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1巻
1-3
* * *
グランドキャッスルの噴火口に身投げしてから一年後──勇者一行が帰還した。
早朝、薪割りに精を出していた己の耳にも、勇者の凱旋に沸く民衆の声が届いた。
町から遠く離れた掘っ建て小屋まで聞こえてくるなんてと、斧を持つ手を止める。
首に掛けていたタオルで顔の汗を拭き、町のある方角に目を向けるが、森の木々に囲まれた掘っ建て小屋からでは町の様子は見えない。
「あっちはえらくにぎやかだな」
勇者の凱旋は、勇者パーティーを追放された自分には最も縁遠いものだ。
近付くことすら罪に思えてくる人々の歓声に背を向ける。
追放されたときの辛い記憶を思い出さないよう、薪割りの途中で止めていた手を再び動かしていると──ポスッと背中に何かが乗った。
「クーペ……」
一年経った今でもキラキラおめめの純粋な心と真っ黒な鱗の塊、人間の新生児サイズのカオスドラゴン。
クーペは「切られた」を意味する。カオスドラゴンが魔王であったときに、先代勇者のオルガノの一撃を受けた額の傷から付けた。
一緒に暮らし始めた当初はお腹が空くとよだれを垂らして腹をグーグー鳴らしながら、自分の周りを飛び回り「クークー」鳴いてひっついていたからだとか、毎日口にあれこれ詰め込んではペッペッと吐き出しているからだとか、そういう意味では……多少ある。
冒険者の集うギルドへ薪を売りに行ったときに小耳にはさんだのだが、ドラゴンの吐き戻しは鳥類にある育児行動と同じらしい。
雛同士でも吐き戻しで餌を与え合うこともあるようで、育児行動でなくても親愛なる相手に愛情を示すための吐き戻し行動は、頻繁にされているっぽい。
クーペはよく私の近くで吐き戻しては、キラキラした目でこちらを見てくる。
期待に応えられなくて申し訳ないが……
本来吐き戻しはドラゴン同士が行うもの。
しかしクーペは異種族の私を家族と認識してくれているらしい。
淋しい独り身同士、この一年身を寄せ合い暮らしていたからだろう。
勇者パーティーを追放されるまでは、年老いた自分の人生は王子兼勇者のラーティを唯一の主として、その警護兵であることを誇りに生涯の使命をまっとうするものと思っていたのに……
生きる目的を失い、噴火口に身投げして全てが終わると思っていた。
しかし今は同居人のドラゴンのお守りをしながら、その成長を気にしている。
不思議なものだ。
「お前がいなかったらあのマグマもどきの温水に浸かったまま、若返り過ぎて消滅する道を選んでいたかもしれないな」
──ありがとう。
言うと、背中にいるクーペが嬉しそうに尻尾を振る気配がした。
それにしてもクーペは食欲のわりに体が小さい。若返って筋肉の落ちた、どちらかというと細身の私の背中にひっついていられるくらいだ。
成長も遅いような気がする。
掘っ建て小屋での生活に慣れた今では、クーペは自分で餌を取りに行くようになったけれど、最初のうちは手ずから餌を与えられていたし、やはり赤ちゃんだ。多少の心配はあるものの……
毎日元気に大好物の蛇を探しては捕まえているので、多分大丈夫だろう。
自分の体長の倍はある蛇を丸呑みしているのを目撃したときは、流石に一瞬思考が停止したが……
雑食のドラゴンの腹は鋼鉄でできているらしい。丸吞み後はぽっこり出た腹を上に向けて縁側でぬくぬく日向ぼっこしながら、グーグーと盛大にイビキをかいてお昼寝していた。
それにクーペは小さい体でとても力持ちだ。
一年前に噴火口の中に落ちたとき、若返ったのはいいがどうやって抜け出せばいいのか、遥か頭上にある出口を見上げて困っていたところを解決したのが、お漏らし赤ちゃんドラゴンだった。
クーペはそのコウモリのような形状の羽を使って飛び上がり、噴火口の縁まで私を持ち上げてくれたのだ。
それからすぐに、下山した。
山の出入り口付近に立っている守衛に見つからないよう、彼らの頭上をまたクーペに運んでもらって切り抜けると、来た道を引き返し町外れの掘っ建て小屋に戻ってきたのだが……戻ってから数日後に、城からの使者がやって来た。
山から下りてこない私を心配して、念のため小屋に戻っていないか様子を見に来たのだ。
しかし若返った姿ではルーカス本人だと名乗ってもおそらく信じてもらえない。仕方なくルーカスの甥を名乗り、その証拠に魔王討伐のおり国王から授与された「英雄の証」を見せた。
ルーカスはしばらく遠い異国の地にいることにして、その間の国から支給される褒賞金の受け取りと、小屋の管理を彼から任されたのだと告げた。
もちろん疑われはしたが、英雄の証の効果は絶大だった。
甥を名乗ったルーカス本人に引き続き褒賞金は支払われることとなり、小屋への居住も認められた。
いつルーカスは山を出たんだとその後も聞かれて誤魔化すのは大変だったが……
そうして一段落つくと、完全に冒険者を引退した。
ギルドに登録していた自分の記録を全て削除してもらい、もう冒険者ではないのだからと、最初は適当に楽な格好をしようとしていたのだが……どうにもしっくりこない。
結局初期装備のライトアーマーを着て過ごすに落ち着いた。
小屋は町から離れているので魔物も出る。多少の防衛は必要だ。
何より、元ラーティの警護兵で戦士だった身体は、普通の衣服を着るよりも甲冑の方が慣れているし、性に合っていた。
先代勇者に魔王討伐の褒美としてもらった掘っ建て小屋を定期的にメンテナンスしながら、クーペが悪の道に突き進むことのないように育て過ごしたこの一年は、勇者パーティーを追放され職を失い、一人残された淋しさを伴うものではあったが、思っていたよりも悪くなかった。
勇者パーティーの凱旋から数日経った今も、祝祭は夜通し続いていた。
時刻は日暮れ前だというのに、町は静まるどころかますます盛り上がってきているようだ。
けして入ることのできない祝祭から聞こえてくる勇者の帰還に賑わう人々の声に、小屋の裏手で薪割りしていた手を止め、町の方を眺める。
「……いつまで続くんだろうな」
町の中心に築かれた城にはラーティがいる。
重い溜息を吐いた。
「こうして淡々と作業している方が少しは気が楽だが……」
没頭して、いつもは早朝に始めて昼前には終える薪割りを、今日は夕方近くまでやってしまった。
斧から離した手が強張っている。明らかにやり過ぎた。
そもそも生活費は褒賞金で十分すぎるほど足りている。
お金を稼ぐ必要はないのだが、薪割りは暇潰しと軽く体を鍛えるのにちょうどいいからやっているだけで、薪を町に売りにいくのも、体を動かすためだ。
ゆっくりとした足取りで小屋の中に戻り、薪割りを終えた手でお湯を沸かす。
しばらくして、お湯が沸く頃に周辺の森を散策していたクーペも戻ってきた。
縁側に腰を下ろす。胡座をかいた膝の上に、猫の代わりにクーペを乗せ、一緒にのんびり過ごす。
クーペの頭を撫でながら沈みゆく夕日を眺め、一日の終わりを惜しむように静かにお茶をすするのが、今の生活だった。
今日もこのまま何も変わらず、一人取り残された時間を過ごしていくんだろう。そう思っていた──が。
──ドクンッ。
何だ? みぞおちの部分……いや、もう少し下の腹の辺りが……熱い……?
突然の動悸に似た体を脈打つ感覚。当惑していたために、気付くのが遅れた。
「──ルーカスの小屋にいる、お前は何者だ?」
訪問者の久方ぶりの声を聞くだけで、体が震える。
圧倒的な存在に、俯きがちに腹部を見ていた顔を上げた。
縁側に座る私の前に現れたのは、魔王を討伐し帰ってきた、今は自国の英雄となった男──ラーティ・ド・ラスクール・テンペストだった。
家を囲う粗末な柵の向こうにいる、夕焼けを背にした金髪碧眼の美しい男。
柵を抜けてこちらへ歩いてくる姿を見るだけで、泣きそうになる。
「何故、いらしたのですか……? 王子……」
聞こえないよう俯きがちに、蚊の鳴くような声で呟く。
少し離れた距離からでも、どんな人混みの中でも誰とわかる。産まれたときより片時も離れず、見守り、自分が育て上げた。
ラーティは一見すると優しげな面差しだが、普段は素っ気ない態度で他人に媚びることが一切ない。そしてどんな苦境でも内心の辛さを出さず、弱音を吐くこともない。
他人に頼ることの少ないラーティは、表情も滅多に変えず、淡々とした様子でいつも気位の高い貴族のように振る舞っているが、その芯の部分は思いやりと優しさと、一貫した強さで成り立っている。
力の弱い女子供を大切にするし、理不尽なことを相手に押し付けたり、無下に扱うようなことはしない。
不器用の塊の元主だが、その根底は優しさでできているから、彼と関わったことがある者なら誰もが知っている。彼は一度懐に入れた相手は何があっても見放さないと。
そして誰もが彼を好きになり、こぞって力を貸したくなるのだ。
だからこそ、ラーティが自分を追放したことは、特別の意味を持つ。
普段は素っ気ないが、心根は優しい王子が見放すほど、自分がお荷物だったという事実。
ラーティは基本的に身分に関係なく誰に対しても等しく接するから、たまに王子という身分と上に立つ者の気質を忘れてしまいそうになる。
彼が誰よりも強い心の持ち主で、必要とあらばどんな相手にたいしても厳しい判断を下すこともあるということを。
そんな元主を頼もしく思う反面、それがいよいよ眼前まで来ると酷く動揺してしまった。
ラーティの影が縁側に座る己に重なる。観念しておそるおそる顔を上げると、真正面に佇む彼は王公貴族が着用する正装だった。
おそらく式典にでも出ていたのだろう。小屋に来たのはその帰りだろうか。
一年ぶりの懐かしい顔を見て──それから心底困惑した。
戦闘でも涼しい顔のラーティが珍しく汗をかいている。それも少し焦りを感じる様相で。
表情を滅多に動かさないはずのラーティが焦りを顔に出すなど、今日の彼はあまりにらしくない。
──もしや魔王討伐のおりに受けた傷が開いたのか?
思い付きに、思わず不安が口をついて出ていた。
「どうされたのですか? 王子、どこかお加減でも……?」
縁側で胡座をかいていた姿勢を崩し、前のめりになる。
長い年月を経て体に刻み込まれた元従者だった頃の感覚のまま、地面に足を下ろしラーティの傍へいこうとして──しかし次に発せられた彼の言葉にピタリと止まった。
「私を知っているようだが……私はお前を知らない」
そうだった、今の私の姿は……
私が若返ったことをラーティは知らない。
凱旋時の町中ならともかく、町外れの、それも知人の家にいる見知らぬ者から突然体の心配をされたら普通は警戒する。
この場にほかの人がいたとしても、ラーティはいつも通り淡々と話をしているようにしか見えないだろう。しかし長年仕えていた自分は元主の微妙な変化に気付いた。
当たり前のように近寄ろうとする挙動に反応して、ラーティの目に微かに驚きが宿ったことに。
落ち着いて、対処しなければならない。
二人の関係が昔のままだったなら、心配性の従者にラーティは毅然として答えてくれる。けれど今は違う。若返った自分は彼にとって全く関わりのない、赤の他人だ。
幸いラーティは驚いているだけで、引かれるまでいっていないのがせめてもの救いだ。そこまで拒否されては流石に傷付く。
これ以上ラーティを刺激しないよう、ひとまず座る姿勢を戻すと、元主が怪我をしていないか確認したい衝動を辛うじて抑えた。
「自己紹介もせず失礼いたしました。ルーカスは私の父の弟で、彼は叔父にあたります。私はルーカスの甥ですよ、王子」
「ルーカスの甥……?」
ラーティが怪訝そうにほんの僅か、眉を顰める。
元主の機微をつぶさに汲み取り、始終落ち着き払って答える。
「はい、王子」
手元のお茶をすする。
縁側で胡座をかき、興味なさそうに目線を逸らす。何でもないことのようにのんびりお茶を飲んでみたものの……内心冷や汗ものだった。
……まずいな、この方には逆らえないと思ってしまう。
元主の不機嫌な顔一つで、長年刷り込まれた主従の誓いが呼び覚まされる。
それに……
チラッとラーティを盗み見るようにしながら、胸の内で溜息を吐く。
分が悪いにも程があるだろう……
何故なら王子兼勇者ということを差し引いても余りある美しさに加え、優男風の容姿に凛とした眼差しの、非常に品のある姿は、まるで先代勇者のオルガノが現役だった頃を彷彿とさせるものだったからだ。
逆光に翳る整った顔立ちは以前にも増して磨きがかかり、完璧な輪郭を縁取る金の髪は夕日を浴びて燦然と輝いている。
縁側に座る私を静かに見据える、ラーティの空と海とを連想する碧眼はどこまでも澄んでいて、危うい儚さを孕み、美しい。
長い手足に厚い胸板。体格もよく、旅を経て完璧に仕上がったラーティの体は驚くほど隙がない。同性の自分も見惚れるほどだ。
そして身分さえも……誰もが憧れる勇者と王子を両立させた英雄という名の男。
神は二物を与えた。
完璧を絵に描いたような元主の登場に、内心茫然としている己を見下ろすラーティの背は、百七十五センチくらいはあるだろうか。
最後に見たときから五センチほど身長を伸ばしたにしては、それ以上に大きくなったように見える。
想像を絶する苦難にも耐えてきたのだろう。勇者一行が魔王討伐に旅立ってから一年が経ち、十九歳になって帰ってきた見慣れたはずの元主は、数多の死線を潜り抜け、すっかり大人の男へと成長していた。
町外れの掘っ建て小屋では、ルーカスの甥を名乗った後の妙に緊迫した空気と長い沈黙が続いていた。
参ったな、昔から何を考えていらっしゃるのか読めない方だったが……間が、持たない……
自分の居場所がラーティにないことも、もう戻ることができないことも、承知していた。なのに何故ラーティは己を訪ねたのか。
こちらを見下ろす元主の考えが読めず、ひたすら手元のお茶を見るに集中する。
はぁ、一向に帰ろうとはなさらないな……それにこの圧力……
立っているだけなのに、ラーティには無意識にその内から滲み出る高貴さと、生まれながらの有無を言わせぬ雰囲気がある。
上に立つ者の気質に呑まれて、服従するように下から掬い上げるような視線をラーティに向けてしまいそうになる。
そうして考える間に、頼みのお茶をとうとう飲み干してしまった。
湯呑みを木製の床にコトンと置く。
このままでは本当にまずい……
元主の迫力に降参して、全てを白状しそうになる。だがそれはどう考えても色々と無理だろう。
危ういところで保たれている均衡に、どうしたものかと追い詰められていると──「ワンッ!」と助け船が入った。
「「!」」
私の膝上から下りた黒い犬が、間に割って入ってきた。
当惑する自分を庇うように、ラーティの前で仁王立ちした黒い犬は、ウーっと唸り声を上げ牙を剥き出しにしている。
これはクーペが化けたものだ。
ドラゴンは変身能力を持っている。そしてそれは、人間の世界でドラゴンの子育てをするには好都合だった。
赤ちゃんといえども、ドラゴンが人間の生活圏内で普通に出歩いていては、流石に問題になる。
町に薪を売りに行く自分についてくるときや、城からの訪問者が来るとき等、人前では犬に化けるよう普段から訓練して、クーペは犬の鳴き方もちゃんと覚えたのだ。
おかげでこちらは、自分を取り戻せた。
「その犬は……」
「ああ、すみません王子。クーペ、私は大丈夫だからこちらへおいで」
しかしクーペはラーティの前から動こうとしない。
……王子に、あまりクーペを見られては困る。
ラーティの前で仁王立ちするクーペから目線を外させるため、再度呼ぶと、クーペは指示に従い縁側で胡座をかく自分の膝上に戻った。
膝上でお座りしているクーペは相変わらず牙剥き出しで、少々唸りぎみにラーティを睨み付けているが、育ての親である私の身を案じて威嚇しているだけだ。
食いしん坊で、出た腹を上にして縁側で昼寝するのが趣味の、のんびりマイペースな変わったドラゴンだがクーペはとても賢い。指示しない限り、無闇に相手へ飛びかかったりはしない。
しかし勘のいいラーティのことだ、あまり観察されると魔獣だと見抜かれるおそれがある。
それも赤ちゃんとはいえ、クーペは前回魔王なのだ。下手をすると現在勇者に討伐されてしまう……
「そういえば……もしも王子が自分を訪ねてこられたときには伝えてほしいと、叔父のルーカスから伝言を頼まれています」
「ルーカスが私にか?」
「はい、王子。彼はしばらく別の場所で過ごしながら今後のことを考えたいそうです。ですから自分のことは探さないでほしいと」
伝言も何も、そもそも王子が小屋に来るなど想定していなかったのだから、もちろん口から出任せだ。しかし即席の作り話をラーティが信じるかどうかよりも、今はクーペから話題をそらさなければならない。
「私はその間の留守を叔父から任せられました。彼は心の整理をするために、遠い異国の地にいます。もう冒険者ではありませんから、きっと環境の変化に戸惑っているのでしょう」
「異国の地だと?」
「はい、王子」
「…………」
ラーティは納得していない。
老兵のルーカスがいなくなった途端、まるでとって食ったかのように、ルーカスの甥を名乗る若者が現れ小屋に居着いてしまった。
不審に思うのは当然だが……
「陛下から何も聞いていらっしゃらないのですか?」
ルーカスから王子に伝言を任されたと咄嗟についた嘘以外は、城からの使者にもちゃんと伝えたはずだが。
「陛下には何度か拝謁しているが、陛下が主催される宴会では道中の話など魔王討伐に関する事柄を聞かれることはあっても、その間国であった俗事については一切話題に出ることのないよう配慮されている」
「ああ、なるほど……祝いの席でそのような話はご法度でしたね」
己が英雄と認められていた時代──城の宴会に最後に呼ばれたのは何十年も前のことだ。祝祭の礼儀作法などすっかり忘れていた。
その後もラーティの警護兵として彼に付き添い、城には頻繁に出入りしていたが、長らくそういった式典や催し物とは縁遠い生活を送っていた。
……そうか、城ではずっと祝祭が続いている。
オルガノは自分の件も含め、世事などの面倒事は全て祝祭が終わってから話すつもりでいたのだろう。
ではどうやってラーティは自分がいなくなったことを知ったのか。
「私がルーカスが小屋からいなくなったことを知ったのは、式典に参加していた貴族の話をたまたま零れ聞いたにすぎない。巷ではそのような噂が流れていると」
なるほど、祝祭の礼儀作法もオルガノの采配も、噂好きの貴族の口を閉ざすことまではできなかったということか…………ん? ちょっと待てよ?
「まさか……それで大事な式典を抜け出してきたのですか?」
「…………」
正装で現れたときから予想はしていたが、世事とは思わなかった。
いけない、思わず昔の慣れ親しんだ感覚で咎めるような話し方をしてしまった。
チラッとラーティの様子を見る──と、僅かな変化だが、彼は気まずい顔をした。
そういえば、そうだったな……この方は……
答えに詰まるラーティの素直な反応に、彼の幼い頃を思い出す。懐かしさを覚えて小さく笑った。
「……はは、本当に貴方は……」
「?」
突如笑い出した己に、ラーティは「何だ?」と訝しげな目を向ける。
「貴方は一見すると大人しいのに、いざとなると周りも驚くような行動をする」
力不足の老兵をやむなくパーティーから追放した。とはいえ、元従者の行方は気になったか。
それも大事な式典を抜け出すなんて……
「悪戯がバレた子供のような顔をされて……本当に困った方ですね」
「っ!」
初対面の相手に自身の表情を見破られたことへの意外さに、ラーティはその美しい碧眼を瞬いた。
ラーティが驚きを出したのはほんの数秒間だけだった。
僅かに開いた瞳孔も落ち着きを取り戻し、今はいつも通りの静かな顔をしている。
「……お前は私のことをよく知っているように話すのだな」
王子の言葉を重く捉え、反応してはいけない。
今の自分はルーカスの甥であって、ルーカス本人ではないのだから。
「王子のお人柄は叔父から事前に聞いておりましたので、私は叔父から聞いていた通りの方だと思っただけですよ」
「事前に? ルーカスはパーティーを追放されるまでずっと私の警護兵として傍にいた。それもルーカスが消えた日にお前は現れたらしいな。ルーカスと私のことを事細かに話す暇などなかったと思うが?」
「叔父とは普段から手紙をやりとりしていましたから」
「ではルーカスの居場所は知っているということか?」
「いいえ、王子。確かに手紙は続いていますが、叔父が小屋を出てからは手紙は受けとるだけで、こちらから送ったことはありません。私は叔父の居場所を知りませんので」
「一方的に送られてくるだけだと? それを信じろと?」
「はい、私は叔父がどこにいるのか存じておりません」
「あくまでも知らないと言うのだな?」
「はい、王子。私は存じておりません」
淀みなく返答する私を、ラーティはただ静かに見ていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「流石ルーカスの甥だな……お前はルーカスの居場所に関して口を割る気はないようだ」
「……何のことでしょうか。おっしゃっている意味がわかりませんが」
涼やかな顔でシラを切る私に、ラーティは不思議そうな顔をした。
「お前、年はいくつだ?」
「十九です」
「私と同年か」
「はい、おそらく」
「おそらく?」
「貴族の方々と違い、平民は自分の年の数を正確に把握していない者も多くいます。何しろ生きるだけで手一杯ですから、たまに数え忘れてそのままなんてこともざらです」
「……そうか」
今度は軽い問答に留めると、ラーティは改まった様子で縁側に座る私のすぐ傍まで近付き、その前の地面にゆっくりと片膝をついた。
背の高いラーティが自分よりも目の高さが低い位置で、顔を向かい合わせている。
こちらを見上げるラーティから発せられる不思議な安心感に戸惑い、私は何度も目を瞬いた。
「王子……あの、膝が汚れますよ?」
冒険用の装備ならともかく、今のラーティは正装だ。元従者としては、せっかくの綺麗な服が土で汚れてしまうと気が気でない。
しかしラーティは「構わない」と、何でもないことのようにサラッと流して、言葉通り衣服には目もくれない。膝が汚れることなど本当に全く気にしていないようだ。
「触れてもいいか?」
「え? あ、はいどうぞ」
…………ん? 触れるとはいったいどこをですか?
反射的に答えてから、次いであまりにも自然な仕草で頬に手を伸ばされて、なされるがままにラーティを受け入れてしまっていた。
ラーティが丁寧に私の頬に触れている。
表情こそほとんど変わらないものの、先程までの不審に満ちたものより幾分か穏やかな目をして私を見ている。
良かった。知力を滲ませる顔つきは昔と変わっていないな……
グランドキャッスルの噴火口に身投げしてから一年後──勇者一行が帰還した。
早朝、薪割りに精を出していた己の耳にも、勇者の凱旋に沸く民衆の声が届いた。
町から遠く離れた掘っ建て小屋まで聞こえてくるなんてと、斧を持つ手を止める。
首に掛けていたタオルで顔の汗を拭き、町のある方角に目を向けるが、森の木々に囲まれた掘っ建て小屋からでは町の様子は見えない。
「あっちはえらくにぎやかだな」
勇者の凱旋は、勇者パーティーを追放された自分には最も縁遠いものだ。
近付くことすら罪に思えてくる人々の歓声に背を向ける。
追放されたときの辛い記憶を思い出さないよう、薪割りの途中で止めていた手を再び動かしていると──ポスッと背中に何かが乗った。
「クーペ……」
一年経った今でもキラキラおめめの純粋な心と真っ黒な鱗の塊、人間の新生児サイズのカオスドラゴン。
クーペは「切られた」を意味する。カオスドラゴンが魔王であったときに、先代勇者のオルガノの一撃を受けた額の傷から付けた。
一緒に暮らし始めた当初はお腹が空くとよだれを垂らして腹をグーグー鳴らしながら、自分の周りを飛び回り「クークー」鳴いてひっついていたからだとか、毎日口にあれこれ詰め込んではペッペッと吐き出しているからだとか、そういう意味では……多少ある。
冒険者の集うギルドへ薪を売りに行ったときに小耳にはさんだのだが、ドラゴンの吐き戻しは鳥類にある育児行動と同じらしい。
雛同士でも吐き戻しで餌を与え合うこともあるようで、育児行動でなくても親愛なる相手に愛情を示すための吐き戻し行動は、頻繁にされているっぽい。
クーペはよく私の近くで吐き戻しては、キラキラした目でこちらを見てくる。
期待に応えられなくて申し訳ないが……
本来吐き戻しはドラゴン同士が行うもの。
しかしクーペは異種族の私を家族と認識してくれているらしい。
淋しい独り身同士、この一年身を寄せ合い暮らしていたからだろう。
勇者パーティーを追放されるまでは、年老いた自分の人生は王子兼勇者のラーティを唯一の主として、その警護兵であることを誇りに生涯の使命をまっとうするものと思っていたのに……
生きる目的を失い、噴火口に身投げして全てが終わると思っていた。
しかし今は同居人のドラゴンのお守りをしながら、その成長を気にしている。
不思議なものだ。
「お前がいなかったらあのマグマもどきの温水に浸かったまま、若返り過ぎて消滅する道を選んでいたかもしれないな」
──ありがとう。
言うと、背中にいるクーペが嬉しそうに尻尾を振る気配がした。
それにしてもクーペは食欲のわりに体が小さい。若返って筋肉の落ちた、どちらかというと細身の私の背中にひっついていられるくらいだ。
成長も遅いような気がする。
掘っ建て小屋での生活に慣れた今では、クーペは自分で餌を取りに行くようになったけれど、最初のうちは手ずから餌を与えられていたし、やはり赤ちゃんだ。多少の心配はあるものの……
毎日元気に大好物の蛇を探しては捕まえているので、多分大丈夫だろう。
自分の体長の倍はある蛇を丸呑みしているのを目撃したときは、流石に一瞬思考が停止したが……
雑食のドラゴンの腹は鋼鉄でできているらしい。丸吞み後はぽっこり出た腹を上に向けて縁側でぬくぬく日向ぼっこしながら、グーグーと盛大にイビキをかいてお昼寝していた。
それにクーペは小さい体でとても力持ちだ。
一年前に噴火口の中に落ちたとき、若返ったのはいいがどうやって抜け出せばいいのか、遥か頭上にある出口を見上げて困っていたところを解決したのが、お漏らし赤ちゃんドラゴンだった。
クーペはそのコウモリのような形状の羽を使って飛び上がり、噴火口の縁まで私を持ち上げてくれたのだ。
それからすぐに、下山した。
山の出入り口付近に立っている守衛に見つからないよう、彼らの頭上をまたクーペに運んでもらって切り抜けると、来た道を引き返し町外れの掘っ建て小屋に戻ってきたのだが……戻ってから数日後に、城からの使者がやって来た。
山から下りてこない私を心配して、念のため小屋に戻っていないか様子を見に来たのだ。
しかし若返った姿ではルーカス本人だと名乗ってもおそらく信じてもらえない。仕方なくルーカスの甥を名乗り、その証拠に魔王討伐のおり国王から授与された「英雄の証」を見せた。
ルーカスはしばらく遠い異国の地にいることにして、その間の国から支給される褒賞金の受け取りと、小屋の管理を彼から任されたのだと告げた。
もちろん疑われはしたが、英雄の証の効果は絶大だった。
甥を名乗ったルーカス本人に引き続き褒賞金は支払われることとなり、小屋への居住も認められた。
いつルーカスは山を出たんだとその後も聞かれて誤魔化すのは大変だったが……
そうして一段落つくと、完全に冒険者を引退した。
ギルドに登録していた自分の記録を全て削除してもらい、もう冒険者ではないのだからと、最初は適当に楽な格好をしようとしていたのだが……どうにもしっくりこない。
結局初期装備のライトアーマーを着て過ごすに落ち着いた。
小屋は町から離れているので魔物も出る。多少の防衛は必要だ。
何より、元ラーティの警護兵で戦士だった身体は、普通の衣服を着るよりも甲冑の方が慣れているし、性に合っていた。
先代勇者に魔王討伐の褒美としてもらった掘っ建て小屋を定期的にメンテナンスしながら、クーペが悪の道に突き進むことのないように育て過ごしたこの一年は、勇者パーティーを追放され職を失い、一人残された淋しさを伴うものではあったが、思っていたよりも悪くなかった。
勇者パーティーの凱旋から数日経った今も、祝祭は夜通し続いていた。
時刻は日暮れ前だというのに、町は静まるどころかますます盛り上がってきているようだ。
けして入ることのできない祝祭から聞こえてくる勇者の帰還に賑わう人々の声に、小屋の裏手で薪割りしていた手を止め、町の方を眺める。
「……いつまで続くんだろうな」
町の中心に築かれた城にはラーティがいる。
重い溜息を吐いた。
「こうして淡々と作業している方が少しは気が楽だが……」
没頭して、いつもは早朝に始めて昼前には終える薪割りを、今日は夕方近くまでやってしまった。
斧から離した手が強張っている。明らかにやり過ぎた。
そもそも生活費は褒賞金で十分すぎるほど足りている。
お金を稼ぐ必要はないのだが、薪割りは暇潰しと軽く体を鍛えるのにちょうどいいからやっているだけで、薪を町に売りにいくのも、体を動かすためだ。
ゆっくりとした足取りで小屋の中に戻り、薪割りを終えた手でお湯を沸かす。
しばらくして、お湯が沸く頃に周辺の森を散策していたクーペも戻ってきた。
縁側に腰を下ろす。胡座をかいた膝の上に、猫の代わりにクーペを乗せ、一緒にのんびり過ごす。
クーペの頭を撫でながら沈みゆく夕日を眺め、一日の終わりを惜しむように静かにお茶をすするのが、今の生活だった。
今日もこのまま何も変わらず、一人取り残された時間を過ごしていくんだろう。そう思っていた──が。
──ドクンッ。
何だ? みぞおちの部分……いや、もう少し下の腹の辺りが……熱い……?
突然の動悸に似た体を脈打つ感覚。当惑していたために、気付くのが遅れた。
「──ルーカスの小屋にいる、お前は何者だ?」
訪問者の久方ぶりの声を聞くだけで、体が震える。
圧倒的な存在に、俯きがちに腹部を見ていた顔を上げた。
縁側に座る私の前に現れたのは、魔王を討伐し帰ってきた、今は自国の英雄となった男──ラーティ・ド・ラスクール・テンペストだった。
家を囲う粗末な柵の向こうにいる、夕焼けを背にした金髪碧眼の美しい男。
柵を抜けてこちらへ歩いてくる姿を見るだけで、泣きそうになる。
「何故、いらしたのですか……? 王子……」
聞こえないよう俯きがちに、蚊の鳴くような声で呟く。
少し離れた距離からでも、どんな人混みの中でも誰とわかる。産まれたときより片時も離れず、見守り、自分が育て上げた。
ラーティは一見すると優しげな面差しだが、普段は素っ気ない態度で他人に媚びることが一切ない。そしてどんな苦境でも内心の辛さを出さず、弱音を吐くこともない。
他人に頼ることの少ないラーティは、表情も滅多に変えず、淡々とした様子でいつも気位の高い貴族のように振る舞っているが、その芯の部分は思いやりと優しさと、一貫した強さで成り立っている。
力の弱い女子供を大切にするし、理不尽なことを相手に押し付けたり、無下に扱うようなことはしない。
不器用の塊の元主だが、その根底は優しさでできているから、彼と関わったことがある者なら誰もが知っている。彼は一度懐に入れた相手は何があっても見放さないと。
そして誰もが彼を好きになり、こぞって力を貸したくなるのだ。
だからこそ、ラーティが自分を追放したことは、特別の意味を持つ。
普段は素っ気ないが、心根は優しい王子が見放すほど、自分がお荷物だったという事実。
ラーティは基本的に身分に関係なく誰に対しても等しく接するから、たまに王子という身分と上に立つ者の気質を忘れてしまいそうになる。
彼が誰よりも強い心の持ち主で、必要とあらばどんな相手にたいしても厳しい判断を下すこともあるということを。
そんな元主を頼もしく思う反面、それがいよいよ眼前まで来ると酷く動揺してしまった。
ラーティの影が縁側に座る己に重なる。観念しておそるおそる顔を上げると、真正面に佇む彼は王公貴族が着用する正装だった。
おそらく式典にでも出ていたのだろう。小屋に来たのはその帰りだろうか。
一年ぶりの懐かしい顔を見て──それから心底困惑した。
戦闘でも涼しい顔のラーティが珍しく汗をかいている。それも少し焦りを感じる様相で。
表情を滅多に動かさないはずのラーティが焦りを顔に出すなど、今日の彼はあまりにらしくない。
──もしや魔王討伐のおりに受けた傷が開いたのか?
思い付きに、思わず不安が口をついて出ていた。
「どうされたのですか? 王子、どこかお加減でも……?」
縁側で胡座をかいていた姿勢を崩し、前のめりになる。
長い年月を経て体に刻み込まれた元従者だった頃の感覚のまま、地面に足を下ろしラーティの傍へいこうとして──しかし次に発せられた彼の言葉にピタリと止まった。
「私を知っているようだが……私はお前を知らない」
そうだった、今の私の姿は……
私が若返ったことをラーティは知らない。
凱旋時の町中ならともかく、町外れの、それも知人の家にいる見知らぬ者から突然体の心配をされたら普通は警戒する。
この場にほかの人がいたとしても、ラーティはいつも通り淡々と話をしているようにしか見えないだろう。しかし長年仕えていた自分は元主の微妙な変化に気付いた。
当たり前のように近寄ろうとする挙動に反応して、ラーティの目に微かに驚きが宿ったことに。
落ち着いて、対処しなければならない。
二人の関係が昔のままだったなら、心配性の従者にラーティは毅然として答えてくれる。けれど今は違う。若返った自分は彼にとって全く関わりのない、赤の他人だ。
幸いラーティは驚いているだけで、引かれるまでいっていないのがせめてもの救いだ。そこまで拒否されては流石に傷付く。
これ以上ラーティを刺激しないよう、ひとまず座る姿勢を戻すと、元主が怪我をしていないか確認したい衝動を辛うじて抑えた。
「自己紹介もせず失礼いたしました。ルーカスは私の父の弟で、彼は叔父にあたります。私はルーカスの甥ですよ、王子」
「ルーカスの甥……?」
ラーティが怪訝そうにほんの僅か、眉を顰める。
元主の機微をつぶさに汲み取り、始終落ち着き払って答える。
「はい、王子」
手元のお茶をすする。
縁側で胡座をかき、興味なさそうに目線を逸らす。何でもないことのようにのんびりお茶を飲んでみたものの……内心冷や汗ものだった。
……まずいな、この方には逆らえないと思ってしまう。
元主の不機嫌な顔一つで、長年刷り込まれた主従の誓いが呼び覚まされる。
それに……
チラッとラーティを盗み見るようにしながら、胸の内で溜息を吐く。
分が悪いにも程があるだろう……
何故なら王子兼勇者ということを差し引いても余りある美しさに加え、優男風の容姿に凛とした眼差しの、非常に品のある姿は、まるで先代勇者のオルガノが現役だった頃を彷彿とさせるものだったからだ。
逆光に翳る整った顔立ちは以前にも増して磨きがかかり、完璧な輪郭を縁取る金の髪は夕日を浴びて燦然と輝いている。
縁側に座る私を静かに見据える、ラーティの空と海とを連想する碧眼はどこまでも澄んでいて、危うい儚さを孕み、美しい。
長い手足に厚い胸板。体格もよく、旅を経て完璧に仕上がったラーティの体は驚くほど隙がない。同性の自分も見惚れるほどだ。
そして身分さえも……誰もが憧れる勇者と王子を両立させた英雄という名の男。
神は二物を与えた。
完璧を絵に描いたような元主の登場に、内心茫然としている己を見下ろすラーティの背は、百七十五センチくらいはあるだろうか。
最後に見たときから五センチほど身長を伸ばしたにしては、それ以上に大きくなったように見える。
想像を絶する苦難にも耐えてきたのだろう。勇者一行が魔王討伐に旅立ってから一年が経ち、十九歳になって帰ってきた見慣れたはずの元主は、数多の死線を潜り抜け、すっかり大人の男へと成長していた。
町外れの掘っ建て小屋では、ルーカスの甥を名乗った後の妙に緊迫した空気と長い沈黙が続いていた。
参ったな、昔から何を考えていらっしゃるのか読めない方だったが……間が、持たない……
自分の居場所がラーティにないことも、もう戻ることができないことも、承知していた。なのに何故ラーティは己を訪ねたのか。
こちらを見下ろす元主の考えが読めず、ひたすら手元のお茶を見るに集中する。
はぁ、一向に帰ろうとはなさらないな……それにこの圧力……
立っているだけなのに、ラーティには無意識にその内から滲み出る高貴さと、生まれながらの有無を言わせぬ雰囲気がある。
上に立つ者の気質に呑まれて、服従するように下から掬い上げるような視線をラーティに向けてしまいそうになる。
そうして考える間に、頼みのお茶をとうとう飲み干してしまった。
湯呑みを木製の床にコトンと置く。
このままでは本当にまずい……
元主の迫力に降参して、全てを白状しそうになる。だがそれはどう考えても色々と無理だろう。
危ういところで保たれている均衡に、どうしたものかと追い詰められていると──「ワンッ!」と助け船が入った。
「「!」」
私の膝上から下りた黒い犬が、間に割って入ってきた。
当惑する自分を庇うように、ラーティの前で仁王立ちした黒い犬は、ウーっと唸り声を上げ牙を剥き出しにしている。
これはクーペが化けたものだ。
ドラゴンは変身能力を持っている。そしてそれは、人間の世界でドラゴンの子育てをするには好都合だった。
赤ちゃんといえども、ドラゴンが人間の生活圏内で普通に出歩いていては、流石に問題になる。
町に薪を売りに行く自分についてくるときや、城からの訪問者が来るとき等、人前では犬に化けるよう普段から訓練して、クーペは犬の鳴き方もちゃんと覚えたのだ。
おかげでこちらは、自分を取り戻せた。
「その犬は……」
「ああ、すみません王子。クーペ、私は大丈夫だからこちらへおいで」
しかしクーペはラーティの前から動こうとしない。
……王子に、あまりクーペを見られては困る。
ラーティの前で仁王立ちするクーペから目線を外させるため、再度呼ぶと、クーペは指示に従い縁側で胡座をかく自分の膝上に戻った。
膝上でお座りしているクーペは相変わらず牙剥き出しで、少々唸りぎみにラーティを睨み付けているが、育ての親である私の身を案じて威嚇しているだけだ。
食いしん坊で、出た腹を上にして縁側で昼寝するのが趣味の、のんびりマイペースな変わったドラゴンだがクーペはとても賢い。指示しない限り、無闇に相手へ飛びかかったりはしない。
しかし勘のいいラーティのことだ、あまり観察されると魔獣だと見抜かれるおそれがある。
それも赤ちゃんとはいえ、クーペは前回魔王なのだ。下手をすると現在勇者に討伐されてしまう……
「そういえば……もしも王子が自分を訪ねてこられたときには伝えてほしいと、叔父のルーカスから伝言を頼まれています」
「ルーカスが私にか?」
「はい、王子。彼はしばらく別の場所で過ごしながら今後のことを考えたいそうです。ですから自分のことは探さないでほしいと」
伝言も何も、そもそも王子が小屋に来るなど想定していなかったのだから、もちろん口から出任せだ。しかし即席の作り話をラーティが信じるかどうかよりも、今はクーペから話題をそらさなければならない。
「私はその間の留守を叔父から任せられました。彼は心の整理をするために、遠い異国の地にいます。もう冒険者ではありませんから、きっと環境の変化に戸惑っているのでしょう」
「異国の地だと?」
「はい、王子」
「…………」
ラーティは納得していない。
老兵のルーカスがいなくなった途端、まるでとって食ったかのように、ルーカスの甥を名乗る若者が現れ小屋に居着いてしまった。
不審に思うのは当然だが……
「陛下から何も聞いていらっしゃらないのですか?」
ルーカスから王子に伝言を任されたと咄嗟についた嘘以外は、城からの使者にもちゃんと伝えたはずだが。
「陛下には何度か拝謁しているが、陛下が主催される宴会では道中の話など魔王討伐に関する事柄を聞かれることはあっても、その間国であった俗事については一切話題に出ることのないよう配慮されている」
「ああ、なるほど……祝いの席でそのような話はご法度でしたね」
己が英雄と認められていた時代──城の宴会に最後に呼ばれたのは何十年も前のことだ。祝祭の礼儀作法などすっかり忘れていた。
その後もラーティの警護兵として彼に付き添い、城には頻繁に出入りしていたが、長らくそういった式典や催し物とは縁遠い生活を送っていた。
……そうか、城ではずっと祝祭が続いている。
オルガノは自分の件も含め、世事などの面倒事は全て祝祭が終わってから話すつもりでいたのだろう。
ではどうやってラーティは自分がいなくなったことを知ったのか。
「私がルーカスが小屋からいなくなったことを知ったのは、式典に参加していた貴族の話をたまたま零れ聞いたにすぎない。巷ではそのような噂が流れていると」
なるほど、祝祭の礼儀作法もオルガノの采配も、噂好きの貴族の口を閉ざすことまではできなかったということか…………ん? ちょっと待てよ?
「まさか……それで大事な式典を抜け出してきたのですか?」
「…………」
正装で現れたときから予想はしていたが、世事とは思わなかった。
いけない、思わず昔の慣れ親しんだ感覚で咎めるような話し方をしてしまった。
チラッとラーティの様子を見る──と、僅かな変化だが、彼は気まずい顔をした。
そういえば、そうだったな……この方は……
答えに詰まるラーティの素直な反応に、彼の幼い頃を思い出す。懐かしさを覚えて小さく笑った。
「……はは、本当に貴方は……」
「?」
突如笑い出した己に、ラーティは「何だ?」と訝しげな目を向ける。
「貴方は一見すると大人しいのに、いざとなると周りも驚くような行動をする」
力不足の老兵をやむなくパーティーから追放した。とはいえ、元従者の行方は気になったか。
それも大事な式典を抜け出すなんて……
「悪戯がバレた子供のような顔をされて……本当に困った方ですね」
「っ!」
初対面の相手に自身の表情を見破られたことへの意外さに、ラーティはその美しい碧眼を瞬いた。
ラーティが驚きを出したのはほんの数秒間だけだった。
僅かに開いた瞳孔も落ち着きを取り戻し、今はいつも通りの静かな顔をしている。
「……お前は私のことをよく知っているように話すのだな」
王子の言葉を重く捉え、反応してはいけない。
今の自分はルーカスの甥であって、ルーカス本人ではないのだから。
「王子のお人柄は叔父から事前に聞いておりましたので、私は叔父から聞いていた通りの方だと思っただけですよ」
「事前に? ルーカスはパーティーを追放されるまでずっと私の警護兵として傍にいた。それもルーカスが消えた日にお前は現れたらしいな。ルーカスと私のことを事細かに話す暇などなかったと思うが?」
「叔父とは普段から手紙をやりとりしていましたから」
「ではルーカスの居場所は知っているということか?」
「いいえ、王子。確かに手紙は続いていますが、叔父が小屋を出てからは手紙は受けとるだけで、こちらから送ったことはありません。私は叔父の居場所を知りませんので」
「一方的に送られてくるだけだと? それを信じろと?」
「はい、私は叔父がどこにいるのか存じておりません」
「あくまでも知らないと言うのだな?」
「はい、王子。私は存じておりません」
淀みなく返答する私を、ラーティはただ静かに見ていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「流石ルーカスの甥だな……お前はルーカスの居場所に関して口を割る気はないようだ」
「……何のことでしょうか。おっしゃっている意味がわかりませんが」
涼やかな顔でシラを切る私に、ラーティは不思議そうな顔をした。
「お前、年はいくつだ?」
「十九です」
「私と同年か」
「はい、おそらく」
「おそらく?」
「貴族の方々と違い、平民は自分の年の数を正確に把握していない者も多くいます。何しろ生きるだけで手一杯ですから、たまに数え忘れてそのままなんてこともざらです」
「……そうか」
今度は軽い問答に留めると、ラーティは改まった様子で縁側に座る私のすぐ傍まで近付き、その前の地面にゆっくりと片膝をついた。
背の高いラーティが自分よりも目の高さが低い位置で、顔を向かい合わせている。
こちらを見上げるラーティから発せられる不思議な安心感に戸惑い、私は何度も目を瞬いた。
「王子……あの、膝が汚れますよ?」
冒険用の装備ならともかく、今のラーティは正装だ。元従者としては、せっかくの綺麗な服が土で汚れてしまうと気が気でない。
しかしラーティは「構わない」と、何でもないことのようにサラッと流して、言葉通り衣服には目もくれない。膝が汚れることなど本当に全く気にしていないようだ。
「触れてもいいか?」
「え? あ、はいどうぞ」
…………ん? 触れるとはいったいどこをですか?
反射的に答えてから、次いであまりにも自然な仕草で頬に手を伸ばされて、なされるがままにラーティを受け入れてしまっていた。
ラーティが丁寧に私の頬に触れている。
表情こそほとんど変わらないものの、先程までの不審に満ちたものより幾分か穏やかな目をして私を見ている。
良かった。知力を滲ませる顔つきは昔と変わっていないな……
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