払暁の風

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新門下生の男(1)たかりの浪人

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 慶仁と哲之助は、道場からの帰りに、寛永寺の方までぶらぶらと足を延ばしていた。五月やつつじも見頃だろうし、見世物を覗くのも悪くない。
 同じような事を考えている者も多いようで、一帯は、ブラブラと歩く人で混みあっていた。
「芝居だぞ、哲之助。『義経千本桜』だって」
「慶仁。芝居小屋に入るなんて、見つかったら叱られるぞ」
「大丈夫だって」
 あははと笑う慶仁に、哲之助は軽く嘆息する。フリーダムな親友には、困ったものだ。
 しかしその時、天の助けが入った。
「若!」
 突然、じいこと佐倉の声がして、慶仁と哲之助は辺りをキョロキョロと見廻した。
 それに、プッと噴き出し、笑い出す声が聞こえてきた。
「あ、浜崎様!」
 木の陰で、笑いをこらえようとする浜崎の姿を見付け、慶仁はホッと安心した。
「今の浜崎様が?凄く似てて、驚きました」
「だって、怒られるもんな」
 哲之助は言って、サッと慶仁からの視線を避けた。
「あはは。佐倉殿は固いし心配性だからなあ。
 今帰りか。剣術の方はどうだ。楽しいか?」
「はい!身が引き締まるようです!でも、馬術も好きだなあ。馬に乗っていると、どこかにそのまま行ってみたくなるから」
「それは大変だ。慶仁が馬術の練習をする時は、脱走に備えないと」
「し、しませんよ。なあ?」
 目を向けられた哲之助は、頷いて、
「まあ、曲乗りをまねて、皆を慌てさせたくらいです」
とばらした。
「ちょっとだけじゃないかぁ」
「時間の問題じゃない」
「プッ、あはははは!やっぱり面白いなあ、君達」
 浜崎は涙を浮かべて笑い出した。
 なんだかんだと話しながら、三人は茶店に入って団子を注文した。
 すると、周りの町民達の声が耳に入って来る。
「今年の米の値段はどうだろうなあ」
「いつもの水茶屋にこの前行ったら」
「お雅ちゃん、とうとう祝言ですって」
「もう鯰様は暴れねえだろうな。こりごりだよ」
 そんな庶民の色々な声が聞こえて来る中に、それがあった。
「次の将軍様は、どなたになるのかねえ」
「まあ、俺達には関係ないけどよ」
「でも、あんまり暮らしが厳しくなるのは困るじゃねえか」
「お侍様も暮らしぶりは大変そうだとは言え、将軍様と、上の方のお方は、贅沢してるんだろうなあ」
「大商人とどっちが贅沢だ?」
「それは……将軍様だろ?」
 徳川家定は継嗣を決定しておらず、慶福と慶喜が次期将軍の候補に挙がっているが、まだ、決定していなかった。
「将軍ねえ」
 浜崎は嘆息して、熱いお茶を啜った。
 そしてふと、団子にパクリとかぶりつく慶仁に目を向けた。
「なあ、慶仁。慶仁なら、将軍になりたいか」
 慶仁はモグモグと団子を咀嚼しながら小首を傾けて少し考え、飲み込むと、言い放った。
「大変そうだし、面倒臭そうだし、俺なら嫌ですね」
 哲之助は、団子にむせた。
「そうか。哲之助ならどうだ」
「へ?は。そうですね……責任が重すぎて、考える事すらできませんよ。不浄役人の次男には、想像すら恐れ多い事です」
「ええーっ。何でも、想像するのは勝手だよ。想像してみたら、相手の考えだってわかったりするし、想像しなければ、何も変わらなくて退屈なだけだよ」
「……そうか。辰徳殿に勝ったのは、想像のおかげというわけか」
「そう!」
 先輩との稽古のことである。
 浜崎はうんうんと頷きながら、嬉しそうに笑っていた。
「そうかそうか。うん。そうだな」
 そして、美味しそうに団子をほおばった。

 そのままぶらぶらと歩いて家へ向かい、飯屋の前に差し掛かった時だった。いきなり戸口から、主人と思しき初老の男と、若い女が転がるように飛び出して来た。
「お待ちください。決して、そういうわけでは、あの」
 しどろもどろになって主人が言う先で、店の中から、質が良くなさそうな浪人が三人出て来る。
「じゃあどういうわけだ?俺達がツケを踏み倒そうとしていると思っているんだろうが」
「いえ、そんな。ただ、随分溜まっておりますから、その、一度お支払いをしていただけるとありがたいと」
 怯える主人と給仕の女に、浪人達はニヤニヤと笑いながら詰め寄る。
「払うって言ってるだろうが。なあ?」
「そうだ、そうだ」
「無礼だな。無礼討ちだな」
「ヒイイッ!!」
 通りかかった通行人達も遠巻きにしてハラハラと見ている中、浪人が刀に手をかける。
 そこへ、慶仁が話しかけた。
「抜いたら大事になるよ」
 一斉に目が慶仁達に集まる。
「何だあ?元服したてで張り切ってるのはわかるがよ。怪我したくなかったらすっこんでな、坊ちゃん」
 浪人達は、ヘッと笑ってまた主人に向き直った。
「どう、落とし前を付ける気だ。ええ?」
「ツケは帳消し。それから、その女に一晩酌でもしてもらおうか」
「へへへ」
 下卑た笑いを浮かべる浪人達に、主人と女は絶望的な顔で震えあがった。
「いちゃもん付けてるだけでしょう?払う気があるなら一旦支払ったら?」
 澄ましてそう言う慶仁の隣で、哲之助が嘆息する。
「ああ?しつけのできてないガキだな」
 浪人達は刀に手を掛けたまま、慶仁達の方へ威嚇するように肩を揺らして近寄って来た。
「兄上やじいには、他人に迷惑をかけてはいけない、困っている人は見過ごしてはならないとしつけられてるけどなあ」
「いちゃもんを付けられて困ってるのは、俺達の方だぜ、坊ちゃん」
「何なら、この親父の代わりに慰謝料を支払ってくれてもいいんだぜ」
「ははは!面白い事を言うなあ。何でたかってる方が慰謝料を貰えるのかな」
「このガキが──!」
 一人がたまらず、刀を抜いて斬りかかって来た。周りで悲鳴が上がる。
 まあ、脅し程度の気持ちだったのかもしれないが、冷や汗をかく羽目になったのは、そちらの方だった。胴着の入った荷物をブンと振り回して脛にぶち当てる。
 それでしゃがみ込んだ仲間を見て、残る二人も刀を抜く。
 それを見て、慶仁と哲之助は稽古用の木刀を抜いた。
「舐めやがって――!」
 刀を頭上に構えて突っ込んで来る浪人の胴を慶仁が払うのと同時に、哲之助が鋭い突きをもう一人にお見舞いする。
「ぐあっ!?」
「ゲッ!」
 周囲の野次馬から歓声が上がった。
「あれはどこの若様だい?」
「知らねえのかい。頼藤様の坊ちゃんと、鳥羽様の坊ちゃんだよ」
「やんちゃ坊主で優しい若様だよ」
 そんな声が聞こえる。
「く、くそ。覚えてろよ!」
 チンピラ臭のする言葉を残して背を向ける浪人達に、もう一声かける。
「忘れてるよ。お、だ、い!」
 浪人の中の一人が、悔しそうな顔で懐から出したお金を投げつける。
「ちゃんと足りる?」
 主人はお金をサッと改め、
「は、はい!」
と頷いた。
「まいどありーっ」
 なので慶仁は、ぶんぶんと手を振って見送った。
 そばで、哲之助が嘆息する。
「佐倉のじい様の胃痛はお前のせいだな。間違いなく。頭が回って腕が立つだけならともかく、怖いもの知らず。そりゃあ、心配で心配で胃も痛くなるだろう」
「よくやったぞ、二人とも。腕も上がったらしいな。頼もしいな、全く」
「えへへ。ありがとうございます」
 二人が嬉しそうに笑うのを見ながら、その視界の端に、散って歩き出す見物人と、それとは別の真剣な目をこちらに向ける旅装の若い武士、それをさりげなく尾けて行くお咲を、浜崎は納めていた。




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