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弐
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翌日のことです。
昨日はずいぶんと汗をかいたので、井戸水で木綿の着物を洗いました。けれど、薄く綿の入ったこの着物はそう簡単には乾きません。袖や裾の先はまだ湿り気が残っていて、それでも私にはこの一着しかありません。袖を通すと濡れた布の重みが肩にずしんとのしかかり、思わず猫のような背になってしまいます。
大将の話によると、今日も暑くなるようです。
アブラゼミの呼応が響く昼前、昨日訪れた男性が再びいらっしゃいました。
「やあ、こんにちは。今日も日差しが強いですな」
「……っ」
「いやいや、気にしないでおくれ。氷水を1杯もらえますか?」
昨日はせっかく来ていただいたのにすみません。
やはり声が出なかったので、その旨を口の動きで伝えたところ、男性はそれを理解してくれたのです。優しく微笑みながら頷いてくれたので、ずいぶんと心が軽くなりました。
大将が砕いた氷を茶碗に盛る時、ほんの少しだけ氷の山を高くしました。もちろん、他のお客にそのようなことはしません。けれど、冷や水をかけると山は崩れてしまい、心ばかりの行動は意味を成しません。それでもいいのです。
私は男性に氷水の入った器を差し出しました。
「ありがとう。ほう……繊細で透き通る氷、まるで硝子のようだ。氷の質はもちろんのこと、これを砕く大将の技術も素晴らしい。いただきます」
大将を褒めていただいたので、私も嬉しくなりました。男性は木の匙で氷をすくい、それを口に運ぶと目を細めながら口角を上げました。
「きみ、両親はいるのかな?」
私は小さく首を横に振りました。
「見たところ、ここの大将にお世話になっているようだが……」
まだ半乾きだった着物に目を向けたあと、私の顔を見たのです。
「肌や髪の状態から、食事や住まいは提供されているようだね。その代わり、給金は発生しないが店を手伝う。そんなところかな」
私は大きく頷きました。大将は不愛想な面もありますが、物乞いをしていた幼い私を引き取ってくれた優しい人なのです。寝る場所や食事を用意してくれるのですから、給金がほしいと思ったことはありません。このように生きていられるのは、大将のおかげなのですから。
「しかし、なぜこうも暑いのにそのような着物を着ているのか……」
男性は伏し目がちに少し考えたあと、私の手をそっと取りました。
「申し訳ないが、少し腕を見せてくれるかな?」
私はハッとしました。思わず腕を引っ込めようとしましたが、その力には敵いません。男性は私の手首を捉え、肘まで袖を捲ったのです。
「これは……古い傷だが、竹の棒でぶたれたのかい? 竹はよくしなるからね、このような傷を持つ子供を何人も診たんだ。腕だけじゃないだろう? 以前の家で?」
私は間を置いて頷きました。全身にあるこのミミズ腫れのような傷は、誰にも見せたくはありませんでした。これを見る度に、あの時の記憶が蘇ってしまうからです。
「踏み入ってしまってすまない。これでわかった。きみが声を発することができないのは、心的外傷のせいだろう。心の傷は癒すことができるんだよ。そして、きみは話せるようになる。どうだろう、私の屋敷で住み込みで働かないか? 給金も出す。私はね、医者なんだ。きみの治療をさせてほしい」
器の氷はすっかり溶けて、ただの水になっていました。けれど、男性はその水を一気に飲み干し、「ごちそうさま」と静かに器を置きました。
人生というのは、なぜこうも奇怪なのでしょうか。絶望を感じていた時に救いが現れ、この人生で十分だと感じていたところに、さらなる光が手を差し伸べたのです。その光の先がどのような歩みであれ、決断をすることにそう時間はかかりませんでした。
昨日はずいぶんと汗をかいたので、井戸水で木綿の着物を洗いました。けれど、薄く綿の入ったこの着物はそう簡単には乾きません。袖や裾の先はまだ湿り気が残っていて、それでも私にはこの一着しかありません。袖を通すと濡れた布の重みが肩にずしんとのしかかり、思わず猫のような背になってしまいます。
大将の話によると、今日も暑くなるようです。
アブラゼミの呼応が響く昼前、昨日訪れた男性が再びいらっしゃいました。
「やあ、こんにちは。今日も日差しが強いですな」
「……っ」
「いやいや、気にしないでおくれ。氷水を1杯もらえますか?」
昨日はせっかく来ていただいたのにすみません。
やはり声が出なかったので、その旨を口の動きで伝えたところ、男性はそれを理解してくれたのです。優しく微笑みながら頷いてくれたので、ずいぶんと心が軽くなりました。
大将が砕いた氷を茶碗に盛る時、ほんの少しだけ氷の山を高くしました。もちろん、他のお客にそのようなことはしません。けれど、冷や水をかけると山は崩れてしまい、心ばかりの行動は意味を成しません。それでもいいのです。
私は男性に氷水の入った器を差し出しました。
「ありがとう。ほう……繊細で透き通る氷、まるで硝子のようだ。氷の質はもちろんのこと、これを砕く大将の技術も素晴らしい。いただきます」
大将を褒めていただいたので、私も嬉しくなりました。男性は木の匙で氷をすくい、それを口に運ぶと目を細めながら口角を上げました。
「きみ、両親はいるのかな?」
私は小さく首を横に振りました。
「見たところ、ここの大将にお世話になっているようだが……」
まだ半乾きだった着物に目を向けたあと、私の顔を見たのです。
「肌や髪の状態から、食事や住まいは提供されているようだね。その代わり、給金は発生しないが店を手伝う。そんなところかな」
私は大きく頷きました。大将は不愛想な面もありますが、物乞いをしていた幼い私を引き取ってくれた優しい人なのです。寝る場所や食事を用意してくれるのですから、給金がほしいと思ったことはありません。このように生きていられるのは、大将のおかげなのですから。
「しかし、なぜこうも暑いのにそのような着物を着ているのか……」
男性は伏し目がちに少し考えたあと、私の手をそっと取りました。
「申し訳ないが、少し腕を見せてくれるかな?」
私はハッとしました。思わず腕を引っ込めようとしましたが、その力には敵いません。男性は私の手首を捉え、肘まで袖を捲ったのです。
「これは……古い傷だが、竹の棒でぶたれたのかい? 竹はよくしなるからね、このような傷を持つ子供を何人も診たんだ。腕だけじゃないだろう? 以前の家で?」
私は間を置いて頷きました。全身にあるこのミミズ腫れのような傷は、誰にも見せたくはありませんでした。これを見る度に、あの時の記憶が蘇ってしまうからです。
「踏み入ってしまってすまない。これでわかった。きみが声を発することができないのは、心的外傷のせいだろう。心の傷は癒すことができるんだよ。そして、きみは話せるようになる。どうだろう、私の屋敷で住み込みで働かないか? 給金も出す。私はね、医者なんだ。きみの治療をさせてほしい」
器の氷はすっかり溶けて、ただの水になっていました。けれど、男性はその水を一気に飲み干し、「ごちそうさま」と静かに器を置きました。
人生というのは、なぜこうも奇怪なのでしょうか。絶望を感じていた時に救いが現れ、この人生で十分だと感じていたところに、さらなる光が手を差し伸べたのです。その光の先がどのような歩みであれ、決断をすることにそう時間はかかりませんでした。
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