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2章 陰陽寮
17話 陰陽師、体を清める
しおりを挟む安倍叡明邸に到着してから半刻後――
「はあ、生きかえる~」
酉二刻。清士郎は湯殿で沐浴していた。
先に食事にするか訊ねられたが、体が長旅で薄汚れていたためにこちらを選んだ。
立派な湯殿だった。
通常の貴族邸では沐浴のたび、渡殿や下屋の一角に浴槽を置いてそこに湯殿を設える。だがこの安倍邸では通常の貴族邸の倍以上の広さがあるためか、専用の湯殿が設えられているのだった。
清士郎はそこで湯帷子をまとい、湯浴みして全身の垢と汚れを落としていた。
「清士郎さま……くれぐれもお気をつけください。どんな罠がしかけられているか」
「まあそう気を張ってもしかたなかろう」
周囲を警戒しつづけている小さな白鼬――凍砂に、清士郎は肩をすくめる。
陰陽寮に直接行くものと思っていたので、いきなり叡明の屋敷に連れてこられ、清士郎自身も図られたのではと一時は疑心暗鬼であった。
だが叡明から話を聞き、一応は納得した。
(確かに穢れた体で参内はできないからね)
陰陽寮のある大内裏は帝もいる本丸。
できるかぎり穢れを内にいれるのを避けるため、京外に出たものはこうして体を清め、穢れを祓って参内するという規則があるらしい。
なので今日のところは、ここで体を清めがてら一泊してほしいとのことだった。
陰陽寮で明日ちょうど集会が開かれるので、そこからの参加が区切りもいいらしい。
(ま、罠じゃないという確信はないけど)
特に不自然な点もない。
清士郎は最低限の警戒をしつつも、ひとまず安倍邸でのもてなしに身をゆだねていた。
とはいっても、背中を流してくれるという下女の申し出は断ったのだが。悪意はないだろうが、さすがに気を許す気にはなれない。
「ここはあの男の屋敷なのですよ! どれだけ警戒してもしすぎということはないはず」
「まあまあ、お前もこっちへ来いって」
清士郎は凍砂をつまみあげる。
「清士郎さま……しかしっ!」
「お前も薄汚いままでは気持ちが悪かろう」
湯を張った盥に浸からせると、手でごしごしと体の汚れを落としてやる。
頭部にかからないように気をつけつつ、胴から足先まで念入りに洗っていく。
「せ、清士郎さま……んああああっ…………そ、そんなとこっ……だめですよお……!」
「変な声を出すな、沈めるぞ」
恍惚とした顔をする凍砂を呆れた顔で洗ってやっていると、そのときだった。
一人と一匹しかいなかった湯殿に――
「……っ」
何者かが侵入してくる足音。
慌てて入口に視線をやる。
(叡明……!?)
あろうことか、安倍叡明その人であった。
清士郎はやはり罠だったかと慌てて腰を浮かせ、しかしそうではないとすぐに気づく。
叡明は湯帷子をまとっている上に、その後ろには下女が付きしたがっていて、誰がどう見ても沐浴をしにきただけだったからだ。
「湯殿はここしかないのでな」
言いながら、清士郎の側に腰掛ける叡明。
清士郎は慌てて凍砂を盥に沈めると、「いえいえいえ!」とぶんぶん首を振る。
「叡明さまを差し置いて申し訳ありません」
「問題ない。それよりもすでに部屋に夕餉の準備が整っている。腹が減っているだろう」
「そんな、何から何まで……!」
「俺が連れて来たのだ。その責がある」
叡明はその想像以上に引き締まった上半身をはだけると、下女に湯をかけさせながら、おもむろに自身で体の汚れを落としはじめる。
しばし無言の時間が流れ――
「玉藻……という名に心当たりはあるか?」
唐突に、叡明はそんな質問をしてくる。
ドキッ、と清士郎の心臓が跳ねあがる。
内心では全力で焦りながらも、それをどうにか表には出さず落ちついて返答を試みる。
「ええ……それはもちろん。先の大戦で叡明さまが討伐した九尾の狐の真名ですよね」
当たり障りのない答えを返す。
それが何か? と何気なく付けくわえた。
「烏天狗襲撃の晩のことだが……あの“裂”のとき、それの霊圧を感じた気がした」
「!?」
心臓がとまりそうになった。
なぜそんな話をしてきたのか、真意がわからないのも恐ろしかった。単に思いつきで話しているのか、あるいは清士郎を疑っているのか。
「……まあ、ありえぬことだがな。奴を看取ったのは他ならぬ俺自身なのだから」
叡明はすぐにそう言葉を継いだ。
そこで前者の説が濃厚になり、清士郎はゆっくりと呼吸と肺の活動を再開した。
「僕も逃げるのに必死だったので確かなことは言えませんが……少なくとも、あれは九尾の狐には見えませんでしたね。しかし間違いなく強大なモノノ怪だったため、霊圧もどこか玉藻に似るところがあったのかもしれません」
ふむ、と叡明はしばし口ごもる。
「そう……やもしれぬな」
「あの、僕はそろそろ……」
叡明がこちらを見ていないのを確認し、清士郎は盥でぶくぶくと死にかけている凍砂をつまみあげ、そそくさと湯殿からの離脱を図る。
だがぎりぎりで叡明に呼びとめられる。
「清士郎」
「……はい?」
びくっと身を震わす清士郎。
「お前には……期待している。かの天狐といい、最近になってモノノ怪は奇っ怪な力を手にしたようだ。戦力が喉から手が出るほど欲しい」
「ご期待に沿えるようにがんばります」
落ちついてそう答え、湯殿を脱出。
どうにかうまく逃げられたようで、ほっと胸をなでおろす清士郎なのだった。
しかし安心しきったとき――
「……?」
視線を、感じた。
その視線の元は、庭の透垣からであった。
透垣越しで顔ははっきりしないが、衣冠姿の若い男に見えた。立ち姿から齢は清士郎より少し上――ちょうど善吉や幸吉ぐらいか。
清士郎が目を向けると、男はびくっと身を振るわせ、慌ててその場を離れていった。
(家のもの……か?)
だがそれにしては挙動が不審だったし、視線もどことなく嫌な感じだった気がする。
ふむ、と眉をひそめる清士郎なのだった。
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