執務室に鍵をかけたら 〜ある日の学長〜

インナケンチ

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100万ルブレの男

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〈学長、おはようございます〉

 朝、出勤したアルマーズは正門前でマロースに迎えられた。もちろん、声だけだ。門の上に設置された監視カメラの横にスピーカーがあり、警備責任者の落ち着いた声はそこから降ってきた。
 アーチ状の巨大な正門の横には小さな木の扉があり、マロースは挨拶と同時に解錠した。
 アルマーズはカメラに向かって軽く右手を挙げると、身を屈めてその扉をくぐった。

 馬や鳥の形に刈り込まれたトピアリーが点在する広大な芝生の庭を、アルマーズは大股に歩いた。持ち物といえば、縦長に折り畳まれた新聞紙だけだった。
 左手には教会があり、その奥には赤煉瓦造りの寮が並んでいた。庭の途中には大きな噴水があり、ぽこんぽこんと球状の水を間断なく吹き上げていて、その水の玉が空中で破裂するたび、辺りはダイヤモンドを散らしたように煌めいた。
 中央校舎に入ったアルマーズは、まだ人気もまばらでひんやりとしている建物を抜け、まっすぐ離れへ向かった。
 校舎の壁や天井のあちこちには、無数の最新型防犯カメラが隠されていた。そのすべてがマロースの目であり耳であり、学園内の様子は抜かりなくモニタリングされていた。
 相次ぐ脅迫の対策として、学園の警備を国防省さながらに作り変えたのはアルマーズ自身だったが、かれは時々、自分がマロースの体内に飼われているような感覚になった。物理的な身体を持たないマロースからすれば理解できない感覚で、「うっかりすると気味が悪くなる」というアルマーズの苦情は八つ当たり以外のなにものでもなかった。

 離れに入ったアルマーズは、挨拶もそこそこに職員室を抜け、執務室の扉を開けた。
 部屋のなかでは、マリオンとフルスタル———サプフィールが応接セットに向かい合って座っていた。

「おはようございます」
「おはよう」

 アルマーズはふたりの挨拶に応じると、持っていた新聞紙を応接セットのテーブルに投げた。そうして自分はデスクへ向かい、革張りの椅子にどかっと腰を下ろした。

「もう読まれたんですね」

 サプフィールが広げたそれは経済新聞で、中面に大きな記事が出ていた。

『アジアで急成長中服飾メーカー、学生服の老舗・フォルマを買収か』

「サプフィール、おれが確認したいのはふたつだ。違法行為はしていないな?」
「ええ」
「クジラへ行っていないな?」
「もちろん」
「ならいい。これで、勝手におれに100万ルブレの値段をつけた輩が片づいたわけだ」
「学長が言った通りでしたね」マリオンが言った。「法外な料金で学生服の受注を独占していたフォルマが、契約を切られたのを逆恨みしていた」
「言ったのは覚えていないがな」
「襲撃されたとき、わたしは確かに聞きました、『フォルマかオーバシか』って。オーバシは白ですね、学長の高すぎる要求をクリアしようと、熱心にコストカットに励んでいるようです」
「次の理事会が見ものだな。フォルマの計画を裏で後押ししていた役員がいたとしたら、どんな顔でおれを見るか楽しみだ」

 アルマーズはにたにた笑いながら、デスクトップPCの電源を入れた。
 マリオンはその意地悪な表情を不安げに見つめた。
 アルマーズの頭のなかに“元理事長”の顔が浮かんでいるのは、優秀な助手でなくとも想像に容易い。
 “元理事長”というのは、アルマーズが学長就任とともに理事長職も兼任すると半ば強引に決定したためにその任を解かれた、イーニンという男のことだ。ラマノヴァと同じ貴族階級の家柄に生まれた男で、プライドが高く、そのために表立って見苦しい真似はしないものの、アルマーズを恨んでいないはずがなかった。

「学長、お願いですから、あまり追い詰めないでくださいよ」
「それは向こうの出方次第だ」

 マリオンの心配をよそに、アルマーズの意識はクラウド上にアップロードされた全学年の成績表に向いた。

「———ふむ。成績が伸びないな。サプフィール」
「はい、なんでしょう?」
「中等部2年の担任全員と今日中に面談する。最新の勤務記録を送っておいてくれ」
「わかりました。ところで、ねえ学長、ひとつお願いがあるんですけど」
「なんだ」
「パパをクジラへ行かせたいんです」
「だめに決まってるだろうが」
「一度だけでいいんですよ、きっと面白いことが起こりますから」
「面白いことって?」

 マリオンが眉をひそめて言った。

「トゥーリンネイツがね、今回の件で、ご褒美に『パパを抱きたい』と言ったんだよ」
「は?!」

 マリオンとアルマーズはふたり揃って声を上げた。
 サプフィールは白のタイトパンツを履いた細い脚をソファの上に投げ出した。靴はハイヒールではなく、革靴だ。
 美しいブロンドヘアを指に巻きつけて遊びながら、

「ガルボイに聞いたんだけど、あの男がクジラに出入りするようになって10年も経ってないらしいんだ。つまり、かれが見たのはパパに成りすましていたぼくで、本人には会ったこともないんだよ。無知ほど怖いもの知らずってことだね、『パパを抱きたい』だなんて!ああ、本物の悪魔に出会ったかれがどんな目に遭うか、想像しただけでワクワクするよ」
「パパにはもう話したのか?」とマリオン。
「まだだよ。結果が出てからにしようと思って。早く言いたくてうずうずしてたんだ」
「絶対に言っちゃだめだ、その男、死ぬほうがマシなくらいの拷問を受けるぞ」
「いいじゃない、ぼくも混ざりたい」
「サプ!」
「だって、ぼくは無償で働いたんだよ。元軍人の青年に白状させるのも手間だったんだから。イアリートにも怒られちゃったし」
「なんでイアリートが怒るんだ?」とアルマーズ。
「プリコフ、元軍人くんね、いまはスーパーのレジ係として真面目に働いてるんだけど、すっかり気持ちが腐っちゃって、学長の襲撃を依頼した人物のことを聞こうとしても、知らない覚えてないの一点張りでさ。まず、心を開いてあげる必要があったんだよね」

 マリオンはそこまで聞いて、フルスタルが青年の「心を開く」ためになにをしたのか理解した。
 一方、アルマーズはまったく見当もつかず、「カウンセリングにでも連れて行ったのか?」と首を傾げた。
 フルスタルはふふっと笑い、

「まあ、似たようなことかな。問題はね、そのせいでかれが勘違いしたみたいなんだ。学園の前で待ち伏せしたり。それを知ったイアリートが怒っちゃって。ねえマリオン、どうしようか?」
「知らないよ、そんなの自業自得じゃないか!」

 マリオンは頭痛を覚え、こめかみを指で押さえた。
 イアリートとつき合いはじめて、サプフィールことフルスタルは前よりも陽気になった。あの毛むくじゃらの熊は、聞けば涙が出るほど献身的にフルスタルを愛していた。これで奔放な男遊びが少しは大人しくなるかと期待したマリオンだったが、どうやら甘かったようだ。
 フルスタルの話に興味を失ったアルマーズはデスクトップのモニタに顔を向けたまま、

「拷問はかまわんが、クジラへ行くのは却下だ。あと、殺すのもだめだぞ。相手がだれであれ、おれの下にいる間に殺人犯になるのは許さん」
「ご心配なく。ぼくたち、血で汚れるのは嫌いだから。殺しも趣味じゃないしね。でも」

 サプフィールは足を組み替え、なにやら思案げに視線を泳がせてから、言った。

「パパをクジラで遊ばせておけば、マリオンと学長も、ふたりでゆっくり朝まで過ごせるんじゃない?」

 それはまさに、悪魔的な天使の誘惑だった。
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