42 / 91
第二章 戴冠式の夜
15 帰宅
しおりを挟む
ベルヒリンゲンに挨拶を済ませた後、セラフィナは頭から外套を被り、ランドルフに支えられるようにして宮殿を出た。馬車は既に手配されており、御者には怪我人を運ぶと伝えてくれていたようだ。無事に乗り込んで外套を外すと、二人は同時に安堵のため息を漏らした。
「緊張しました。誰かに見られることはなかったのでしょうか?」
「ああ、それは問題ない。周囲には人の気配はなかったからな」
傑出した武人であるランドルフが言うのだから間違いないのだろう。セラフィナは今度こそ体の力を抜くと、馬車の角にもたれかかってしまった。
「大丈夫か? やはり体が辛いんだな」
「はい、少し。それに、安心したら何だか気が抜けてしまって」
「遠慮せず横になるといい」
「すみません、では……」
セラフィナは促されるまま横になることにした。以前なら無理して座ったままでいただろうが、ランドルフが何度も頼れと言ってくれるので、最近は少しならいいのかもしれないと思うようになっていたのだ。
睡魔はすぐにやって来た。意識が沈む直前、何か温かいものが体にかけられたような気がした。
心地の良い温かさに包まれている。
こんなに安心できる温度はきっと他にない。セラフィナはこの温かさをもっと味わいたくて頬をすり寄せてみた。するとその何かが驚いたように身じろぎするので、その動きに意識の覚醒を促されていく。
それにつれて今自分が何かによって移動しているらしいことがわかってきた。それは乗っていたはずの馬車ではなく、もう少しゆっくりとした速度で進んでいるようで、同じ間隔で小さく揺れるのだ。
これは一体どうしたことだろう。
疑問に導かれるまま目を開けたセラフィナは、すぐ上にランドルフの顔を見つけて、飛び上がらんばかりに驚くこととなった。
「ランドルフ様! え……え? これは一体」
「ああ、起こしてしまったか」
ランドルフは言いつつ、何故だかやけに険しい顔をしていた。怒ってはいないようだけれど、一体どうしたのだろうか。しかしそんな疑問も、状況を理解した瞬間に遠くへと吹き飛んでいった。
そう、セラフィナはランドルフによって横抱きに抱え上げられていたのだ。どうやら自分は彼の胸にすり寄っていたらしいと解って、無意識とはいえ子供のようなことをしてしまった恥ずかしさに頬が熱くなる。
妙に暖かいと思ったら体には二枚分の外套が巻き付けられており、少しの隙間風も入ってくることができないようになっていた。いつの間に到着したのか、ここはアイゼンフートの屋敷の庭で、ランドルフはどうやら寝入ってしまったセラフィナを運んでくれているらしい。
「わ、私歩けます! 重いでしょう? ですからどうか降ろしてください!」
「重くない、軽すぎて心配になるくらいだ。いいから気にせず運ばれていろ」
だめだ、こんな事をされては心臓が口から飛び出てしまうかもしれない。
セラフィナは更に言い募ろうと口を開いたのだが、それはランドルフがセラフィナの顔を上半身ごと逞しい胸に押し付けたことによって叶わぬ願いとなった。
「——静かにしているんだ。いいな?」
セラフィナは最早頷くことすらできずにただ硬直したのだが、ランドルフはそれを応と捉えたらしい。やがて元のように抱え直すと、次いで視線を遠くへと飛ばした。
「ディルク、いつから待っていたんだ?」
「旦那様! 奥様!」
ランドルフの呼びかけに応え、玄関先から走り寄って来たのはディルクであった。彼は息を切らせたままセラフィナの顔を覗き込むと、その瞳に涙を滲ませる。
「ああ奥様、なんとおいたわしいお姿に」
「ディルクさん……心配かけてごめんなさい」
「何をおっしゃいます。このじいはお二人が無事に戻ってくださって感無量でございます」
その目を見れば一体どれほど心配をかけてしまったのか知ることができた。どこかやつれたようにさえ見えるその姿に胸が苦しくなる。
「ディルク、看病の準備はできているな」
「もちろんにございます」
「食事は」
「食べやすいものをご用意してございます」
二人はそのやり取りの間も一切足を止めることはなく、すぐに玄関へと到着した。するとそこではこの家に仕える全員が集まっていて、いつもの落ち着きをなくした彼らが一斉に駆け寄ってくる。こんなにも心配をかけてしまい申し訳なくなると同時に、彼らの優しさに胸が熱くなった。
そしてセラフィナはここへ来てある事に思い至っていた。
使用人達にハイルング人である事を隠し通す以上、歩く姿を見せるわけにはいかなかったのだ。だからランドルフは最初から運んでくれるつもりでいたのだろう。それなのにあんなに狼狽してしまい、心底恥ずかしくて仕方がない。
ああ、何だかこの気持ちに気付いてから、いたたまれない思いばかりしているような。
「お前達、いい加減落ち着かんか。セラフィナはこの通り無事だ。十日ほどで回復するだろうとベルヒリンゲン閣下が仰せである」
ランドルフの言葉に、彼らは一様に安堵の溜息をついたようだった。女性陣などはほとんど涙をこぼしているし、ネリーに至っては最初から号泣状態だ。
もう治っているのに本当のことを言えない事がもどかしい。彼らにとって良い主でいたいのに、信頼を裏切るようなことをしてばかりだ。
「エルマ」
「はい、旦那様」
エルマは目を赤く晴らしていたが涙をこぼしてはいなかった。彼女はランドルフの呼びかけに礼を取って見せると、意志の強そうな瞳を雇い主へと向けた。
「セラフィナの看病について二、三申し付ける。あとで部屋に来るように」
「畏まりました」
そして今、何も知らない彼女を巻き込もうとしている。
ごめんなさい、エルマ。胸中で呟いたセラフィナは、抗いがたい眠気を感じるままに目を閉じた。
「緊張しました。誰かに見られることはなかったのでしょうか?」
「ああ、それは問題ない。周囲には人の気配はなかったからな」
傑出した武人であるランドルフが言うのだから間違いないのだろう。セラフィナは今度こそ体の力を抜くと、馬車の角にもたれかかってしまった。
「大丈夫か? やはり体が辛いんだな」
「はい、少し。それに、安心したら何だか気が抜けてしまって」
「遠慮せず横になるといい」
「すみません、では……」
セラフィナは促されるまま横になることにした。以前なら無理して座ったままでいただろうが、ランドルフが何度も頼れと言ってくれるので、最近は少しならいいのかもしれないと思うようになっていたのだ。
睡魔はすぐにやって来た。意識が沈む直前、何か温かいものが体にかけられたような気がした。
心地の良い温かさに包まれている。
こんなに安心できる温度はきっと他にない。セラフィナはこの温かさをもっと味わいたくて頬をすり寄せてみた。するとその何かが驚いたように身じろぎするので、その動きに意識の覚醒を促されていく。
それにつれて今自分が何かによって移動しているらしいことがわかってきた。それは乗っていたはずの馬車ではなく、もう少しゆっくりとした速度で進んでいるようで、同じ間隔で小さく揺れるのだ。
これは一体どうしたことだろう。
疑問に導かれるまま目を開けたセラフィナは、すぐ上にランドルフの顔を見つけて、飛び上がらんばかりに驚くこととなった。
「ランドルフ様! え……え? これは一体」
「ああ、起こしてしまったか」
ランドルフは言いつつ、何故だかやけに険しい顔をしていた。怒ってはいないようだけれど、一体どうしたのだろうか。しかしそんな疑問も、状況を理解した瞬間に遠くへと吹き飛んでいった。
そう、セラフィナはランドルフによって横抱きに抱え上げられていたのだ。どうやら自分は彼の胸にすり寄っていたらしいと解って、無意識とはいえ子供のようなことをしてしまった恥ずかしさに頬が熱くなる。
妙に暖かいと思ったら体には二枚分の外套が巻き付けられており、少しの隙間風も入ってくることができないようになっていた。いつの間に到着したのか、ここはアイゼンフートの屋敷の庭で、ランドルフはどうやら寝入ってしまったセラフィナを運んでくれているらしい。
「わ、私歩けます! 重いでしょう? ですからどうか降ろしてください!」
「重くない、軽すぎて心配になるくらいだ。いいから気にせず運ばれていろ」
だめだ、こんな事をされては心臓が口から飛び出てしまうかもしれない。
セラフィナは更に言い募ろうと口を開いたのだが、それはランドルフがセラフィナの顔を上半身ごと逞しい胸に押し付けたことによって叶わぬ願いとなった。
「——静かにしているんだ。いいな?」
セラフィナは最早頷くことすらできずにただ硬直したのだが、ランドルフはそれを応と捉えたらしい。やがて元のように抱え直すと、次いで視線を遠くへと飛ばした。
「ディルク、いつから待っていたんだ?」
「旦那様! 奥様!」
ランドルフの呼びかけに応え、玄関先から走り寄って来たのはディルクであった。彼は息を切らせたままセラフィナの顔を覗き込むと、その瞳に涙を滲ませる。
「ああ奥様、なんとおいたわしいお姿に」
「ディルクさん……心配かけてごめんなさい」
「何をおっしゃいます。このじいはお二人が無事に戻ってくださって感無量でございます」
その目を見れば一体どれほど心配をかけてしまったのか知ることができた。どこかやつれたようにさえ見えるその姿に胸が苦しくなる。
「ディルク、看病の準備はできているな」
「もちろんにございます」
「食事は」
「食べやすいものをご用意してございます」
二人はそのやり取りの間も一切足を止めることはなく、すぐに玄関へと到着した。するとそこではこの家に仕える全員が集まっていて、いつもの落ち着きをなくした彼らが一斉に駆け寄ってくる。こんなにも心配をかけてしまい申し訳なくなると同時に、彼らの優しさに胸が熱くなった。
そしてセラフィナはここへ来てある事に思い至っていた。
使用人達にハイルング人である事を隠し通す以上、歩く姿を見せるわけにはいかなかったのだ。だからランドルフは最初から運んでくれるつもりでいたのだろう。それなのにあんなに狼狽してしまい、心底恥ずかしくて仕方がない。
ああ、何だかこの気持ちに気付いてから、いたたまれない思いばかりしているような。
「お前達、いい加減落ち着かんか。セラフィナはこの通り無事だ。十日ほどで回復するだろうとベルヒリンゲン閣下が仰せである」
ランドルフの言葉に、彼らは一様に安堵の溜息をついたようだった。女性陣などはほとんど涙をこぼしているし、ネリーに至っては最初から号泣状態だ。
もう治っているのに本当のことを言えない事がもどかしい。彼らにとって良い主でいたいのに、信頼を裏切るようなことをしてばかりだ。
「エルマ」
「はい、旦那様」
エルマは目を赤く晴らしていたが涙をこぼしてはいなかった。彼女はランドルフの呼びかけに礼を取って見せると、意志の強そうな瞳を雇い主へと向けた。
「セラフィナの看病について二、三申し付ける。あとで部屋に来るように」
「畏まりました」
そして今、何も知らない彼女を巻き込もうとしている。
ごめんなさい、エルマ。胸中で呟いたセラフィナは、抗いがたい眠気を感じるままに目を閉じた。
1
あなたにおすすめの小説
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
侯爵家の婚約者
やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。
7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。
その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。
カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。
家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。
だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。
17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。
そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。
全86話+番外編の予定
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi(がっち)
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
見た目は子供、頭脳は大人。 公爵令嬢セリカ
しおしお
恋愛
四歳で婚約破棄された“天才幼女”――
今や、彼女を妻にしたいと王子が三人。
そして隣国の国王まで参戦!?
史上最大の婿取り争奪戦が始まる。
リュミエール王国の公爵令嬢セリカ・ディオールは、幼い頃に王家から婚約破棄された。
理由はただひとつ。
> 「幼すぎて才能がない」
――だが、それは歴史に残る大失策となる。
成長したセリカは、領地を空前の繁栄へ導いた“天才”として王国中から称賛される存在に。
灌漑改革、交易路の再建、魔物被害の根絶……
彼女の功績は、王族すら遠く及ばないほど。
その名声を聞きつけ、王家はざわついた。
「セリカに婿を取らせる」
父であるディオール公爵がそう発表した瞬間――
なんと、三人の王子が同時に立候補。
・冷静沈着な第一王子アコード
・誠実温和な第二王子セドリック
・策略家で負けず嫌いの第三王子シビック
王宮は“セリカ争奪戦”の様相を呈し、
王子たちは互いの足を引っ張り合う始末。
しかし、混乱は国内だけでは終わらなかった。
セリカの名声は国境を越え、
ついには隣国の――
国王まで本人と結婚したいと求婚してくる。
「天才で可愛くて領地ごと嫁げる?
そんな逸材、逃す手はない!」
国家の威信を賭けた婿争奪戦は、ついに“国VS国”の大騒動へ。
当の本人であるセリカはというと――
「わたし、お嫁に行くより……お昼寝のほうが好きなんですの」
王家が焦り、隣国がざわめき、世界が動く。
しかしセリカだけはマイペースにスイーツを作り、お昼寝し、領地を救い続ける。
これは――
婚約破棄された天才令嬢が、
王国どころか国家間の争奪戦を巻き起こしながら
自由奔放に世界を変えてしまう物語。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる