【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

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第二章 戴冠式の夜

16 見えてくるもの

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 結論から言えば、エルマは「そうだったのですか。驚きました」という一言でもってセラフィナの秘密を受け止めるという力技を見せてくれた。
 この国に来て秘密を打ち明けたのはこれで五人目だが、いくらなんでも全員あっさりしすぎではないかと思う。それでもやはりハイルング人だからと蔑まれないのは、セラフィナにとって本当に嬉しいことなのだった。
   

 寝室での食事の後、エルマに淹れてもらったお茶を飲んで一息ついたセラフィナは、食器の片付けに勤しむ彼女の背中を見遣る。話をする前は沈痛な面持ちをしていた彼女も、今は元気を取り戻した様で、いつもの軽快なフットワークを見せてくれていた。
 その光景を微笑ましく眺めつつ、セラフィナはそろそろ風呂に入ろうかと腰を上げる。なにせ昨日は体を拭くことすらしていないので、匂いやその他諸々気になっていたのだ。
 しかし自身の体力を過信しすぎていた様で、なんとまたしても足をもつれさせてしまった。
 今日はこれで二度目だ。学習しない愚かな自分を呪いながら、頭から床に突っ込む未来を受け入れた……はずだったのだが。

「奥様!」

 鋭く叫んだエルマは、猛然と走り出すとあっさりとセラフィナを受け止めてみせたのである。反動に揺らぐことすらなかったその細い体に驚きつつ見上げれば、優秀な専属使用人は安堵の表情を浮かべていた。

「奥様、大丈夫ですか?」
「ええ、エルマ。ありがとうございます」

 今起きた事が信じられないまま、彼女に助けてもらって身を起こしたセラフィナは、その疑問を口にすることにした。

「エルマ、あなたは、力持ちなんですね」

 一体その華奢な体のどこにそんな力を隠していたのだろうか。セラフィナの真っ当な問いに頷いたエルマは、事もなげに答えてくれた。

「ええ私、少し前まで兵士だったんです」
「兵士、ですか!?」

 あまりに予想外すぎるその経歴に、セラフィナは驚きの声を上げた。確かに動きが機敏で視野が広いところがあるとは思っていたが、まさか兵士だったとは。

「もちろん下っ端ですよ。しかし四年前の終戦で職を失いまして、使用人に転職したんです」
「四年前? ということは……失礼ですが、おいくつですか?」
「二十三歳です」
「歳上だったのですか!?」

 驚きに次ぐ驚きに、セラフィナは今までのイメージが崩れ去っていくのを感じた。幼げな顔立ちに似合わぬ落ち着いた言動も、二十三という年齢を鑑みれば納得がいく。

 それに、兵士というなら他に辻褄が合うことがたくさんあった。前の職場で男を張り倒したこととか、たった二時間で刺繍用具を買い揃えてきたこととか、ランドルフを含めた男性陣にも一切物怖じしない様子とか。

「そもそもこちらで雇って頂けたのも、その経歴を良しとしてくださったお陰なんですよ。旦那様は使用人が護衛も兼ねるならそれに越したことはないとお考えになったようですね」
「そうだったのですか……」

 次々発覚する事実は初めて聞く話ばかりで、それは知ろうとしていなかったからだと思い知らされた様な気がした。
 今までのセラフィナはランドルフへの恩を返したいという思いと、国同士の争いを生むわけにいかないという緊張感にばかり囚われて、周囲をよく見ようとすらしていなかったのだ。
 これからはもっと立派な侯爵夫人になりたい。使用人達のこともよく知り、慕ってもらえるような、そんな人に。

「エルマ。改めて、私の出自を受け入れて下さってありがとうございました。私、もっと頑張りますから……だからこれからも、よろしくお願いしますね」

 微笑んでそう告げれば、エルマは恭しく礼を取ってくれた。そうして向けられる強い瞳は、その黒の深みも相まって、やはりとても好ましかった。

「勿体無いお言葉でございます。ますます力を尽くして邁進していく所存にございますので、私の方こそどうぞよろしくお願いいたします」



 エルマは今日だけは入浴を手伝うと言って聞かなかった。何もないところで足を縺れさせるくらいなのだから彼女の心配も尤もだったが、やはり裸を見られるのは抵抗がある。しかし一度断ったものの「どうしても心配なんです、お願いします」と頭を下げられてしまえば何も言えず、セラフィナは成長してから初めて他者に入浴を手伝ってもらうことになった。

「お背中お流しします」
「お願いします」

 エルマは手際よく、優しくセラフィナの背中を擦っていく。初めは裸を見られる羞恥に身を固めていたのだが、彼女が背中の傷を見ても顔色一つ変えず、何も言わなかったのを見てほっと力を抜いた。
 思えばいくつかの着付けの際、エルマも、そして他の使用人達も、傷が見えたこともあっただろうに何も言わなかった。彼女達は恐らくセラフィナに複雑な事情があることを察していて、それなのに黙って仕えてくれているのだろう。

「それにしても、奥様は見た目の印象よりずっとお胸が大きいのですね」
「……ええ!?」

 改めて彼女らへの感謝を噛み締めていたのだが、エルマが予想外の発言をぶつけてきたため大きな声を上げてしまった。彼女は背後に居るのでそうする意味がないのもわかっているが、思わず胸を両腕で覆う。

「着痩せするタイプというやつですね。羨ましいです」
「な、なにを言うのですかエルマ!」
「いえ、だって。こんなに華奢でいらっしゃるのに、ちょっとすごいなと。お尻もお綺麗ですし、悩ましいですよね」
「悩ましい……!? い、いえ、でも!」

 でも、今まで何もなかった。あの方は私に指一本触れてくださらない。
 こぼれ落ちそうになった言葉は、寸でのところで口の中に消えた。今更のように現実を思い知らされて、セラフィナはあまりの衝撃に固く口を噤む。

「……いいえ。何でも」
「そうでございますか? ですがお肌も白くてとってもお綺麗なのですから、私としてはもっと胸の空いたドレスなども——」

 エルマは色々と誉めそやしてくれたが、もう何も頭に入ってくることはなかった。今までその事実に悩むことがなかったのが信じられず、以降呆然ととされるがままになっていたのだった。



 そうして無事入浴を終えると、エルマは何かあったらお呼びくださいと言い残して退室していった。セラフィナは独り寝室のベッドに取り残されたのだが、頭の中はある思考で埋め尽くされていた。
 結婚して二週間、未だランドルフに求められたことはない。横たわる大きな背中に、疲れているんだろうなと呑気に考えあっさりと寝てしまっていたのだが、今は到底そんな風には考えられそうになかった。
 要はセラフィナはランドルフにとって抱く気にならない妻なのだ。彼にとっては後継問題はかなりの重要事項のはずで、それなのに何もないということはつまり、よっぽど興味が持てないということなのではないか。
 多大なる衝撃に全身から力が抜けるような感覚を覚えて、セラフィナはそのままベッドに突っ伏した。
 はしたないことを考えているのはわかっている。図々しいのも百も承知だ。それでも好きな人、それも夫と毎日共に寝ていたのに何もなかったという純然たる事実は、信じられない程にセラフィナを打ちのめしていた。
 そうしてしばらく心を落ち着けようと静かにしていたのだが、突然鳴り響いたノックの音に、努力もむなしく心臓を飛び上がらせてしまった。

「はい……!」

 慌てて身を起こし、無理やり発した返事は無様に掠れていた。それに応えるタイミングで開かれた扉の先には、予想通りランドルフが立っていた。

「起こしたか」
「い、いいえ。起きておりました」
「……そうか? 体調はどうだ」
「はい、帰ってきたら安心して、元気が出たような気がします」
「なら良いが」

 彼はセラフィナの掠れ声を寝起きゆえと思ったらしく、怪訝そうな顔をしていたがそれ以上は追求してこなかった。まさか貴方と共に寝ることについて考えていましたと白状する訳にもいかないので、好機とばかりに話題を変えることにする。

「丸一日空ける形になってしまいましたが、家のことは大丈夫でしたか」
「それなら問題ない。以前は長期間空けることも多かったし、大体のことはディルクが把握している」
「そうでしたか。ディルクさんにも一度きちんとお礼を申し上げておかなければ」
「ディルクは礼など必要無いと言うと思うがな。まあ随分貴女の無事を喜んでいたから、明日にでも話を聞いてやるといいだろう」

 他愛ない会話はセラフィナの心を落ち着けるのに一役買ってくれた。しかしランドルフがランプの火を消し、なんでもないことのように同じベッドに潜り込んできた段階になって、その効果は呆気なく霧散した。緊張のあまり体を硬くするが、彼は全くいつもの調子で妻の異変に気付く様子はない。

「お休み」
「お休み……なさいませ……」

 ランドルフは短く挨拶すると、いつものように背を向け横たわった。ややあって規則正しい寝息が聞こえてきて、どうやら彼が完全に寝入ってしまったことを知ると、セラフィナはようやく息を吐く。
 そうだ、いくらなんでも意識しすぎなのだ。好きになってしまったのは自分だけで、彼自身は今までとなんら変わりないのだから。
 セラフィナは思わず自嘲をこぼし、力なくシーツへと身を沈めた。
 この優しい人を、勅命だからと縛り付けてしまっている。
 ランドルフは主君の命に従って仕方なく結婚したというのに、今では彼の側に居られる事に胸が震えるほどの幸せを感じてしまう。その事実は鋭い棘となってセラフィナの心を苛んでいた。

 ああ、私は。なんて身勝手で浅ましいのだろう。

 暗澹とした気持ちを抱えたセラフィナは、暗い気分を打ち消すように首を横に振った。
 国のため、ほとんど押し付けられるようにここへやって来た。そんな自分の全てを受け入れてくれたランドルフに対し感謝こそすれ、それ以上を求めて良い筈もない。好きになったのは自分の勝手だ。だからこの気持ちは胸にしまったまま、ただ彼にふさわしい妻になれるよう努力すればいいだけのこと。
 振り返ることのない背中を見つめるうちに、いつしか睡魔が忍び寄って来る。決意を固めてしまえば少しは気が楽になり、力の後遺症に悩まされる体はあっさりと意識を手放していた。
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