた。
「断罪の時……」
呟きながらも、彼女の視線は中央の男性に吸い込まれていった。この人物は――
カラン。
「ただいまー!」
カウベルの音をかき消すように、生き生きとした声がホールに響き渡る。
リーベが耳を押さえながら振り返ると、そこには彼女の父、エルガーの姿があった。
彫りが深く、日に焼けた逞しい顔。その尖った顎先にはヒゲを生やしていて、それが壮年の男らしい威厳を醸していた。193センチの長身と、衣服の上からでも分かる隆々とした肉体がその印象を裏付けている。
その背中と左腰には剣がある。
帯剣が認められているのは騎士と兵士と、そして冒険者だけであり、彼はその3つ目だった。
「もう、お父さんったら! 声が大きいよ!」
叫び返すと彼は愉快そうに詫びられる。
「わりいわりい!」
謝りつつもニコニコしていた彼は僅かにも反省していなかった。冒険から返ってきた時、いつも同様のやり取りをしているからだった。
「今帰ったぞ!」
と言うと娘をひょいと抱き上げ、その分厚い唇をリーベの健康な頬に押しつけた。すると彼女はブチュっと押しつけられるその感触に背筋がゾクゾクした。だがヒゲのちくちくに比べれば、なんと言うことはなかった。
「痛い痛い! もお、やるならヒゲを剃ってからにしてよ!」
「なんだと! ヒゲとケガは男の勲章なんだぞ!」
そんなやり取りをしていると厨房からシェーンががやって来た。
彼女はリーベにと同様にあかね色の髪と、エメラルドの瞳を持っていて、言わずもがな、リーベは母親似だった。
母親らしい落ち着きと品格を併せ持つ彼女だが、夫を見ると、その瞳がほんのりと無邪気さが蘇る。彼女は微笑み、夫の帰宅を喜んだ。
「お帰りなさ――」
言いかけたところで唇を押さえつけられる。キスは数秒に渡り、離れる頃には目元はとろけるように歪んでいた。
「……もう、リーベの前ですよ?」
恥じらいつつも、満更でもなかった。
「はは! 夫婦なんだし、こんくらい普通だろ?」
愉快そうに笑っていたが、ふと感慨を滲ませ、真摯な瞳を妻に向ける。
「ただいま、シェーン」
「……お帰りなさい。エルガーさん」
2人はじーっと見つめ合って、今度はどちらと無く顔を寄せ――
「こほん!」
娘が咳払いするとシェーンはハッと身を離した。そして娘に背中を向け、そそくさと厨房へ逃げ込んでいく様は生娘のそれだった。
「もう……イチャイチャするならわたしのいないところでやってよ」
「はは、わりいわりい……」
今度は確かな反省を窺わせた。
そんな父親にため息をつきつつ、リーベは汗と砂埃に汚れた父親に指摘する。
「ここは食堂なんだから、汗だくでいられちゃ困るよ?」
「お、そうだな。んじゃ、俺は風呂屋に行ってくるわ」
「うん。ゆっくりしてきてね?」
「娘が働いてるのに呑気してられるかよ」
そう言い残すとエルガーは武器をしまいに2階の住居へ向かった。
「……はあ」
冒険から返ってきたばかりだというのに元気なものだと、リーベはため息をついた。
それから絵画の中心に写る男性に目を向ける。
魔物の軍勢を前にしてなお、雄壮と佇むこの男性。 彼女はこの人物が自分の父であるという事に多少の疑念を抱いていた。
準備を終える頃には既に行列ができていた。
開店時間にはまだ早いが、お客さんを待たせるのも申し訳ない。そんな思いでリーベは厨房を覗き込んだ。そこではシェーンが料理をしていたが、彼女は手元に意識を置きながらも娘の声に耳を傾けた。
「ねえ、お客さん待ってるから開けちゃってもいい?」
「ええ。失礼の無いようにね」
「はーい」
リーベは手鏡を取り出し、前髪を整えるとドアを開け、客を迎え入れる。
「いらっしゃいませ! エーアステへようこそ!」
並んでいたのは顔なじみばかりで、客と店員の関係でありながら、ご近所さんのような親しげな挨拶を交わしていった。
狭い店内にはテーブルが6つしかない都合上、相席をしてもらうのが通例であったが、客たちは嫌な顔をせずに快く受け入れてくれた。
「リーベちゃん」
ある客が彼女を呼んだ。それを受けてリーベは埃を立てないように、しかし迅速に向かう。そこには肉付きが良く健康そうな婦人とその夫がいた。
「こんにちはスーザンさん。ダルさん」
「はい、こんにちは」
スーザンという女性は隣で手を弄んでいた夫を小突く。
「ほら、アンタもむっつりしてないで、挨拶くらいしたらどうなんだ?」
「俺は単なる客だ」
武器鍛冶として名高い彼は職人気質であり、人間関係にはとても淡泊であった。それとは裏腹に妻はフレンドリーだった。
「ごめんね? ウチの旦那は愛想がなくて。まったく、シェーンちゃんが羨ましいよ」
そう答えるとスーザンさんは厨房の方へ――シェーンへ向けて手を振った。
彼女とシェーンは……というよりも、彼ら夫妻とエーアステ一家はとても親しくしていたのだった。それは何故かというと、エルガーの剣も、シェーンが愛用するナイフも、全てはダルの作であったからだ。
そうした親交があるが故に、リーベはダルが無愛想であることに何の不満も抱かなかった。
「いえ。お待たせしてすみません。ご注文をお伺いします」
「いつもので頼むよ」
「はい。『鶏のグレントマト煮』と『ザクザクバゲット』ですね」
トマト煮はエーアステの看板メニューで、バゲットと組み合わせ特に人気だった。
それを裏付けるかの如く、周囲からは「同じの!」と手を上げる人が続出した。
「はーい! ありがとうございます!」
開店直後というのはオーダーが重なる為、大変であるのだが、常連の人々は同じ注文をすることによって、料理人に掛かる負担を軽くなるよう、気を遣ってくれるのだった。
このお店は愛されている。
リーベがそう実感する瞬間だった。
決して広くは無いホールの中、丸テーブルに椅子が上げられていて物寂しい雰囲気を漂わせていた。そんなホールには1人の少女の姿があった。
肩口まで伸ばしたあかね色の髪を後頭部で結い上げ、ポニーテールにしている。それをぷらぷらと揺らしながら清掃をしていた。そんな彼女はエメラルドのように澄んだ緑色をした瞳を窓の外へ向けた。
窓枠に切り取られた景色はまるで動く絵画のようだ。石畳の上を人や馬車が行き交う様はいつも変わらないようで、しかし日々、確かに変化している。
その些細な変化に気づくたびに、彼女は小さな幸福を感じるのだ。
この日で言えば、お向かいさんのプランターに植えられたガーベラがツボミを付けていた。
ガーベラという花は気品あふれる名前をしているのに加え、花弁もそれに相応に鮮やかで美しいものである。
そのつぼみが開かれたのならば、彼女と、ここで食事をする人々は幸せになれるだろう。
「早く咲かないかな?」
1人呟くと厨房から母の声が響いてくる。
「リーベ、ボーッとしてないで掃除を済ませてちょうだい」
「あ、はーい」
リーベ。それが彼女の名だった。この国の言葉で愛を意味するその名を、彼女はなによりの宝としていた。両親から名前を呼ばれるたび、自分が愛されているのだという明るい気持ちが胸に起こり、胸をときめかせた。
このときめきこそが彼女の原動力であり、彼女は「よし」と、気持ちを引き締め、自らの任務である清掃へと望むのだった。
そうして粗方終えた時、彼女はふと、入り口脇の壁に掛けられた1枚の絵画に目が留める。
それは20年前に起きた魔物の暴走――スタンピードと、それに立ち向かう冒険者たちの姿を描いたものだった。
中央には2人の剣士と、1人の魔法使いが描かれている。彼らを背中から見る構図であり、画面の手前には他の戦士たちの背中や横顔が大きく描かれている。
そして彼らの目先には種々様々な魔物たちの姿があった。
「…………」
蜜蝋で磨かれた額縁には真鍮板が付けられていて、そこには『断罪の時』と、題名が彫られている。
彼女はこの食堂に些か相応しくないその題名を、小さく呟いた。
「断罪の時……」
呟きながらも、彼女の視線は中央の男性に吸い込まれていった。この人物は――
カラン。
「ただいまー!」
カウベルの音をかき消すように、生き生きとした声がホールに響き渡る。
リーベが耳を押さえながら振り返ると、そこには彼女の父、エルガーの姿があった。
彫りが深く、日に焼けた逞しい顔。その尖った顎先にはヒゲを生やしていて、それが壮年の男らしい威厳を醸していた。193センチの長身と、衣服の上からでも分かる隆々とした肉体がその印象を裏付けている。
その背中と左腰には剣がある。
帯剣が認められているのは騎士と兵士と、そして冒険者だけであり、彼はその3つ目だった。
「もう、お父さんったら! 声が大きいよ!」
叫び返すと彼は愉快そうに詫びられる。
「わりいわりい!」
謝りつつもニコニコしていた彼は僅かにも反省していなかった。冒険から返ってきた時、いつも同様のやり取りをしているからだった。
「今帰ったぞ!」
と言うと娘をひょいと抱き上げ、その分厚い唇をリーベの健康な頬に押しつけた。すると彼女はブチュっと押しつけられるその感触に背筋がゾクゾクした。だがヒゲのちくちくに比べれば、なんと言うことはなかった。
「痛い痛い! もお、やるならヒゲを剃ってからにしてよ!」
「なんだと! ヒゲとケガは男の勲章なんだぞ!」
そんなやり取りをしていると厨房からシェーンががやって来た。
彼女はリーベにと同様にあかね色の髪と、エメラルドの瞳を持っていて、言わずもがな、リーベは母親似だった。
母親らしい落ち着きと品格を併せ持つ彼女だが、夫を見ると、その瞳がほんのりと無邪気さが蘇る。彼女は微笑み、夫の帰宅を喜んだ。
「お帰りなさ――」
言いかけたところで唇を押さえつけられる。キスは数秒に渡り、離れる頃には目元はとろけるように歪んでいた。
「……もう、リーベの前ですよ?」
恥じらいつつも、満更でもなかった。
「はは! 夫婦なんだし、こんくらい普通だろ?」
愉快そうに笑っていたが、ふと感慨を滲ませ、真摯な瞳を妻に向ける。
「ただいま、シェーン」
「……お帰りなさい。エルガーさん」
2人はじーっと見つめ合って、今度はどちらと無く顔を寄せ――
「こほん!」
娘が咳払いするとシェーンはハッと身を離した。そして娘に背中を向け、そそくさと厨房へ逃げ込んでいく様は生娘のそれだった。
「もう……イチャイチャするならわたしのいないところでやってよ」
「はは、わりいわりい……」
今度は確かな反省を窺わせた。
そんな父親にため息をつきつつ、リーベは汗と砂埃に汚れた父親に指摘する。
「ここは食堂なんだから、汗だくでいられちゃ困るよ?」
「お、そうだな。んじゃ、俺は風呂屋に行ってくるわ」
「うん。ゆっくりしてきてね?」
「娘が働いてるのに呑気してられるかよ」
そう言い残すとエルガーは武器をしまいに2階の住居へ向かった。
「……はあ」
冒険から返ってきたばかりだというのに元気なものだと、リーベはため息をついた。
それから絵画の中心に写る男性に目を向ける。
魔物の軍勢を前にしてなお、雄壮と佇むこの男性。 彼女はこの人物が自分の父であるという事に多少の疑念を抱いていた。
準備を終える頃には既に行列ができていた。
開店時間にはまだ早いが、お客さんを待たせるのも申し訳ない。そんな思いでリーベは厨房を覗き込んだ。そこではシェーンが料理をしていたが、彼女は手元に意識を置きながらも娘の声に耳を傾けた。
「ねえ、お客さん待ってるから開けちゃってもいい?」
「ええ。失礼の無いようにね」
「はーい」
リーベは手鏡を取り出し、前髪を整えるとドアを開け、客を迎え入れる。
「いらっしゃいませ! エーアステへようこそ!」
並んでいたのは顔なじみばかりで、客と店員の関係でありながら、ご近所さんのような親しげな挨拶を交わしていった。
狭い店内にはテーブルが6つしかない都合上、相席をしてもらうのが通例であったが、客たちは嫌な顔をせずに快く受け入れてくれた。
「リーベちゃん」
ある客が彼女を呼んだ。それを受けてリーベは埃を立てないように、しかし迅速に向かう。そこには肉付きが良く健康そうな婦人とその夫がいた。
「こんにちはスーザンさん。ダルさん」
「はい、こんにちは」
スーザンという女性は隣で手を弄んでいた夫を小突く。
「ほら、アンタもむっつりしてないで、挨拶くらいしたらどうなんだ?」
「俺は単なる客だ」
武器鍛冶として名高い彼は職人気質であり、人間関係にはとても淡泊であった。それとは裏腹に妻はフレンドリーだった。
「ごめんね? ウチの旦那は愛想がなくて。まったく、シェーンちゃんが羨ましいよ」
そう答えるとスーザンさんは厨房の方へ――シェーンへ向けて手を振った。
彼女とシェーンは……というよりも、彼ら夫妻とエーアステ一家はとても親しくしていたのだった。それは何故かというと、エルガーの剣も、シェーンが愛用するナイフも、全てはダルの作であったからだ。
そうした親交があるが故に、リーベはダルが無愛想であることに何の不満も抱かなかった。
「いえ。お待たせしてすみません。ご注文をお伺いします」
「いつもので頼むよ」
「はい。『鶏のグレントマト煮』と『ザクザクバゲット』ですね」
トマト煮はエーアステの看板メニューで、バゲットと組み合わせ特に人気だった。
それを裏付けるかの如く、周囲からは「同じの!」と手を上げる人が続出した。
「はーい! ありがとうございます!」
開店直後というのはオーダーが重なる為、大変であるのだが、常連の人々は同じ注文をすることによって、料理人に掛かる負担を軽くなるよう、気を遣ってくれるのだった。
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