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第四章 野分
第八話 ひどい男
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堤の新しい洋学塾の中二階に通された千尋が、部屋の行灯に火を入れる。
ほどなく堤が酒肴をのせた盆を片手に、上ってきた。
「どうした? 急に」
堤は千尋の側で胡坐をかいて座り込み、既に手酌で飲み始めている。
酒を呑まない千尋には、白湯が用意されていた。
酒のアテは豆腐、こんにゃく、れんこん、刻みごぼうの醤油の煮しめと、炙り海苔。
千尋は竃にくべて、さっと炙った香ばしい海苔を好んでいて、白飯の供としてもよく食べる。
「こんな夜分にすみません。本当は別に寄る所があったんですが、途中で沖田に会ってしまって」
「つけられたら困るって訳か」
「そういう事です」
千尋は決まり悪げに肩をすくめて苦笑した。
すると、空になった堤の盃に手を伸ばし、自分で注いで一息に呑む。
平素、呑んだ姿など見たことがない堤は驚いた。
「お前、酒が呑めるのか?」
「そりゃあ、呑めますよ。私だって子供じゃないんですから」
眉間に皺を寄せながら、二杯目目を注ぐ。
様子がおかしい。
千尋が酒に頼るほど動揺している。自暴自棄になっている。堤は千尋を凝視した。
「ほら。まだやっていますよ」
千尋は嘲るように、片側の頬を引きつらせている。
片手に盃を持ったまま窓際へいざり、障子を開けると、手摺りに肘を預けて笑っている。
深い闇へと目を凝らしている。
つられて堤も覗き込む。
細い格子の連子窓から、鬼火のような提灯が狭い路地を行き来する。
黒々とした人の影が交差する。
「沖田は今、長州狩りに燃えています。律儀な男だ。私たちを長州勢から守ると言う、約束だけは守ってくれるつもりらしい」
「それが、そんなにおかしいか?」
堤の声が責めるように低くなる。裏路地を走り去る大勢の足音がして、野犬が激しく吼えたてた。
「お前はひどい男だな」
堤は薄暗い畳の縁に視線を落として呟いた。
「佑輔の気持ちも沖田の気持ちも、知ってて嬲っているのか? お前は」
千尋を慕う佑輔に、佑輔を恋う沖田をあてがい、そそのかす。
どちらの気持ちも弄ぶような仕打ちだと、堤は渋い顔をする。
しかし千尋は堤を一瞥だけして前屈みになり、胡坐の膝に肘をつき、物憂げに頬杖をつく。
片膝を立て、着物の裾から白い腿を覗かせる。
そして高みから堤を裁くような、冷えた視線を返された。
蒼く燃える眼差しが、堅く閉ざされた唇が、もの言いたげに蠢いた。
まるで弁明しようとするように。
本意ではないとでも、訴えようとするように。
けれども千尋は窓の外へと目を向けた。
そして、そのまま動かない。
夜のしじまを新撰組の呼び子が切り裂き、徐々に近づく足音の群れ。断末魔の男の声が屋内にまで轟いた。
「用がないなら俺は寝るよ。お前も休め」
だんまりを決め込む千尋を、責めても説いても仕方がない。
部屋の隅には屏風を立て掛けられている。屏風の向こうに寝具が一式揃えてある。
立ち上がった堤が襖を閉じる音がして、行灯の火がほのかに揺れる。
千尋はその火を吹き消すと、窓の障子を静かに閉じた。
ほどなく堤が酒肴をのせた盆を片手に、上ってきた。
「どうした? 急に」
堤は千尋の側で胡坐をかいて座り込み、既に手酌で飲み始めている。
酒を呑まない千尋には、白湯が用意されていた。
酒のアテは豆腐、こんにゃく、れんこん、刻みごぼうの醤油の煮しめと、炙り海苔。
千尋は竃にくべて、さっと炙った香ばしい海苔を好んでいて、白飯の供としてもよく食べる。
「こんな夜分にすみません。本当は別に寄る所があったんですが、途中で沖田に会ってしまって」
「つけられたら困るって訳か」
「そういう事です」
千尋は決まり悪げに肩をすくめて苦笑した。
すると、空になった堤の盃に手を伸ばし、自分で注いで一息に呑む。
平素、呑んだ姿など見たことがない堤は驚いた。
「お前、酒が呑めるのか?」
「そりゃあ、呑めますよ。私だって子供じゃないんですから」
眉間に皺を寄せながら、二杯目目を注ぐ。
様子がおかしい。
千尋が酒に頼るほど動揺している。自暴自棄になっている。堤は千尋を凝視した。
「ほら。まだやっていますよ」
千尋は嘲るように、片側の頬を引きつらせている。
片手に盃を持ったまま窓際へいざり、障子を開けると、手摺りに肘を預けて笑っている。
深い闇へと目を凝らしている。
つられて堤も覗き込む。
細い格子の連子窓から、鬼火のような提灯が狭い路地を行き来する。
黒々とした人の影が交差する。
「沖田は今、長州狩りに燃えています。律儀な男だ。私たちを長州勢から守ると言う、約束だけは守ってくれるつもりらしい」
「それが、そんなにおかしいか?」
堤の声が責めるように低くなる。裏路地を走り去る大勢の足音がして、野犬が激しく吼えたてた。
「お前はひどい男だな」
堤は薄暗い畳の縁に視線を落として呟いた。
「佑輔の気持ちも沖田の気持ちも、知ってて嬲っているのか? お前は」
千尋を慕う佑輔に、佑輔を恋う沖田をあてがい、そそのかす。
どちらの気持ちも弄ぶような仕打ちだと、堤は渋い顔をする。
しかし千尋は堤を一瞥だけして前屈みになり、胡坐の膝に肘をつき、物憂げに頬杖をつく。
片膝を立て、着物の裾から白い腿を覗かせる。
そして高みから堤を裁くような、冷えた視線を返された。
蒼く燃える眼差しが、堅く閉ざされた唇が、もの言いたげに蠢いた。
まるで弁明しようとするように。
本意ではないとでも、訴えようとするように。
けれども千尋は窓の外へと目を向けた。
そして、そのまま動かない。
夜のしじまを新撰組の呼び子が切り裂き、徐々に近づく足音の群れ。断末魔の男の声が屋内にまで轟いた。
「用がないなら俺は寝るよ。お前も休め」
だんまりを決め込む千尋を、責めても説いても仕方がない。
部屋の隅には屏風を立て掛けられている。屏風の向こうに寝具が一式揃えてある。
立ち上がった堤が襖を閉じる音がして、行灯の火がほのかに揺れる。
千尋はその火を吹き消すと、窓の障子を静かに閉じた。
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