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02 グランドピアノ
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黄ばんだ、アンティーク調の白電話。このヨーロピアンデザインはアサミの趣味ではなかったが、手に溶けるようなしっくりした受話器の感触だけは気に入っている。
「もしもし。私よ、アサミ。カケル、あなた、何日間あの娘を私の元まで走らせたわけ?」
アサミは、アンティーク店の片隅にて、どこかへ電話をかけていた。声色低く、苛立ちすら混ざる。電話相手のカケルは、渇いた声で返答しているようで、アサミの眉間が彫りを深くするのもいたしかたない。
「あなたの根城とアンティーク店がどれだけ離れているか、知らないわけじゃあないわよね」
アンティーク店の観音開きの扉は、閉められたまま。店内は、そこかしこの壁にぐるりと取り付けられた蝋の灯りで、緋色に揺れる。
「仮にもあの娘は『追われている』身なのよ。転移術を施してやることは出来な──ええ。ああ、そうね、そうだったわ。あなた転移術が死ぬほど下手ですものね。右と左を──って! 冗談止しなさい。今回は冗談にもならないわ」
二階の空き部屋では、アメリアという少女が眠っている。アサミは電話相手のカケルへ、そのアメリアの扱いについてキリキリと怒っていた。
「ともかく。私は様子を見たり、保護の役割をするだけだわ。携わることは私には出来ない。あなた、それを忘れて?」
はあ、と大きな溜め息を漏らす。電話の向こうはカラカラと渇いた声を返す。
「いいわ。……ええ、ええ。そうしましょう。え? 嫌よ何言ってるの、ご自身でどうぞ。……ええ、ええそうよ。はい。じゃ、五日後。あぁ悪いけれど、あなたの求める設備はここにはないから。それだけはご自身で用意することね」
なかなかに冷たくあしらって、アサミはチャン、と鳴らして受話器を置いた。
額を押さえ、やれやれというように首を振る。
「開けなくちゃ」
店の観音開きの扉を、再度開けに向かうアサミ。踏ん張りを利かせ、体全体で押し開けるように、両扉とも一二〇度ずつ開く。ふわり、朝の風が冷たく入り込み、壁の蝋の灯りをいくつか吹き消していく。
「仕方ないわね……」
薄い唇を横に引き、アサミは店奥のグランドピアノへ向かった。
クッションのとうに死んだ演奏用のその椅子は、座面が硬く座り心地も良くない。尻を椅子の三分の一まで預け、右脚はペダルへと投げ出す。鍵盤の蓋を開けるも、埃避けのフェルト生地は行方不明になったまま。お目見えしたモノトーンの鍵盤たちに、柔らかく視線を落とす。
「夢よ。これもそれも、夢なのよ」
シのフラットから、トンと音を始める。
アサミの指が紡ぐそれは、ドビュッシーの【夢】。
幻想的な曲調、眠ってしまいそうなリズム、そして、郷愁を掻き立てる音色。
指だけがまるで別の生き物のように、鍵盤の上で静かに滑らかにうごめき、唄う。
二階の少女へ聴かせるためのそれは、強弱の表現も豊かに、心地よく、手本のような正確さすらあって。
(指だけなら、自他共に認めるほどに完璧なのよね)
アサミが馳せるは、右脚のカチャカチャという機械音。もうすっかり慣れてしまったが、アサミの義足の右脚でペダルを踏むと、義足とペダルのぶつかる音が曲の間に挟まってしまう。それは耳に執拗に入ってきて、ピアノを鳴らすアサミの集中の妨げとなる。
お気に入りの三連符は、しつこくない程度に強調させて、存在感を主張。リタルダンド。変わる雰囲気。肩を寄せるような、秘匿感を匂わす演出。クレッシェンド、そして吹っ切れたような表現。舞い降りてきた光のような高音の規律の良さ、緊張感。
その後の──ア・テンポ。
始めと違うのは、メインメロディラインに時折微かに光るような、わずかに混ざる高音の効果。低温の重厚感は薄くとも、高音への期待感、希望、欲求。そういう前向きな想いを持てる、ラストシーン。
演奏者のイメージを、ラストシーンで放つ。
長音が霞んでいく。
そっと指が離れれば、キイとピアノのどこかで軋む音がした。ガチ、とペダルと義足が離れた音。
すっかり曲へのめり込んでいたアサミは、その余計な音たちによって現実へと引き戻される。
まばたきの後に、目の前の銀細工に目がいった。グランドピアノの蓋上に、アンティークの品々が乱雑に山になっているのだが、その中の、ひとつ。
椅子から腰を上げ、モモに貼り付いたロングスカートを払う。目が合っていた銀細工を左手にすると、アサミは「ああ」と薄い唇を横に引いた。
「昼のあの娘に、渡しましょうかしら」
小窓から聴こえた小鳥のチュンチチ、の声が、完全に集中を切った。
銀細工を撫子色のショールに挟み、入り口そばのカウンターへ向かうアサミ。足元にも、アンティークの品々が詰まれた小山がいくつもあるが、その合間を縫うようにしてアサミは店内を闊歩する。
「コーヒーねぇ」
電話口でカケルに頼まれた事──「コーヒー豆用意しておいてくれよ」の言葉が頭を過る。アサミは溜め息を漏らした。
コーヒー豆は、ここにはない。この店は角地で、しかし右隣に小さな喫茶店があるが、アサミは迷っていた。
「おつかいくらい、頼んでもいいかしらね」
カウンターに頬杖をつけば、ギイ、ギイ、と階段を降りてくる重さを伴う音がした。
「あら、おはよう。アヤ」
グランドピアノの背後から、状況把握に困惑した少女──アヤが顔を出した。階段を降りた先に見えた光景──アンティーク店内の様子と、奥にひっそりと居るアサミに困惑している様子である。
「どうして、ワタシの名前を……」
絞り出したその声に、アサミはにこりと微笑んだ。
「私はアサミ。私ね、他人の心が読めるのよ」
だからわかったの、とアサミはカウンターから静かに出る。
「アヤ、話があるわ。よかったらこっちに座って」
アヤはしかし、存分にアサミを怪しんでいるようで、その場で二の腕を抱いてみじろぐ。
「大丈夫よ、カケルから話は聞いているわ」
「カケル……カケルさんを、知ってるの?」
「旧知の仲よ。喧嘩ばかりだけどね、ふふふ」
グランドピアノに腕を添え、アサミは止まった。
「ねぇ。私と情報交換しましょう。それと、整理もしなくっちゃあね」
「もしもし。私よ、アサミ。カケル、あなた、何日間あの娘を私の元まで走らせたわけ?」
アサミは、アンティーク店の片隅にて、どこかへ電話をかけていた。声色低く、苛立ちすら混ざる。電話相手のカケルは、渇いた声で返答しているようで、アサミの眉間が彫りを深くするのもいたしかたない。
「あなたの根城とアンティーク店がどれだけ離れているか、知らないわけじゃあないわよね」
アンティーク店の観音開きの扉は、閉められたまま。店内は、そこかしこの壁にぐるりと取り付けられた蝋の灯りで、緋色に揺れる。
「仮にもあの娘は『追われている』身なのよ。転移術を施してやることは出来な──ええ。ああ、そうね、そうだったわ。あなた転移術が死ぬほど下手ですものね。右と左を──って! 冗談止しなさい。今回は冗談にもならないわ」
二階の空き部屋では、アメリアという少女が眠っている。アサミは電話相手のカケルへ、そのアメリアの扱いについてキリキリと怒っていた。
「ともかく。私は様子を見たり、保護の役割をするだけだわ。携わることは私には出来ない。あなた、それを忘れて?」
はあ、と大きな溜め息を漏らす。電話の向こうはカラカラと渇いた声を返す。
「いいわ。……ええ、ええ。そうしましょう。え? 嫌よ何言ってるの、ご自身でどうぞ。……ええ、ええそうよ。はい。じゃ、五日後。あぁ悪いけれど、あなたの求める設備はここにはないから。それだけはご自身で用意することね」
なかなかに冷たくあしらって、アサミはチャン、と鳴らして受話器を置いた。
額を押さえ、やれやれというように首を振る。
「開けなくちゃ」
店の観音開きの扉を、再度開けに向かうアサミ。踏ん張りを利かせ、体全体で押し開けるように、両扉とも一二〇度ずつ開く。ふわり、朝の風が冷たく入り込み、壁の蝋の灯りをいくつか吹き消していく。
「仕方ないわね……」
薄い唇を横に引き、アサミは店奥のグランドピアノへ向かった。
クッションのとうに死んだ演奏用のその椅子は、座面が硬く座り心地も良くない。尻を椅子の三分の一まで預け、右脚はペダルへと投げ出す。鍵盤の蓋を開けるも、埃避けのフェルト生地は行方不明になったまま。お目見えしたモノトーンの鍵盤たちに、柔らかく視線を落とす。
「夢よ。これもそれも、夢なのよ」
シのフラットから、トンと音を始める。
アサミの指が紡ぐそれは、ドビュッシーの【夢】。
幻想的な曲調、眠ってしまいそうなリズム、そして、郷愁を掻き立てる音色。
指だけがまるで別の生き物のように、鍵盤の上で静かに滑らかにうごめき、唄う。
二階の少女へ聴かせるためのそれは、強弱の表現も豊かに、心地よく、手本のような正確さすらあって。
(指だけなら、自他共に認めるほどに完璧なのよね)
アサミが馳せるは、右脚のカチャカチャという機械音。もうすっかり慣れてしまったが、アサミの義足の右脚でペダルを踏むと、義足とペダルのぶつかる音が曲の間に挟まってしまう。それは耳に執拗に入ってきて、ピアノを鳴らすアサミの集中の妨げとなる。
お気に入りの三連符は、しつこくない程度に強調させて、存在感を主張。リタルダンド。変わる雰囲気。肩を寄せるような、秘匿感を匂わす演出。クレッシェンド、そして吹っ切れたような表現。舞い降りてきた光のような高音の規律の良さ、緊張感。
その後の──ア・テンポ。
始めと違うのは、メインメロディラインに時折微かに光るような、わずかに混ざる高音の効果。低温の重厚感は薄くとも、高音への期待感、希望、欲求。そういう前向きな想いを持てる、ラストシーン。
演奏者のイメージを、ラストシーンで放つ。
長音が霞んでいく。
そっと指が離れれば、キイとピアノのどこかで軋む音がした。ガチ、とペダルと義足が離れた音。
すっかり曲へのめり込んでいたアサミは、その余計な音たちによって現実へと引き戻される。
まばたきの後に、目の前の銀細工に目がいった。グランドピアノの蓋上に、アンティークの品々が乱雑に山になっているのだが、その中の、ひとつ。
椅子から腰を上げ、モモに貼り付いたロングスカートを払う。目が合っていた銀細工を左手にすると、アサミは「ああ」と薄い唇を横に引いた。
「昼のあの娘に、渡しましょうかしら」
小窓から聴こえた小鳥のチュンチチ、の声が、完全に集中を切った。
銀細工を撫子色のショールに挟み、入り口そばのカウンターへ向かうアサミ。足元にも、アンティークの品々が詰まれた小山がいくつもあるが、その合間を縫うようにしてアサミは店内を闊歩する。
「コーヒーねぇ」
電話口でカケルに頼まれた事──「コーヒー豆用意しておいてくれよ」の言葉が頭を過る。アサミは溜め息を漏らした。
コーヒー豆は、ここにはない。この店は角地で、しかし右隣に小さな喫茶店があるが、アサミは迷っていた。
「おつかいくらい、頼んでもいいかしらね」
カウンターに頬杖をつけば、ギイ、ギイ、と階段を降りてくる重さを伴う音がした。
「あら、おはよう。アヤ」
グランドピアノの背後から、状況把握に困惑した少女──アヤが顔を出した。階段を降りた先に見えた光景──アンティーク店内の様子と、奥にひっそりと居るアサミに困惑している様子である。
「どうして、ワタシの名前を……」
絞り出したその声に、アサミはにこりと微笑んだ。
「私はアサミ。私ね、他人の心が読めるのよ」
だからわかったの、とアサミはカウンターから静かに出る。
「アヤ、話があるわ。よかったらこっちに座って」
アヤはしかし、存分にアサミを怪しんでいるようで、その場で二の腕を抱いてみじろぐ。
「大丈夫よ、カケルから話は聞いているわ」
「カケル……カケルさんを、知ってるの?」
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