【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

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第二章 戴冠式の夜

22 この部下、有能なり

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 真冬の朝は身を切るような冷気が心地いい。
 冷えた空気の中にいると、頭が冴え、感覚が研ぎ澄まされ、集中力が高まっていくのを感じる。
 しかしこの清々しい朝にあって、素振りに精を出す黒獅子将軍の面構えは凶悪だった。
 早朝であるにも関わらず、練兵場には幾人かの熱心な軍人たちが鍛錬に訪れていたのだが、彼らは遠巻きにその鬼気迫る素振りを見つめるばかりだ。

「お、おい。せっかくアイゼンフート少将が鍛錬にいらしてるんだぜ? 稽古、付けてもらいたいよな」
「そりゃそうだけどさ……俺には無理だ、声なんてかけられねえ。なんであんな凄い気迫で素振りしてんだよ? 怖い」
「でもさ、確かに滅多にない機会だよな。練兵場に来た途端にいつもは囲まれちまうだろ?」
「確かにそうだな。うん、だったらお前らで行けよ。俺は後から行く」
「それはずるいだろ!?」

 数人でもみ合う若い士官たちの様子も意識の外に締め出したランドルフは、無心になってひたすら回数を数えていた。
 876、877、878、87ーー

 しかしそこで、昨晩の出来事を思い出してしまった。

 恥ずかしそうに伏せられた金の睫毛。花のような笑顔。そして華奢な手で差し出された、手作りのお守りーー。

「……879っ!」

 数字を唱えた声は、もはや獣の咆哮じみていた。何回かカウントをもらした気がするが、これは先程から繰り返された愚行だった。
 そもそも浮き足立つ心を鎮めるために始めた鍛錬だったのに、これでは何の効果もないではないか。腕の適度な疲労感を鑑みるに、既に千回に到達しているような気がする。

 880、881、882、883、884ーー。



 ようやく1000回に達しようかという頃、始業十五分前を告げる荘厳な鐘の音が響き渡った。
 目標は1500回だったというのに、なんという腑抜けぶりだ!
 ランドルフは自分の頬を両手で思い切りひっぱたいた。若い士官たちはその鋭い音にびくりと肩をすくませたのだが、戦において並々ならぬ感の良さを発揮するはずのランドルフは、そこでようやく彼らの存在に気付く。
 自らの感覚がここまで鈍ってしまったことを目の当たりにして、天下の黒獅子将軍はあまりの情けなさに肩を落とすのだった。



 士官用の浴場で真冬であることも顧みずに水を頭から被ると、その場でしゃがみ込みたくなる衝動を堪えて軍服を纏う。色ボケて遅刻だなんてそれこそ同僚達に顔向けできない。
 濡れた髪のまま廊下を歩くランドルフは、顔を引き締めようとするあまりに輪をかけて凶悪な面構えになっていた。親しんだ者でも驚くであろうほどの凶相に、慣れているわけでもない者達は一斉に道を譲る。
 そしてあの人一倍臆病な男が、そんな上官を見て平常心でいられるはずもなかった。

「ひ、ひえええええ!? し、少将閣下、どうされたのです!? 私が何か致しましたのなら平身低頭にて平謝りしますので、何卒おおおお」
「やめんか、ケッシンガー少佐! 誰が貴様に謝れなどと言った!」

 廊下での出会い頭にひれ伏そうとしたケッシンガーを一喝し、ランドルフは今更のように自身の表情に思い至って閉口した。シュメルツに「照れると顔が怖くなる」と指摘されたのは、つい最近の事だったか。

「……私に何か用か」

 あまりの不甲斐なさに舌打ちをしそうになるのを堪えつつ問いかければ、ケッシンガーは瞬きを一つしてまじまじとこちらを見つめてきた。その呆けた顔は一体何だ。

「ケッシンガー少佐。いい加減にしないか」
「へっ……? あ、ああ! 申し訳ありませんでした! 少将の様子がおかしいので、驚いてしまいまして!」

 まったく臆病な割に素直な男だ。ケッシンガーは再度「申し訳ありません」と言ってひょろ長い体を折り曲げると、手にした書類を差し出してきた。

「昨日の参謀会議の報告書です。ご確認よろしくお願い致します」
「ご苦労、確かに受け取った。ああそうだ、ケッシンガー少佐に渡す書類があったな。今取りに来てもらえるか」
「は!」

 先立って歩き出したランドルフに、ケッシンガーも一歩遅れて付いてくる。彼はしばらく迷うような素振りを見せていたが、最終的には目線をそらしつつ問いを口にした。

「少将閣下、その……なにやら、覇気がないようにお見受け致しますが」
「そう見えるか」
「はい。恐れながら」

 覇気がない、か。心の中で独りごちると、もう自嘲せずにはいられなかった。
 本当に何という腑抜けぶりだ。離縁を予定している妻に惚れ、彼女を守りきれなかったばかりか、床に伏していたはずの彼女に気遣われて、あまつさえ浮かれ上がって部下に心配をかけるとは。
 いい加減にしなければならないのは私のほうだ。軍の幹部とはこんな浮ついた心で務めていい仕事ではない。平時とはいえ、この双肩には陛下から預かった二万人の部下の命がかかっているのだから。
 気にするな、何ともないんだ。
 ランドルフはそう口にしようとした。しかし足を止めた拍子に自身の軍服のポケットから滑り落ちたあるものを目の当たりにして、あっさりと平静を失ってしまう。
 セラフィナが縫ってくれたお守りは、足元で一度跳ねてから地面に着地した。
 こんなに大事なものを落としてしまうとは。焦りに突き動かされるままに、目にも止まらぬ速さでお守りを拾い上げた瞬間。
「それは……?」という怪訝そうな声が耳朶を打った。
 ケッシンガーは不思議そうにランドルフの手元を凝視している。その瞳が確信を得て輝くのを、ランドルフは絶望的な気分で眺めていた。

「なるほど! 奥方様からの贈り物ですね!」

 全て合点がいったとばかりに両手を打ち鳴らしたケッシンガーは、それはそれは嬉しそうに破顔して見せた。

「いやあ、素敵な奥方様ですね! 元気におなりのようで、安心いたしました」
「ケッシンガー少佐、少し声を落としてくれないか」

 チラチラと向けられる好奇の視線に耐えられなくなり、ランドルフは額を片手で覆った。ケッシンガーは顔が少しでも隠れていればそんなに怯えずに済むのか、「失礼しました」とだけ言い置いて話を続ける。

「手作りですよね? 良いですね、羨ましいです。うちの奥さんもそういう事をしてくれたらなあ」

 ケッシンガーはこの性格から想像がつくように、確か恐妻家だったはずだ。平民の出ながら軍人として順調に出世する彼は、十年ほど前に幼馴染と結婚して今は二児の父となっている。

「参考までに伺いたいのですが、少将は普段奥方様にどんな贈り物をなさっているのですか?」

 そんな彼の質問に、ランドルフは盛大に思考回路を停止させた。
 贈り物。贈り物? ——贈り物など、一度もしたことがないではないか!
 信じられない。なぜ今まで一度も思い至らなかったのか。
 女性の好むものなど全くわからないと自負するランドルフは、セラフィナを迎える前の家具やドレスの調達も全てエルマやネリー達に任せていた。だが結婚してからも自分で選んだものを贈ることをしなかったのは、どうやらひとえに失念していたせいらしい。
 自身の度を越した朴念仁振りに呆然とするランドルフは、以降何かしら話しかけてくるケッシンガーを上の空でいなしつつ、執務室への道を辿っていった。
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