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100万ルブレの男
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ガラス張りの高層ビル群が密集したカミニシティの中心に、一際巨大なオフィスビル「カミニタワー」があった。国内最大手IT企業の本社や外資系企業のルーイ支社が入るこのビルは、ここだけでカミニ市在住の高所得者の大半が働いていると言っても過言ではなかった。
成功を夢見る若者が目指すこの新しいエリアは、地下の巨大な腹のなかに有象無象を抱えるクジラとは対を成すように見えて、その実は玉石混交の危うさがあった。
平日の午後、ランチタイムのピークも過ぎた頃。
タワー1階の開放的で無機質なエントランスフロアを、ひとりの男が慌ただしく歩いていた。
ずんぐりとした雪だるまのような体型で、ネクタイが二重顎の肉に食い込んでいる。きっちりと後ろに撫でつけた髪はテカテカと黒光りしていて、スーツの胸ポケットにはチーフを差していた。
右手には重そうな革鞄、左手にはスマートフォンを持って会話をしながら、出口へ向かっていた。
タワーの出入り口は回転ドアがゆったりと回り、絶えず人が出入りしていた。
ドアのタイミングに合わせるため、男は少し歩くスピードを落とした。通話が終わり、スマートフォンをスラックスのポケットにしまおうと視線を落とした瞬間、だれかと正面からぶつかった。
「きゃっ」
ぶつかった相手は華奢な女だった。
小さな悲鳴をあげると同時に、抱えていた大量の書類をぶちまけ、それは磨き上げられた床を滑って周囲に広がった。
慌てて身を屈めて書類を拾いはじめた女を、男はじろりと睨んだ。が、彼女が顔を上げた途端、嫌悪の表情はすっかり消え去った。
ブロンドヘアのその女は、息を呑むほど美しかった。
ふんわりとしたグリーンのサマーセーターに白色のタイトパンツ姿、足元はハイヒールを履いていた。足は細く長く、袖をまくった腕は透き通るような白い肌だ。セーターのVラインから覗く鎖骨はくっきりと浮き上がっていた。
男は思わず胸元を覗き込もうと前のめりになった。
女は胸元を手で押さえ、恥ずかしそうに笑った。
男は額に汗を浮かべつつ、
「お手伝いしますよ。ずいぶんと多いですね、ひとりでこんなに運ばせるなんて、冷たい同僚をお持ちのようだ」
「いいえ、わたしが無理をしたんです」
女は容姿のイメージに反して低い声で答えた。
しかし口調は舌足らずで甘えた印象があって、男の心臓は一層高鳴った。
「でもよかった、優しい方で」
「いやいや」
「謙遜しないで。ねえ、トゥーリンネイツ」
女は男の耳元に顔を寄せ、囁いた。
中年男———トゥーリンネイツは驚いて目を丸くした。
「わたしをご存知で?」
「ええ、もちろん。あなたはわたしのこと覚えてらっしゃらないの?」
女は細い指でトゥーリンネイツの柔らかい顎をくいと持ち上げ、正面から見つめた。
女の顔は薄化粧で、瞼にうっすらとアイカラーを引き、血色のいい唇にオレンジ系のリップを塗っている程度だった。しかしそれで十分、いやむしろ化粧が邪魔なくらいだ。くっきりとした二重瞼と長いまつ毛に縁取られた目は気だるげで、宇宙の深淵まで引き込まれそうな青い瞳にトゥーリンネイツはすっかり見惚れた。
こんな美しい女性を覚えていないはずがない。いったい、どこで出会ったのだろう?
言葉を失ってしまったトゥーリンネイツの腕に指先を這わせながら、女は片方の口角を上げ、にやりと笑った。それは思わず男の本能が疼くほどに色っぽく、しかし同時に背筋をぞくりとさせた。
トゥーリンネイツは急激に胸に込み上げた恐怖の正体に気づき、手にしていた紙を無意識に握りつぶした。咄嗟に逃げようとしたが、腕をがっちりと掴まれ、身動きひとつ取れない。
か弱い女のものにしか見えない細い腕は、凄まじく強靭だった。
トゥーリンネイツはごくりと唾を飲み込むと、震える声で言った。
「パパ……クジラの悪魔が、なぜ地上に?」
「“手配屋”の分際で、えらく羽振りが良さそうじゃないか。大企業のコンサルタントってのは、そんなに儲かるのか?尊敬しちゃうなあ」
「儲けてるなんてとんでもない、そんなことはないですよ、参ったなあ……あなたほどの方が、いったい、わたしになんの用です?」
「マラザフスカヤ学園の学長を始末する仕事を受け負っただろう?それを、クジラで目星をつけた数人の男に依頼した。そのひとりが、若くて逞しい陸軍上がりの青年」
「そ、そんなこともありましたかねえ。なにしろ、そういった依頼はいくらでもあるんでねえ、いちいち覚えてませんよ」
「忘れたなら思い出してよ。あんたには、殺しの仲介を頼んだ依頼主を潰してもらう」
「潰す?」
「そう。成功すれば、特別なご褒美をやるよ」
「ご褒美?なんの冗談です?」
「欲しいだろ、ご褒美。それとも、お仕置きがいいか?」
「お、お仕置きなんて勘弁してくださいよ……ちなみに、なにをくれるんですか?」
「なんでもいいよ、言ってみな」
トゥーリンネイツは首筋に流れ落ちた汗をハンカチで拭い、目の前で微笑んでいる人物を舐めるように見つめた。
フロアの遥か上方から降りそそぐ日差しにブロンドヘアが煌めき、まるで後光が差しているように身体の輪郭がぼんやりと光っている。トゥーリンネイツには、その姿は悪魔というより天使に見えた。
パパの姿をはじめて目にしてから7、8年は経つが、後にも先にもかれほど美しい人間に出会ったことはない。そんな人が「なんでもくれる」と言うのだ。選択肢はひとつしかない。
「……あなたを抱かせてくれ、と言ったらどうですか。もちろん、一晩でいい!」
「へえ、そういうのがいいんだ」
「ご存知ないんですか、地下の男どもは密かにあなたを狙ってますよ。昔は数知れない女を泣かせたらしいが、もう長くそんな話は聞かない。きっと女に飽きたんだ、とみんな噂してますよ。あなたが捨てた女にあなたの弱みを聞き出そうとする輩もいるくらいだ。しかし、息子たち以外はあなたに声をかけることさえ許されない。こんなチャンスはきっとこの先巡ってこないでしょう」
「ふうん。まあいいけど」
「本当に?いいんですね?なんてことだ、こんなことが現実にあるのか……そもそも、あのリースチヤとかいう学長はしぶとくて参ってたんだ。やつが生き延びているせいで、地下でのわたしの評判はガタ落ちだ。依頼主が諦めてくれるならそのほうが助かります。ただ、潰すと言ってもどうすればいいのか」
「簡単さ。あんたの顧客にアジアの服飾メーカーがあるだろう?ルーイでの販路拡大を狙っていると聞く。あんたの依頼主を買収するようかれらに持ちかけて、その噂を広めればいい。それで株価が下がれば老舗の名にも傷がつく。学長の首に懸賞をかけるどころではなくなるよ」
「なるほど。依頼主の正体も、すでに調べはついているというわけですか」
散らばった書類をすべて拾い、ふたりは立ち上がった。
「約束ですよ、あなたと一晩過ごせるなら、わたしはなんでもやりますよ」
トゥーリンネイツは執拗に念押しした。
“パパ”と呼ばれた男はくすっと意味ありげに笑うと、空いている片方の手で髪をかきあげた。
その手に、ゴールドのリングはなかった。
成功を夢見る若者が目指すこの新しいエリアは、地下の巨大な腹のなかに有象無象を抱えるクジラとは対を成すように見えて、その実は玉石混交の危うさがあった。
平日の午後、ランチタイムのピークも過ぎた頃。
タワー1階の開放的で無機質なエントランスフロアを、ひとりの男が慌ただしく歩いていた。
ずんぐりとした雪だるまのような体型で、ネクタイが二重顎の肉に食い込んでいる。きっちりと後ろに撫でつけた髪はテカテカと黒光りしていて、スーツの胸ポケットにはチーフを差していた。
右手には重そうな革鞄、左手にはスマートフォンを持って会話をしながら、出口へ向かっていた。
タワーの出入り口は回転ドアがゆったりと回り、絶えず人が出入りしていた。
ドアのタイミングに合わせるため、男は少し歩くスピードを落とした。通話が終わり、スマートフォンをスラックスのポケットにしまおうと視線を落とした瞬間、だれかと正面からぶつかった。
「きゃっ」
ぶつかった相手は華奢な女だった。
小さな悲鳴をあげると同時に、抱えていた大量の書類をぶちまけ、それは磨き上げられた床を滑って周囲に広がった。
慌てて身を屈めて書類を拾いはじめた女を、男はじろりと睨んだ。が、彼女が顔を上げた途端、嫌悪の表情はすっかり消え去った。
ブロンドヘアのその女は、息を呑むほど美しかった。
ふんわりとしたグリーンのサマーセーターに白色のタイトパンツ姿、足元はハイヒールを履いていた。足は細く長く、袖をまくった腕は透き通るような白い肌だ。セーターのVラインから覗く鎖骨はくっきりと浮き上がっていた。
男は思わず胸元を覗き込もうと前のめりになった。
女は胸元を手で押さえ、恥ずかしそうに笑った。
男は額に汗を浮かべつつ、
「お手伝いしますよ。ずいぶんと多いですね、ひとりでこんなに運ばせるなんて、冷たい同僚をお持ちのようだ」
「いいえ、わたしが無理をしたんです」
女は容姿のイメージに反して低い声で答えた。
しかし口調は舌足らずで甘えた印象があって、男の心臓は一層高鳴った。
「でもよかった、優しい方で」
「いやいや」
「謙遜しないで。ねえ、トゥーリンネイツ」
女は男の耳元に顔を寄せ、囁いた。
中年男———トゥーリンネイツは驚いて目を丸くした。
「わたしをご存知で?」
「ええ、もちろん。あなたはわたしのこと覚えてらっしゃらないの?」
女は細い指でトゥーリンネイツの柔らかい顎をくいと持ち上げ、正面から見つめた。
女の顔は薄化粧で、瞼にうっすらとアイカラーを引き、血色のいい唇にオレンジ系のリップを塗っている程度だった。しかしそれで十分、いやむしろ化粧が邪魔なくらいだ。くっきりとした二重瞼と長いまつ毛に縁取られた目は気だるげで、宇宙の深淵まで引き込まれそうな青い瞳にトゥーリンネイツはすっかり見惚れた。
こんな美しい女性を覚えていないはずがない。いったい、どこで出会ったのだろう?
言葉を失ってしまったトゥーリンネイツの腕に指先を這わせながら、女は片方の口角を上げ、にやりと笑った。それは思わず男の本能が疼くほどに色っぽく、しかし同時に背筋をぞくりとさせた。
トゥーリンネイツは急激に胸に込み上げた恐怖の正体に気づき、手にしていた紙を無意識に握りつぶした。咄嗟に逃げようとしたが、腕をがっちりと掴まれ、身動きひとつ取れない。
か弱い女のものにしか見えない細い腕は、凄まじく強靭だった。
トゥーリンネイツはごくりと唾を飲み込むと、震える声で言った。
「パパ……クジラの悪魔が、なぜ地上に?」
「“手配屋”の分際で、えらく羽振りが良さそうじゃないか。大企業のコンサルタントってのは、そんなに儲かるのか?尊敬しちゃうなあ」
「儲けてるなんてとんでもない、そんなことはないですよ、参ったなあ……あなたほどの方が、いったい、わたしになんの用です?」
「マラザフスカヤ学園の学長を始末する仕事を受け負っただろう?それを、クジラで目星をつけた数人の男に依頼した。そのひとりが、若くて逞しい陸軍上がりの青年」
「そ、そんなこともありましたかねえ。なにしろ、そういった依頼はいくらでもあるんでねえ、いちいち覚えてませんよ」
「忘れたなら思い出してよ。あんたには、殺しの仲介を頼んだ依頼主を潰してもらう」
「潰す?」
「そう。成功すれば、特別なご褒美をやるよ」
「ご褒美?なんの冗談です?」
「欲しいだろ、ご褒美。それとも、お仕置きがいいか?」
「お、お仕置きなんて勘弁してくださいよ……ちなみに、なにをくれるんですか?」
「なんでもいいよ、言ってみな」
トゥーリンネイツは首筋に流れ落ちた汗をハンカチで拭い、目の前で微笑んでいる人物を舐めるように見つめた。
フロアの遥か上方から降りそそぐ日差しにブロンドヘアが煌めき、まるで後光が差しているように身体の輪郭がぼんやりと光っている。トゥーリンネイツには、その姿は悪魔というより天使に見えた。
パパの姿をはじめて目にしてから7、8年は経つが、後にも先にもかれほど美しい人間に出会ったことはない。そんな人が「なんでもくれる」と言うのだ。選択肢はひとつしかない。
「……あなたを抱かせてくれ、と言ったらどうですか。もちろん、一晩でいい!」
「へえ、そういうのがいいんだ」
「ご存知ないんですか、地下の男どもは密かにあなたを狙ってますよ。昔は数知れない女を泣かせたらしいが、もう長くそんな話は聞かない。きっと女に飽きたんだ、とみんな噂してますよ。あなたが捨てた女にあなたの弱みを聞き出そうとする輩もいるくらいだ。しかし、息子たち以外はあなたに声をかけることさえ許されない。こんなチャンスはきっとこの先巡ってこないでしょう」
「ふうん。まあいいけど」
「本当に?いいんですね?なんてことだ、こんなことが現実にあるのか……そもそも、あのリースチヤとかいう学長はしぶとくて参ってたんだ。やつが生き延びているせいで、地下でのわたしの評判はガタ落ちだ。依頼主が諦めてくれるならそのほうが助かります。ただ、潰すと言ってもどうすればいいのか」
「簡単さ。あんたの顧客にアジアの服飾メーカーがあるだろう?ルーイでの販路拡大を狙っていると聞く。あんたの依頼主を買収するようかれらに持ちかけて、その噂を広めればいい。それで株価が下がれば老舗の名にも傷がつく。学長の首に懸賞をかけるどころではなくなるよ」
「なるほど。依頼主の正体も、すでに調べはついているというわけですか」
散らばった書類をすべて拾い、ふたりは立ち上がった。
「約束ですよ、あなたと一晩過ごせるなら、わたしはなんでもやりますよ」
トゥーリンネイツは執拗に念押しした。
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