42 / 66
第二部
23 変わりゆく時
フォルケと対峙するラーティの心を表すように、強風に散らされたリビオラが地面を覆っていく。
無残に散った青い花びらを握り締め、ルーカスはクーペとナディルをバルバーニに預けると、呪いに冒され疲労しきった体をどうにか奮い立たせた。
「……ルーカス、お前はそれ以上無理をするな」
背中を向けていたはずのラーティが、首だけ動かしてチラリとこちらを振り返り、釘を刺す。
有無を言わせない鋭い視線。しかし、ルーカスは滅多にない行動を取った。主の意に反し、首を横に振ったのだ。
途端、ラーティは怪訝そうに眉を顰める。
ラーティは普段から表情をあまり出すことがない。傍から見れば不機嫌なのか、それとも静かに怒っているのかと思われかねない雰囲気だが、ルーカスには分かる。ラーティはただ……ルーカスを心配しているだけだ。
地面に倒れていた妖精達が意識を取り戻し、手傷を負ったフォルケが固唾を呑んで見守るなか、昔に比べ最近は表情豊かになったものだと、その不器用さにルーカスはクスリと笑う。
「随分と怖い顔をなさる」
「ルーカス……?」
からかうような口調。やれやれと自嘲気味に笑い、先程までの疲れ切った様相から打って変わって、ルーカスはしっかりした足取りで立ち上がる。
驚き瞬くラーティの反応に、ルーカスは不調を押し隠し、何の事はないと穏やかに微笑む。
「ラーティ様、傷付いた紋章の力を無理に使えば貴方の身が持たない……お分かりですね?」
「…………」
狐につままれたような顔とはこのことか。傅くルーカスへと、ラーティが体の向きを変えた。
確かな足取りでルーカスが近付くにつれ、ラーティの体から徐々に怒気が抜けていく。辺りを吹き荒ぶ風が止み、今にも強風に飛ばされそうだった体の負担が和らいだ。
やがて嵐が過ぎ去った後のように、荒れた中庭に光が差し込んだ。空は晴れ、日中の穏やかな陽気を取り戻す。
優しく頼りになる夫かと思えば、荒ぶる神のごとき絶対者にもなりうる。勇者の力をおさめたラーティの聞き分けの良さに安堵しつつ、困った人だとルーカスは内心苦笑する。
そうして静観するラーティの前まで来ると、ルーカスはその場に片膝をつき、頭を垂れた。
「貴方の邪魔にならないよう、私はわきまえてきた」
続く沈黙に、ルーカスは更に言葉を重ねる。
「ご承知でしょう。従者として付き従い、貴方を守ることが私に課された役割なのです」
立場を考えるなら、花嫁筆頭候補のウルスラに正妻の座を譲り、自分は大人しく身を引くべきなのだ。
「それは夫婦となった今でもか?」
「はい」
ひたすら頭を下げたまま動かずいると──静かにこちらを見下ろしていたラーティが動いた。
どうやら跪くルーカスに合わせて身を屈めたようだ。ルーカスが身を引いた分だけ距離を埋めるように、互いの影が重なった。
伸びてきたラーティの武骨な指が、頬に触れる。ルーカスに触れることに慣れたその指は、輪郭に沿って下に移動し、顎に優しく添えられた。心地よさに体がゾクリとしていることなど、きっと彼は気付いていない。
黙っていると、顔を上げるよう促され、ルーカスは従う。
間近で見る金髪碧眼の整った顔立ち。ラーティの酷く真剣な目に見下ろされている。
「すまないルーカス。男であることがお前の心に影を落とし、身分の違いを気に病んでいることに、私はもっと早く気付くべきだった」
結婚し子を成した。ラーティの中でルーカスは飽くまでも元従者の認識だったのだろう。けれど長年ルーカスの体に染み付いた、ラーティが主であるという思いは、そう簡単に抜けるものではない。
しかし身分の低い自分に王子のラーティから想われる資格があるのかという考えは、彼と家族になった幸せの中で薄れ、ときおりチラつく程度になった。そんなとき、花嫁筆頭候補だったウルスラの来訪を聞いた。
負い目を感じ燻っていた心に、それは痛いほど響いた。
膝から崩れ落ちていく感覚。ラーティが自分以外の誰かを妻に迎えるかもしれない可能性を少しでも考えなかった愚かさと、自身の立場の脆さに、ルーカスは愕然とした。
幸せにどっぷり浸かり過ぎて忘れていた。オルガノに捨てられたときの理由を。
男のルーカスを妻とするのは、世間体が悪い。
体だけ若返っても、新しい世代にとってルーカスは時代遅れの英雄だ。存在価値は低い。
ラーティの妻になったとはいえ、どこまでも王子の従者であるルーカスはその上、男なのだ。男で従者のルーカスが、正当な姫君に勝てるわけがない。……だから覚悟した。
もしラーティが新しい妻を迎えたとして「お前の時代は終わった」と、彼に見向きもされなくなったとしても。掘っ立て小屋でティアーナの約束を旨に一人フォルケを待ち続けた、またあの頃の暮らしに戻ればいい。子供達は幸せになれるよう強くあろうと。
最初は、母リビオラのために何よりも誰よりも勇者たり得ようとしていたラーティが、ルーカスのために勇者の紋章を傷付け、力を失った。これ以上彼から大切なものを奪ってはならない。
仕方のないことだと諦め、ラーティに正妻を迎える際は教えてほしいと話した。一人になるのは慣れている。だから耐えられると思っていた。
だというのに、今度は呪いに掛かったルーカスを助けるために、ラーティはフォルケを手に掛けようとしている。
ラーティと自分との間には誰にも揺るがすことのできない絆がある。といってもそれは飽くまで主従関係ありきの成立だ。そう割り切っていたのに……彼の中にある伴侶としての自分への比重がここまでのものと、ルーカスは思っていなかった。
私は従者であることを自分に、課し過ぎていたのかもしれない……
ラーティを誰にも渡したくない。どうか一人にしないでほしい。それは口に出してはいけない想いだった。──が、
ラーティ様っ……!
呪いに呑まれる直前、ルーカスは助けを求め、ラーティを強く想った。
極限に、気取られぬよう押し隠していた本心が溢れてしまった。
産まれたときより仕えてきた、夫であり主でもあるラーティを守ることは、従者であるルーカスのあるべき姿だ。彼は生きる目的そのもの。それを奪われることは死にも等しい。
けれど、ルーカスは途中で気付いてしまった。仕える主を独占したいという矛盾に。
「……もう、間に合わないのか?」
ラーティがルーカスの頬を両手で包むようにした。
「ルーカス、お前はどうあるべきかをすでに決めてしまったというのか……? 私は気付くのが遅すぎたのか? 頼む答えてくれルーカス」
いつも余裕のラーティらしくない。憂慮に堪えない、別れを告げられるのを心底恐れている口調だ。
跪くルーカスに掛けるラーティの声は責めるものではなく、明らかに愁いを帯びていた。こちらを見下ろす強い意志を秘めた青い瞳は、今は切なに揺れ、失いたくないと必死に縋る。
しかし懇願する姿に情けなさは微塵もなく、渦中にあっても嘘偽りなく想いを告げられる芯の強さと心根の美しさに、ルーカスは心を奪われた。どちらも育ちの良い者が持ちうる特有であり、ラーティからは陰ることのない気高さを感じる。
存在そのものが希有な人なのだと眩しく思いながら、ルーカスは一度目を閉じる。
「貴方はどこまでも強くあり続けるのだな……」
「ルーカス……?」
そんなラーティだから、ルーカスは惚れたのだ。
……これ以上引け目を感じては、それこそ礼儀に反する。ならば私も共に気高くあろう。貴方の隣で誇れる己であるように。
「本来なら、私達は共にあるべきではないのかもしれない」
「っ!」
ルーカスの頬に触れているラーティの手が動揺に揺れた。安心させるようにその手に手を重ねると、彼は目を細め、心配を顔に出す。
「けれど私は……貴方をウルスラ様にも誰にも譲りたくない。私は貴方の傍にいないと生きていけない……」
申し訳ないと吹っ切れた様子で、ルーカスはようやく本心を口にした。ラーティの従者であることも、そして彼の妻であることも、どちらも捨てられない。ルーカスは両方を取る道を選んだ。
一方、突き放されることを覚悟していたのだろう、想定していたのとは違う答えに、ラーティは目を瞠る。
「今一度、分不相応を承知で申し上げます。私は……貴方が私一人のものであって欲しい」
隣にいても恥ずかしくないように、そのためならどんな努力も惜しまない。
こんなに弱く情けない姿を晒した自分を、ラーティは受け入れてくれるだろうかという一抹の不安は──即座に打ち消された。
「この身が欲しいというのなら、いくらでもくれてやる」
腕を引かれ、ルーカスは広い胸に抱き締められていた。何故不安など抱いたのだろうと後悔するくらい、強く優しく。
「ルーカス、私はお前のものだ……」
*
「風が、止んだ……」
精神が集中出来るようにと与えられた屋敷の個室で、ガロンは胡座をかき、再び使役獣と意識を共有していた。今回使っているのはオカメンコインではなく、ルーカスの警護として密やかに付けていた魔獣だ。
ガロンには最初からルーカス達の状況が魔獣を通して見えていた。クーペ同様、一方的にやられているルーカスを助けるべく、よっぽど間に割り込みたかったが……彼の意志を尊重してそれはできなかった。
歯噛みして見守るに徹しているうちに、どうにか解決し事なきを得たと思っていたら、呪いが再発。ルーカスは気を失い、そこへラーティが現れて安心したはずが、ボロボロのルーカスの姿に誤解してとんでもな事態になった。
ラーティを止めるべく、いよいよ魔獣を使う既のところまできた矢先。勇者の紋章を行使してフォルケを吹き飛ばし、あと少しで殺してしまいそうなくらい大荒れに荒れていたラーティを、ルーカスがいとも簡単に正気に引き戻し場を収めてしまったのだ。
「流石ルーカスだな」
心配する必要はなかったかと、独り言ちる。とはいえ、呪いの発動で振り出しどころか状況が悪化した事実は否めない。
「ガロン? どうしたの?」
精神を摩耗したガロンの額に手を当てて、治癒の魔力を注ぐフェリスが話し掛けてきた。
床に座って大人しく治療を受けていると思っていたら、何やらブツブツ言い出したのが気になったらしい。
フェリスは勇者パーティーの仲間だけあって、相当腕のいい治療師だ。本当なら今頃とっくに完治しているはずが、オカメンコインとの五感の共有を半ば強制的に解除された反動で、思った以上に精神を摩耗したらしい。想定の倍は治療に時間が掛かっている。
一刻も早くルーカス達のところへ駆け付けたいのに、それもままならない。最前線から退いてルーカスの警護をしているうちに、感覚が鈍ったのかもしれない。もしくは……
「僕ももう二十五歳だし。治りが遅いのは年ってことかなと思っただけだよ」
二十代半ばでこれなのだ。四十過ぎても現役だったルーカスのタフさと化け物じみた精神力には、考えるだけで鳥肌が立つ。などと思っていたら、
「は、何を突然ジジくさいこと言ってんの? 元々並の魔力しかない凡人のガロンがラーティ様の持つ強大な魔力に当てられたらこうなるよ。あの人勇者なんだから」
「おまっ……えなあ」
絶句する。治療に手間取っているフェリスの方が、よっぽどガロンの状態を把握している。その彼がそう言うならそうなのだろうが……言い方はともかく、一応慰めているつもりなのだろう、皮肉には気遣いが含まれている。
「お前、自分は魔術の天才だからってよくも人が一番気にしていることを」
「あ、それとさっきから気になってたんだけど……」
恨み言を遮断され、妙な間が流れた。
「何だよ改まって?」
「まさか今、使役獣と意識共有とかしてないよね」
「…………」
ギクリ。なるほど、さっきからキツい物言いなのはそのせいか。どうやら心配してくれているらしい。フェリスに睨み付けられている気がして、ガロンは顔を上げる。
といっても額に手を当てて治療されているガロンの視界には、癒やしの光しか見えない。声の調子から勝手に推察しただけだが、予感は的中した。
話がしやすいように、フェリスは手を当てる角度を変えたらしい。癒やしの光が和らいで、顔が見えた。
渋い顔をしている。それも、互いの鼻がくっつきそうなくらい……近い?
「ん? おまっ近い近い近い近い。その綺麗な顔近付けるなら可愛い女の子にしろ!」
男に近付いてどーすんだよ。ブツクサ言う。
「今男とか女とか関係ないから」
打てば響くスッパリした受け答えに、思わず「若いうちからそんな神経質だと、眉間に深い皺ができて伸ばしても取れなくなるぞー」などと言ったのが悪かった。
フェリスは返事の代わりに片眉をキツく吊り上げた。こわっ! こいつ年下のくせに容赦ねえ。
「…………はあ、仕方ねーだろ。気になるんだからさ」
妥協したというよりも、弱い犬ほどよく吠えるだ。ガロンが情けなく宣うのを、フェリスは綺麗にスルーする。
腕は立つがラーティとルーカスの言うこと以外聞かない、我儘放題の子供だったフェリスが、随分と頼り甲斐のある弟分に育ったものだ。
「何笑ってんの?」
フェリスがギョッと気味悪そうな顔をした。弟分の成長が嬉しいんだとは、言わない方が無難だろう。余計に気味悪がられそうだ。
「いや、お前ももう十八かと思ってさ」
口達者なはずの自分が言い包められるようになったなんてな……と、いやでも感慨深くなる。だからだろうか、何とは無しに話したくなった。
「……僕は以前ウルスラ様の来訪があると知ったとき、ドリスに話したことがあるんだ『俺達が思っているよりも、あの人は遥かに強い』って」
唐突な話題に「いきなり何の話?」と、疑念を持ったはずなのに、フェリスは茶化すようなことは一切しなかった。多少驚いて目を二、三瞬くと、話の続きを待つ顔でいる。
フェリスの聞くに徹した態度に、受容された心地よさを覚えて、自然と考えていたことが口から出ていた。
「ルーカスはラーティ様に捨てられたと思って身投げしたのに、言う言葉じゃないって、僕も分かっていたんだ。でもルーカスがクーペを自分の本当の子供みたいに言ったり、接するのを見て思ったんだ。ルーカスの中で何かが変わったんじゃないかって」
ルーカスの信念は強く、主への忠誠は騎士のそれを上回るほどだ。しかし同時に、裏切られれば自らの命を絶つほどに脆い。
ラーティへの忠誠心は、ルーカスにとって諸刃の剣でもあるのだ。
「ルーカスの中で何が変わったとガロンは思ったの?」
続きを辛抱強く待っているフェリスが、ガロンを治療しながら問う。
「ルーカスは一人の時間が長かったからな。自分を大事に思っていて必要としている人達が少なからずいるってことに、多分今まで気付いていなかったんだろーなって思ったんだよ。それに気付いたって、思いたいんだよ、僕は……」
「そっか……そうだね」
拾ったクーペを息子に迎え、主だったラーティが伴侶となり、その子供を宿してナディルを産んだ。ルーカスは大切なものが増えたことで、簡単には命を捨てられなくなった。そうであってほしい。そう思いたい。
ばつが悪そうに「期待ばっかして勝手だよな」と零す。するとフェリスはゆっくり立ち上がり、ポンッとガロンの背中を叩いた。
「ほら、治療は終わったよ。行こうかルーカス達のところへ」
あっさりシャキッと現実に引き戻された。こういうのも悪くない。
中腰にこちらを見下ろす弟分から差し出された手を、ガロンは掴む。いつの間にか自分と同じくらいに成長した手の感触に、少しの戸惑いと変わりゆく時を感じて。
無残に散った青い花びらを握り締め、ルーカスはクーペとナディルをバルバーニに預けると、呪いに冒され疲労しきった体をどうにか奮い立たせた。
「……ルーカス、お前はそれ以上無理をするな」
背中を向けていたはずのラーティが、首だけ動かしてチラリとこちらを振り返り、釘を刺す。
有無を言わせない鋭い視線。しかし、ルーカスは滅多にない行動を取った。主の意に反し、首を横に振ったのだ。
途端、ラーティは怪訝そうに眉を顰める。
ラーティは普段から表情をあまり出すことがない。傍から見れば不機嫌なのか、それとも静かに怒っているのかと思われかねない雰囲気だが、ルーカスには分かる。ラーティはただ……ルーカスを心配しているだけだ。
地面に倒れていた妖精達が意識を取り戻し、手傷を負ったフォルケが固唾を呑んで見守るなか、昔に比べ最近は表情豊かになったものだと、その不器用さにルーカスはクスリと笑う。
「随分と怖い顔をなさる」
「ルーカス……?」
からかうような口調。やれやれと自嘲気味に笑い、先程までの疲れ切った様相から打って変わって、ルーカスはしっかりした足取りで立ち上がる。
驚き瞬くラーティの反応に、ルーカスは不調を押し隠し、何の事はないと穏やかに微笑む。
「ラーティ様、傷付いた紋章の力を無理に使えば貴方の身が持たない……お分かりですね?」
「…………」
狐につままれたような顔とはこのことか。傅くルーカスへと、ラーティが体の向きを変えた。
確かな足取りでルーカスが近付くにつれ、ラーティの体から徐々に怒気が抜けていく。辺りを吹き荒ぶ風が止み、今にも強風に飛ばされそうだった体の負担が和らいだ。
やがて嵐が過ぎ去った後のように、荒れた中庭に光が差し込んだ。空は晴れ、日中の穏やかな陽気を取り戻す。
優しく頼りになる夫かと思えば、荒ぶる神のごとき絶対者にもなりうる。勇者の力をおさめたラーティの聞き分けの良さに安堵しつつ、困った人だとルーカスは内心苦笑する。
そうして静観するラーティの前まで来ると、ルーカスはその場に片膝をつき、頭を垂れた。
「貴方の邪魔にならないよう、私はわきまえてきた」
続く沈黙に、ルーカスは更に言葉を重ねる。
「ご承知でしょう。従者として付き従い、貴方を守ることが私に課された役割なのです」
立場を考えるなら、花嫁筆頭候補のウルスラに正妻の座を譲り、自分は大人しく身を引くべきなのだ。
「それは夫婦となった今でもか?」
「はい」
ひたすら頭を下げたまま動かずいると──静かにこちらを見下ろしていたラーティが動いた。
どうやら跪くルーカスに合わせて身を屈めたようだ。ルーカスが身を引いた分だけ距離を埋めるように、互いの影が重なった。
伸びてきたラーティの武骨な指が、頬に触れる。ルーカスに触れることに慣れたその指は、輪郭に沿って下に移動し、顎に優しく添えられた。心地よさに体がゾクリとしていることなど、きっと彼は気付いていない。
黙っていると、顔を上げるよう促され、ルーカスは従う。
間近で見る金髪碧眼の整った顔立ち。ラーティの酷く真剣な目に見下ろされている。
「すまないルーカス。男であることがお前の心に影を落とし、身分の違いを気に病んでいることに、私はもっと早く気付くべきだった」
結婚し子を成した。ラーティの中でルーカスは飽くまでも元従者の認識だったのだろう。けれど長年ルーカスの体に染み付いた、ラーティが主であるという思いは、そう簡単に抜けるものではない。
しかし身分の低い自分に王子のラーティから想われる資格があるのかという考えは、彼と家族になった幸せの中で薄れ、ときおりチラつく程度になった。そんなとき、花嫁筆頭候補だったウルスラの来訪を聞いた。
負い目を感じ燻っていた心に、それは痛いほど響いた。
膝から崩れ落ちていく感覚。ラーティが自分以外の誰かを妻に迎えるかもしれない可能性を少しでも考えなかった愚かさと、自身の立場の脆さに、ルーカスは愕然とした。
幸せにどっぷり浸かり過ぎて忘れていた。オルガノに捨てられたときの理由を。
男のルーカスを妻とするのは、世間体が悪い。
体だけ若返っても、新しい世代にとってルーカスは時代遅れの英雄だ。存在価値は低い。
ラーティの妻になったとはいえ、どこまでも王子の従者であるルーカスはその上、男なのだ。男で従者のルーカスが、正当な姫君に勝てるわけがない。……だから覚悟した。
もしラーティが新しい妻を迎えたとして「お前の時代は終わった」と、彼に見向きもされなくなったとしても。掘っ立て小屋でティアーナの約束を旨に一人フォルケを待ち続けた、またあの頃の暮らしに戻ればいい。子供達は幸せになれるよう強くあろうと。
最初は、母リビオラのために何よりも誰よりも勇者たり得ようとしていたラーティが、ルーカスのために勇者の紋章を傷付け、力を失った。これ以上彼から大切なものを奪ってはならない。
仕方のないことだと諦め、ラーティに正妻を迎える際は教えてほしいと話した。一人になるのは慣れている。だから耐えられると思っていた。
だというのに、今度は呪いに掛かったルーカスを助けるために、ラーティはフォルケを手に掛けようとしている。
ラーティと自分との間には誰にも揺るがすことのできない絆がある。といってもそれは飽くまで主従関係ありきの成立だ。そう割り切っていたのに……彼の中にある伴侶としての自分への比重がここまでのものと、ルーカスは思っていなかった。
私は従者であることを自分に、課し過ぎていたのかもしれない……
ラーティを誰にも渡したくない。どうか一人にしないでほしい。それは口に出してはいけない想いだった。──が、
ラーティ様っ……!
呪いに呑まれる直前、ルーカスは助けを求め、ラーティを強く想った。
極限に、気取られぬよう押し隠していた本心が溢れてしまった。
産まれたときより仕えてきた、夫であり主でもあるラーティを守ることは、従者であるルーカスのあるべき姿だ。彼は生きる目的そのもの。それを奪われることは死にも等しい。
けれど、ルーカスは途中で気付いてしまった。仕える主を独占したいという矛盾に。
「……もう、間に合わないのか?」
ラーティがルーカスの頬を両手で包むようにした。
「ルーカス、お前はどうあるべきかをすでに決めてしまったというのか……? 私は気付くのが遅すぎたのか? 頼む答えてくれルーカス」
いつも余裕のラーティらしくない。憂慮に堪えない、別れを告げられるのを心底恐れている口調だ。
跪くルーカスに掛けるラーティの声は責めるものではなく、明らかに愁いを帯びていた。こちらを見下ろす強い意志を秘めた青い瞳は、今は切なに揺れ、失いたくないと必死に縋る。
しかし懇願する姿に情けなさは微塵もなく、渦中にあっても嘘偽りなく想いを告げられる芯の強さと心根の美しさに、ルーカスは心を奪われた。どちらも育ちの良い者が持ちうる特有であり、ラーティからは陰ることのない気高さを感じる。
存在そのものが希有な人なのだと眩しく思いながら、ルーカスは一度目を閉じる。
「貴方はどこまでも強くあり続けるのだな……」
「ルーカス……?」
そんなラーティだから、ルーカスは惚れたのだ。
……これ以上引け目を感じては、それこそ礼儀に反する。ならば私も共に気高くあろう。貴方の隣で誇れる己であるように。
「本来なら、私達は共にあるべきではないのかもしれない」
「っ!」
ルーカスの頬に触れているラーティの手が動揺に揺れた。安心させるようにその手に手を重ねると、彼は目を細め、心配を顔に出す。
「けれど私は……貴方をウルスラ様にも誰にも譲りたくない。私は貴方の傍にいないと生きていけない……」
申し訳ないと吹っ切れた様子で、ルーカスはようやく本心を口にした。ラーティの従者であることも、そして彼の妻であることも、どちらも捨てられない。ルーカスは両方を取る道を選んだ。
一方、突き放されることを覚悟していたのだろう、想定していたのとは違う答えに、ラーティは目を瞠る。
「今一度、分不相応を承知で申し上げます。私は……貴方が私一人のものであって欲しい」
隣にいても恥ずかしくないように、そのためならどんな努力も惜しまない。
こんなに弱く情けない姿を晒した自分を、ラーティは受け入れてくれるだろうかという一抹の不安は──即座に打ち消された。
「この身が欲しいというのなら、いくらでもくれてやる」
腕を引かれ、ルーカスは広い胸に抱き締められていた。何故不安など抱いたのだろうと後悔するくらい、強く優しく。
「ルーカス、私はお前のものだ……」
*
「風が、止んだ……」
精神が集中出来るようにと与えられた屋敷の個室で、ガロンは胡座をかき、再び使役獣と意識を共有していた。今回使っているのはオカメンコインではなく、ルーカスの警護として密やかに付けていた魔獣だ。
ガロンには最初からルーカス達の状況が魔獣を通して見えていた。クーペ同様、一方的にやられているルーカスを助けるべく、よっぽど間に割り込みたかったが……彼の意志を尊重してそれはできなかった。
歯噛みして見守るに徹しているうちに、どうにか解決し事なきを得たと思っていたら、呪いが再発。ルーカスは気を失い、そこへラーティが現れて安心したはずが、ボロボロのルーカスの姿に誤解してとんでもな事態になった。
ラーティを止めるべく、いよいよ魔獣を使う既のところまできた矢先。勇者の紋章を行使してフォルケを吹き飛ばし、あと少しで殺してしまいそうなくらい大荒れに荒れていたラーティを、ルーカスがいとも簡単に正気に引き戻し場を収めてしまったのだ。
「流石ルーカスだな」
心配する必要はなかったかと、独り言ちる。とはいえ、呪いの発動で振り出しどころか状況が悪化した事実は否めない。
「ガロン? どうしたの?」
精神を摩耗したガロンの額に手を当てて、治癒の魔力を注ぐフェリスが話し掛けてきた。
床に座って大人しく治療を受けていると思っていたら、何やらブツブツ言い出したのが気になったらしい。
フェリスは勇者パーティーの仲間だけあって、相当腕のいい治療師だ。本当なら今頃とっくに完治しているはずが、オカメンコインとの五感の共有を半ば強制的に解除された反動で、思った以上に精神を摩耗したらしい。想定の倍は治療に時間が掛かっている。
一刻も早くルーカス達のところへ駆け付けたいのに、それもままならない。最前線から退いてルーカスの警護をしているうちに、感覚が鈍ったのかもしれない。もしくは……
「僕ももう二十五歳だし。治りが遅いのは年ってことかなと思っただけだよ」
二十代半ばでこれなのだ。四十過ぎても現役だったルーカスのタフさと化け物じみた精神力には、考えるだけで鳥肌が立つ。などと思っていたら、
「は、何を突然ジジくさいこと言ってんの? 元々並の魔力しかない凡人のガロンがラーティ様の持つ強大な魔力に当てられたらこうなるよ。あの人勇者なんだから」
「おまっ……えなあ」
絶句する。治療に手間取っているフェリスの方が、よっぽどガロンの状態を把握している。その彼がそう言うならそうなのだろうが……言い方はともかく、一応慰めているつもりなのだろう、皮肉には気遣いが含まれている。
「お前、自分は魔術の天才だからってよくも人が一番気にしていることを」
「あ、それとさっきから気になってたんだけど……」
恨み言を遮断され、妙な間が流れた。
「何だよ改まって?」
「まさか今、使役獣と意識共有とかしてないよね」
「…………」
ギクリ。なるほど、さっきからキツい物言いなのはそのせいか。どうやら心配してくれているらしい。フェリスに睨み付けられている気がして、ガロンは顔を上げる。
といっても額に手を当てて治療されているガロンの視界には、癒やしの光しか見えない。声の調子から勝手に推察しただけだが、予感は的中した。
話がしやすいように、フェリスは手を当てる角度を変えたらしい。癒やしの光が和らいで、顔が見えた。
渋い顔をしている。それも、互いの鼻がくっつきそうなくらい……近い?
「ん? おまっ近い近い近い近い。その綺麗な顔近付けるなら可愛い女の子にしろ!」
男に近付いてどーすんだよ。ブツクサ言う。
「今男とか女とか関係ないから」
打てば響くスッパリした受け答えに、思わず「若いうちからそんな神経質だと、眉間に深い皺ができて伸ばしても取れなくなるぞー」などと言ったのが悪かった。
フェリスは返事の代わりに片眉をキツく吊り上げた。こわっ! こいつ年下のくせに容赦ねえ。
「…………はあ、仕方ねーだろ。気になるんだからさ」
妥協したというよりも、弱い犬ほどよく吠えるだ。ガロンが情けなく宣うのを、フェリスは綺麗にスルーする。
腕は立つがラーティとルーカスの言うこと以外聞かない、我儘放題の子供だったフェリスが、随分と頼り甲斐のある弟分に育ったものだ。
「何笑ってんの?」
フェリスがギョッと気味悪そうな顔をした。弟分の成長が嬉しいんだとは、言わない方が無難だろう。余計に気味悪がられそうだ。
「いや、お前ももう十八かと思ってさ」
口達者なはずの自分が言い包められるようになったなんてな……と、いやでも感慨深くなる。だからだろうか、何とは無しに話したくなった。
「……僕は以前ウルスラ様の来訪があると知ったとき、ドリスに話したことがあるんだ『俺達が思っているよりも、あの人は遥かに強い』って」
唐突な話題に「いきなり何の話?」と、疑念を持ったはずなのに、フェリスは茶化すようなことは一切しなかった。多少驚いて目を二、三瞬くと、話の続きを待つ顔でいる。
フェリスの聞くに徹した態度に、受容された心地よさを覚えて、自然と考えていたことが口から出ていた。
「ルーカスはラーティ様に捨てられたと思って身投げしたのに、言う言葉じゃないって、僕も分かっていたんだ。でもルーカスがクーペを自分の本当の子供みたいに言ったり、接するのを見て思ったんだ。ルーカスの中で何かが変わったんじゃないかって」
ルーカスの信念は強く、主への忠誠は騎士のそれを上回るほどだ。しかし同時に、裏切られれば自らの命を絶つほどに脆い。
ラーティへの忠誠心は、ルーカスにとって諸刃の剣でもあるのだ。
「ルーカスの中で何が変わったとガロンは思ったの?」
続きを辛抱強く待っているフェリスが、ガロンを治療しながら問う。
「ルーカスは一人の時間が長かったからな。自分を大事に思っていて必要としている人達が少なからずいるってことに、多分今まで気付いていなかったんだろーなって思ったんだよ。それに気付いたって、思いたいんだよ、僕は……」
「そっか……そうだね」
拾ったクーペを息子に迎え、主だったラーティが伴侶となり、その子供を宿してナディルを産んだ。ルーカスは大切なものが増えたことで、簡単には命を捨てられなくなった。そうであってほしい。そう思いたい。
ばつが悪そうに「期待ばっかして勝手だよな」と零す。するとフェリスはゆっくり立ち上がり、ポンッとガロンの背中を叩いた。
「ほら、治療は終わったよ。行こうかルーカス達のところへ」
あっさりシャキッと現実に引き戻された。こういうのも悪くない。
中腰にこちらを見下ろす弟分から差し出された手を、ガロンは掴む。いつの間にか自分と同じくらいに成長した手の感触に、少しの戸惑いと変わりゆく時を感じて。
あなたにおすすめの小説
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
絶対に追放されたいオレと絶対に追放したくない男の攻防
藤掛ヒメノ@Pro-ZELO
BL
世は、追放ブームである。
追放の波がついに我がパーティーにもやって来た。
きっと追放されるのはオレだろう。
ついにパーティーのリーダーであるゼルドに呼び出された。
仲が良かったわけじゃないが、悪くないパーティーだった。残念だ……。
って、アレ?
なんか雲行きが怪しいんですけど……?
短編BLラブコメ。
【本編完結】処刑台の元婚約者は無実でした~聖女に騙された元王太子が幸せになるまで~
TOY
BL
【本編完結・後日譚更新中】
公開処刑のその日、王太子メルドは元婚約者で“稀代の悪女”とされたレイチェルの最期を見届けようとしていた。
しかし「最後のお別れの挨拶」で現婚約者候補の“聖女”アリアの裏の顔を、偶然にも暴いてしまい……!?
王位継承権、婚約、信頼、すべてを失った王子のもとに残ったのは、幼馴染であり護衛騎士のケイ。
これは、聖女に騙され全てを失った王子と、その護衛騎士のちょっとズレた恋の物語。
※別で投稿している作品、
『物語によくいる「ざまぁされる王子」に転生したら』の全年齢版です。
設定と後半の展開が少し変わっています。
※後日譚を追加しました。
後日譚① レイチェル視点→メルド視点
後日譚② 王弟→王→ケイ視点
後日譚③ メルド視点
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
【完結】転生した悪役令息は、お望み通り近付きません
カシナシ
BL
「お前など、愛す価値もない」
ディディア・ファントム侯爵令息が階段から落ちる時見たのは、婚約者が従兄弟を抱きしめている姿。
(これって、ディディアーーBLゲームの悪役令息じゃないか!)
妹の笑顔を見るためにやりこんでいたBLゲーム。引くほどレベルを上げた主人公のスキルが、なぜかディディアに転生してそのまま引き継いでいる。
スキルなしとして家族に『失敗作』と蔑まれていたのは、そのスキルのレベルが高すぎたかららしい。
スキルと自分を取り戻したディディアは、婚約者を追いかけまわすのを辞め、自立に向けて淡々と準備をする。
もちろん元婚約者と従兄弟には近付かないので、絡んでこないでいただけます?
十万文字程度。
3/7 完結しました!
※主人公:マイペース美人受け
※女性向けHOTランキング1位、ありがとうございました。完結までの12日間に渡り、ほとんど2〜5位と食い込めた作品となりました!あああありがとうございます……!。゚(゚´Д`゚)゚。
たくさんの閲覧、イイね、エール、感想は、作者の血肉になります……!(o´ω`o)ありがとうございます!(●′ω`人′ω`●)