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ペルシャの市場にて(2)丼が呼んでいる
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最初は引っかけるように、情熱的に。
「違う。もっとねちっこくていい」
数音弾いたところで、貴音が弓を止めた。貴音と理生は日課の練習をしているところだった。バイオリンとピアノを、一緒のタイミングで弾けばいいというわけではない。音楽性を合わせ、一つにしていかなくてはならない。
それは、魂を擦り合わせているようなものだと理生は思った。合う相手とならピタリと合うし、合わないとなれば、とことん、どこかしっくりこない。大学時代に伴奏の経験はあるが、理生は、伴奏は意外と気を使うものだと知った。
今取り掛かっているのはサラサーテの「カルメン幻想曲」。情熱的で華麗な技巧を必要とする曲だ。
貴音は音楽で、妥協しない。他人にも、それよりもまして自分に。そのことに、理生はすぐに舌を巻いた。音大生は練習時間を多く取っているのが普通だが、まさか、貴音がそれを上回る練習時間と密度を持っているとは、誰も知らないのではないか。
天才だから。あの、名バイオリニスト、イリーナの息子だから。
そんな感じで、できて当たり前、できるもの、そんな風に思っていた多くの内の一人であった事に、理生は恥じ入った。
こんな努力家はいない。こんなに真摯に音楽に向き合ってる人間を知らない、と。
「今ので。少し休憩しようか」
教授にしごかれるよりもきつい。理生は、ふう、と息をついた。
少し離れた所で見ていたミハイルが冷たい果実水を用意してくれていたのを、理生はありがたく、ゴクゴクと飲んだ。
トビーは、最初は見た事の無い楽器に興味津々だったのだが、練習の雰囲気に押され、同じように息を殺して見ていた。
「何か、厳しいんだな」
言われて、貴音が当然の如く返す。
「プロとして、納得できない演奏は許されない。練習は最低限の義務だからな」
言って、少し離れた所で1人黙々と、さらう。
「意外?」
ミハイルが訊く。
「まあ。でも、これができるのがプロなのかなあ」
「タカネは特別かもねえ。イリーナ叔母さんは音楽しかない人だったから、タカネが物心つくかつかないかの頃から、虐待と言われても仕方のないくらい、練習を課して来たんだよ。実際、倒れて入院したこともあるしね。
それでもタカネは、やるしかなかったんだよ。うちの家系は音楽家の家系で、音楽家でなければヤノーチェフにあらず、という感じで。反対されて結婚して生まれたタカネは、イリーナ叔母さんの為にも、本物の音楽家にならなければいけなかったんだ。
反対に、父方は東大卒でなければ、っていう家系で、そっちではタカネは、何としてでも東大に入らなければいけなかったんだ。叔父さんの為に。叔父さんはそんな事、言わないけどね。
大変だよ。親が、反対を押し切って結婚して生まれた子供は」
「何とも、重圧が物凄いんだな」
理生もトビーも、想像するだけで溜め息が漏れた。
「まあ、世間では天才だの生まれつきの才能だの軽々しく言うけど、そんな便利な物、無いんだよなあ。あったとしても、磨き続けなきゃダメになるのは同じだよ。
ボクなんて、ヤノーチェフなのに音痴で、モデルだもんね。まあ、母親の血筋が強く出たっていうの?お互い苦労するよ、有名な親を持つと」
ミハイルはヒョイと肩を竦めて見せた。
理生は、いかに自分が甘かったかと思い知った。
その後も地獄のような練習が続いたが、不思議と、何年も感じた事の無かった爽快感すら感じていたのだった。
翌日教会に飛び込み、料理コンテストの詳細について書いてあるチラシを貰うと、市場で仕入れた材料だけを使い、制限時間の1時間内に、画期的で庶民的な家庭料理を3品作る事とされていた。審査員は領主、司祭、3つのギルドのトップの5人らしい。
「画期的で庶民的な家庭料理ねえ」
トビー以外、何が画期的で、どんなものが庶民的な家庭料理なのか、全くわからない。それが問題だ。
「米を使うのはどうだろう。家畜のエサと思われているのなら、画期的で、安いだろうから庶民的なんじゃないかな」
「米か。丼だな」
理生のアイデアに、ミハイルがすぐに乗る。
「牛丼」
「親子丼」
「卵丼」
「かつ丼」
「・・・皆、丼が食べたいだけなんじゃないの」
トビーが疑わしそうな目を向けたが、3人はブンブンと首を振って否定。
「違うよ?いい着目点だと思うよ、ミチオの案は」
「では、どの丼にするか、試作しないとな」
「まずは米を買いに行こう」
嬉々として立ち上がって市場に向かおうとする3人に、トビーは、絶対に米が食べたいだけじゃねえか、と確信した。
「違う。もっとねちっこくていい」
数音弾いたところで、貴音が弓を止めた。貴音と理生は日課の練習をしているところだった。バイオリンとピアノを、一緒のタイミングで弾けばいいというわけではない。音楽性を合わせ、一つにしていかなくてはならない。
それは、魂を擦り合わせているようなものだと理生は思った。合う相手とならピタリと合うし、合わないとなれば、とことん、どこかしっくりこない。大学時代に伴奏の経験はあるが、理生は、伴奏は意外と気を使うものだと知った。
今取り掛かっているのはサラサーテの「カルメン幻想曲」。情熱的で華麗な技巧を必要とする曲だ。
貴音は音楽で、妥協しない。他人にも、それよりもまして自分に。そのことに、理生はすぐに舌を巻いた。音大生は練習時間を多く取っているのが普通だが、まさか、貴音がそれを上回る練習時間と密度を持っているとは、誰も知らないのではないか。
天才だから。あの、名バイオリニスト、イリーナの息子だから。
そんな感じで、できて当たり前、できるもの、そんな風に思っていた多くの内の一人であった事に、理生は恥じ入った。
こんな努力家はいない。こんなに真摯に音楽に向き合ってる人間を知らない、と。
「今ので。少し休憩しようか」
教授にしごかれるよりもきつい。理生は、ふう、と息をついた。
少し離れた所で見ていたミハイルが冷たい果実水を用意してくれていたのを、理生はありがたく、ゴクゴクと飲んだ。
トビーは、最初は見た事の無い楽器に興味津々だったのだが、練習の雰囲気に押され、同じように息を殺して見ていた。
「何か、厳しいんだな」
言われて、貴音が当然の如く返す。
「プロとして、納得できない演奏は許されない。練習は最低限の義務だからな」
言って、少し離れた所で1人黙々と、さらう。
「意外?」
ミハイルが訊く。
「まあ。でも、これができるのがプロなのかなあ」
「タカネは特別かもねえ。イリーナ叔母さんは音楽しかない人だったから、タカネが物心つくかつかないかの頃から、虐待と言われても仕方のないくらい、練習を課して来たんだよ。実際、倒れて入院したこともあるしね。
それでもタカネは、やるしかなかったんだよ。うちの家系は音楽家の家系で、音楽家でなければヤノーチェフにあらず、という感じで。反対されて結婚して生まれたタカネは、イリーナ叔母さんの為にも、本物の音楽家にならなければいけなかったんだ。
反対に、父方は東大卒でなければ、っていう家系で、そっちではタカネは、何としてでも東大に入らなければいけなかったんだ。叔父さんの為に。叔父さんはそんな事、言わないけどね。
大変だよ。親が、反対を押し切って結婚して生まれた子供は」
「何とも、重圧が物凄いんだな」
理生もトビーも、想像するだけで溜め息が漏れた。
「まあ、世間では天才だの生まれつきの才能だの軽々しく言うけど、そんな便利な物、無いんだよなあ。あったとしても、磨き続けなきゃダメになるのは同じだよ。
ボクなんて、ヤノーチェフなのに音痴で、モデルだもんね。まあ、母親の血筋が強く出たっていうの?お互い苦労するよ、有名な親を持つと」
ミハイルはヒョイと肩を竦めて見せた。
理生は、いかに自分が甘かったかと思い知った。
その後も地獄のような練習が続いたが、不思議と、何年も感じた事の無かった爽快感すら感じていたのだった。
翌日教会に飛び込み、料理コンテストの詳細について書いてあるチラシを貰うと、市場で仕入れた材料だけを使い、制限時間の1時間内に、画期的で庶民的な家庭料理を3品作る事とされていた。審査員は領主、司祭、3つのギルドのトップの5人らしい。
「画期的で庶民的な家庭料理ねえ」
トビー以外、何が画期的で、どんなものが庶民的な家庭料理なのか、全くわからない。それが問題だ。
「米を使うのはどうだろう。家畜のエサと思われているのなら、画期的で、安いだろうから庶民的なんじゃないかな」
「米か。丼だな」
理生のアイデアに、ミハイルがすぐに乗る。
「牛丼」
「親子丼」
「卵丼」
「かつ丼」
「・・・皆、丼が食べたいだけなんじゃないの」
トビーが疑わしそうな目を向けたが、3人はブンブンと首を振って否定。
「違うよ?いい着目点だと思うよ、ミチオの案は」
「では、どの丼にするか、試作しないとな」
「まずは米を買いに行こう」
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