払暁の風

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継嗣決定(3)密談

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 どこでもその話題で持ちきりだった。
「とうとう、徳川喜福様に、将軍継嗣が決定したそうだ」
「大老になった井伊直弼の決定らしいな」
「まだ八つだろう。いくら血では濃いとは言っても」
「一橋慶喜様の方が安心じゃないのかね」
「いやいや。慶福様も、聡明な方らしいぞ」
 病弱な上に継嗣を決定していなかった家定だが、ようやくの決定である。
 慶仁もそれは聞いていたが、次々と来る外国の船の方が正直気になっていた。
「蒸気かあ。湯気だろう?そんなものであんなに重い物を動かせるのか。しかし、そんなものを易々と作ってしまうような国が、世界にはあるんだなあ。そんな国が攻めてきたら、まずいんじゃないだろうか」
 幕府はどうするつもりなのか。慶福様はどういう考えなのか。そっちの方を知りたい。 
「どうしたの。難しい顔をして」
 早苗が慶仁の顔を覗き込む。今日は七夕祭りで、早苗も慶仁も、さる屋敷に招かれているのである。
 七夕とは芸事の上達を祈る行事であるが、幕府の定める五節句であり、楽器や舞を披露する催しをするという事だ。
「姉上。いえ、何でもありませんよ」
「そう?羽を作って飛ぼうだなんて思ってはいない?」
「何でそれを!?あ、いえ、やりませんよ」
 慌てて否定する慶仁に、早苗は苦笑した。
 夫婦であろうと、家族であろうと、人前で男女が会話をするなんて無作法な事とされるのがこの時代である。それがしきたりと言えばそれまでだが、ばかばかしいと思う慶仁だ。
 しかし、姉や兄にまで恥をかかせるわけにはいかないと、従うつもりではある。
 なので、控室でのひっそりとした会話だ。
「策餅を貰ってきましたよ。さあ」
 七夕につきものの、小麦粉を練って糸束のような形にして揚げたお菓子だ。
「うわあ。いただきます!」
 未婚のお嬢さんをと張り切る者が多い中、まだまだ色気より食い気だと、呆れるやらホッとするやらな早苗だった。
「兄上は?」
「偉い人とお話し中です」
 ざっくりとした返事だ。
 だが確かに、偉い人がわんさか招待されていた。元服したての無職の者などおらず、部屋でぼんやりとしていたのもそのためだ。
 そんな姉弟から離れた所で、ヒソヒソするその二人もまた、偉い人だった。
「疲れたわ」
 一橋慶喜の妻、美香だ。朝廷側から来たのだが、慶喜とはあまり上手くいっていない。それでも今日ここへ来たのは、七夕祭りというものに京への懐かしさを刺激されてのものだったのだが、優雅さもなく、後悔していた。
「お飲み物でもいただいてまいりましょう」
 侍女のあやめが、美香を残して部屋を出る。
 と、招待者側の人間が二人、暗がりでヒソヒソと会話を交わしているのに出くわして、とっさに身を隠してしまった。
「岡本様、いかがですか」
「うむ。早紀様にまさに生き写し。間違いはないであろう。しらは切られたが、早紀様とあの家の娘御とは仲が良かったとの証言もある。それに、早紀様の行方が分からなくなったのと、あの家に赤子がいきなり誕生したのとは同時期。これは、疑う余地はないであろう。よくぞ見つけた、竹下」
「では、我ら後南朝の正統なるお血筋と」
「うむ。早紀様をかわいがられていらした殿も、お喜びになるに違いあるまい。
 となると心配は、跡継ぎを巡って争っておられるお三方だな」
「はい。へたに知られると、お命を狙うやもしれません」
「困ったものよ。正直、御長男様は目先の欲に弱くいらっしゃるし、御次男様は弱気で病弱。御三男様はちょっとおつむに問題がおありだ。調べた結果、我らの悲願達成には、あのお方に後を継いでいただくのが一番なのだが」
「はい。御聡明で、腕も確か。必ずや皇位を取り戻せるはずと──」
「待て。誰だ!」
 あやめは、急いでそこから逃げ出した。
 大変な事を聞いてしまった。後南朝。
 室町時代、朝廷が二つに割れた一時期があった。南北朝時代だ。その後、統一されはしたが、約束が違うと南朝派は抗議し、自分達の方が正統なる皇家、朝廷であると主張。攻めて滅ぼしたはずだが、どこかに逃れて、血脈を保って来たらしい。
「すぐ、京へ知らせなければ」
 見つけたと言うその人物が誰なのかはわからないが、それは何とでも調べるだろう。
 急いで戻ろうとするあやめだったが、いきなり背後から掴みかかられ、声が出ないように口を押さえられた挙句に、何か熱い物が胸を貫くのを感じた。
 そしてそれから一転して、手足が冷たくなる。
 口を塞いでいた手を離されても、呻き声さえ出ない。
 地面に放り出されて、夜空を見上げる。
 天の川が、見えた──。




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