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第二章 綾なす姦計
第十三話 怪物
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「出せますよ」
珈琲ミルのハンドルを回しつつ、平然として千尋は言い切る。
まるで明日も会えると答えたような気軽さだ。
驚きの余り息をつめた才谷が注視する中、才谷が揃えた 濾紙急須に敷き、その上にさらにミルで砕いた粉を盛ると、鉄瓶から湯を細くゆっくり注ぎ入れる手際も良かった。
「まっこと怪物やな、おんしは」
生糸問屋を十七で興し、得意の語学を駆使して欧米諸国と交易し、巨額の富を得たとは聞いた。
だとしても、 二十歳やそこらの青年が扱う額の金ではない。
胆を冷やした才谷は、葉巻の煙を長く細く吐き出した。
どうやら自分が知っているのは、千尋のほんの一部にすぎないらしいと思うと、胡坐をかいた才谷は、肩を落として伏し目になる。
「なら、手を打とう」
と、才谷は再び目を上げ、断言した。
「ありがとうございます!」
千尋は、ぱっと顔を明るくした。
七輪の五徳に鉄瓶を戻し、あらためて才谷に 額づいた。
ひとしきりの交渉を済ませた千尋は、打って変わって目元をくつろげ、急須から琥珀色の液体を、ふたつの湯呑に、なみなみ注いだ。
ひとつを才谷に差し出して、千尋は残りの湯呑を掌の中で揺らしつつ、 馥郁とした香りを楽しむ。
「飲まんがか?」
「いえ、頂きますよ。でも、猫舌なんです。すみません」
「なんだあ? 猫舌? いい歳をして」
才谷は持参した 羊羹を、懐紙に乗せて楊枝で切り分け、千尋に勧めた。
千尋は酒より 甘味を好むのだ。
才谷自身も楊枝を刺して頬張ると、珈琲を口に流し込む。
「おんしゃー酒も煙草もやりよらん。 悪所通いもしやーせん。根っからの甘党で、おまけに猫舌ときたか。まるで 童だ」
悪態をつく才谷に、千尋は憎まれ口のひとつも言わずに笑んでいる。
この生温いような微笑みの裏に、どんな闇が潜んでいるのか。
計り知れない気がした才谷は、肩で深い息を吐き、黒光りのする 床柱に背中を預けて、しばし 惚ける。
窓の外に目をやれば、ぽかりと浮かんだ満月が、 糺の森の 黒影を深めている。
「げに、おんしゃー、なんぼになった」
「さあ……。どうなんでしょう」
千尋は 他人事のように言い捨てる。
そんな話はどうでもいいと言わんばかりに、羊羹と珈琲をかわるがわる口に運び、目を猫のように細めている。
「さあって……。わからんことはないろう」
「だって、私は親無しですから。とりあえず、二十二、三にしているだけです。奉行所に届けも出されていませんでしたし、調べようがありませんよ」
それの何が問題なのかと、千尋が目顔で語っている。
才谷はまたひとつ、千尋に関して初めて知った事実に驚く。
出生届けも出されなかった赤子が成長し、今まさに、この国の 舵を握っているのだ。
珈琲ミルのハンドルを回しつつ、平然として千尋は言い切る。
まるで明日も会えると答えたような気軽さだ。
驚きの余り息をつめた才谷が注視する中、才谷が揃えた 濾紙急須に敷き、その上にさらにミルで砕いた粉を盛ると、鉄瓶から湯を細くゆっくり注ぎ入れる手際も良かった。
「まっこと怪物やな、おんしは」
生糸問屋を十七で興し、得意の語学を駆使して欧米諸国と交易し、巨額の富を得たとは聞いた。
だとしても、 二十歳やそこらの青年が扱う額の金ではない。
胆を冷やした才谷は、葉巻の煙を長く細く吐き出した。
どうやら自分が知っているのは、千尋のほんの一部にすぎないらしいと思うと、胡坐をかいた才谷は、肩を落として伏し目になる。
「なら、手を打とう」
と、才谷は再び目を上げ、断言した。
「ありがとうございます!」
千尋は、ぱっと顔を明るくした。
七輪の五徳に鉄瓶を戻し、あらためて才谷に 額づいた。
ひとしきりの交渉を済ませた千尋は、打って変わって目元をくつろげ、急須から琥珀色の液体を、ふたつの湯呑に、なみなみ注いだ。
ひとつを才谷に差し出して、千尋は残りの湯呑を掌の中で揺らしつつ、 馥郁とした香りを楽しむ。
「飲まんがか?」
「いえ、頂きますよ。でも、猫舌なんです。すみません」
「なんだあ? 猫舌? いい歳をして」
才谷は持参した 羊羹を、懐紙に乗せて楊枝で切り分け、千尋に勧めた。
千尋は酒より 甘味を好むのだ。
才谷自身も楊枝を刺して頬張ると、珈琲を口に流し込む。
「おんしゃー酒も煙草もやりよらん。 悪所通いもしやーせん。根っからの甘党で、おまけに猫舌ときたか。まるで 童だ」
悪態をつく才谷に、千尋は憎まれ口のひとつも言わずに笑んでいる。
この生温いような微笑みの裏に、どんな闇が潜んでいるのか。
計り知れない気がした才谷は、肩で深い息を吐き、黒光りのする 床柱に背中を預けて、しばし 惚ける。
窓の外に目をやれば、ぽかりと浮かんだ満月が、 糺の森の 黒影を深めている。
「げに、おんしゃー、なんぼになった」
「さあ……。どうなんでしょう」
千尋は 他人事のように言い捨てる。
そんな話はどうでもいいと言わんばかりに、羊羹と珈琲をかわるがわる口に運び、目を猫のように細めている。
「さあって……。わからんことはないろう」
「だって、私は親無しですから。とりあえず、二十二、三にしているだけです。奉行所に届けも出されていませんでしたし、調べようがありませんよ」
それの何が問題なのかと、千尋が目顔で語っている。
才谷はまたひとつ、千尋に関して初めて知った事実に驚く。
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