東京ラプソディ

手塚エマ

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1巻

1-3

 聖吾に腰を抱かれながら入った広間は、四隅に高価なならの柱と長押なげしを廻した和風意匠の造りだった。一方で、角材を井桁に組んだ格調高い格天井には、バロック様式のシャンデリアが吊られている。床には緋色の絨毯じゅうたんが敷き詰められ、半円アーチの細長いガラス窓が、広い芝生の庭に面して等間隔に並んでいた。
 更に壁には、薔薇の透かし文様の金唐革紙が貼られ、大理石の暖炉の上に配された巨大な鏡が、シャンデリアのきらめきを眩く映し出している。
 これほどまでの邸宅を構える聖吾の今の地位と権威を思うと、今更ながら気後れがする。
 十年前と同じように、無意識に聖吾の上着の裾を引いていると、頭の上で聖吾が微笑む気配がした。

「本日は御招き頂きまして、誠にありがとうございます」

 壁際の椅子に腰かけていた洋装のテーラーと、着物姿の呉服屋が立ち上がり、頭を下げる。
 中央に用意されたテーブルには風呂敷が広げられ、反物が山積みにされている。
 聖吾は最初にテーラーを呼び寄せて、律の両肩に手をかけた。

「今日はこの方の学生服と、コートと、礼装と準礼装をひと揃え。あとは普段使いのズボンとシャツをお願いします」
「礼装と準礼装?」

 聖吾の口から矢継ぎ早に言いつけられた注文に、律は驚愕の声を響かせた。オーダーメイドは学制服だけじゃないのかと、背後の聖吾を振り返る。

「だ、旦那様、あの……。私のような者にどうして御誂おあつらえの礼装を……」
「これからは、律さんを社交の場にお連れする機会も多くなるかと思います。急に入り用になってもいけませんので、最初に揃えてしまいましょう」

 屈託のない笑顔で答える聖吾を唖然と見上げ、律は酸欠になった金魚のように無言で唇を喘がせる。
 もちろん書生として、公の場や、格式高いサロンに同行することはあるかもしれない。
 しかし、書生や下男は建物には入らずに、馬車やくるまで主人の帰りを待つのが礼儀であり、習わしでもある。主人と同格の礼装をした書生など聞いたことも見たこともない。

かしこまりました」

 白い手袋をはめたテーラーにうやうやしく採寸されながら、律はおろおろとよろめいた。
 一方の聖吾はといえば、呉服屋が用意した反物の中から結城紬や御召のような高級生地ばかり選び取り、神妙な顔で眺めている。てっきり聖吾の物だと思ったそれが、書生のために選んだ生地だと知らされ、思わず声を荒立てた。

「そんな高価な着物を頂く訳には参りません! 私なんぞはかすり木綿もめんで結構です!」

 紬や御召の着物など、御側付おそばづきが何でも用をしてくれる旦那衆か奥方仕様の生地だ。
 労働階級が普段使いにするような生地ではない。
 律が想像していた書生とは、屋敷の一角に用意された座敷で、他の書生と一緒に寝起きをし、くりやの隅で女中と一緒に一汁一菜の食膳にありつく。そんなつましくも堅実な生活を送るものだ。
 それなのに、聖吾の言動が指し示すそれは自分が知っている書生の姿とあまりに違いすぎていて、頭の中が真っ白だ。
 聖吾は自分をどうしようというのだろう。
 屋敷に上がったら手に職をつけるために学校に通い、帰宅したら主人のために雑用をこなし、世話をする。単純にそう思い込んでいた律は、自分の身にとてつもなく恐ろしいことが起きようとしている気がして、血の気が引いた。
 しかし、聖吾は慌てふためく律を組み伏せようとするように、満面の笑みを返してきた。

「ですが、これは先程申し上げた、律さんの『仕事』に必要なんです」

 と、紬の中から数本の反物を呉服屋に手渡した。
 聖吾は律の困惑を気にも留めず、それで着物と羽織を誂えるよう指示をした。そのうえ、黒紋付の羽織袴まで追加する聖吾を、律は為す術もなく眺めるしかない。
 それでも聖吾が用意してくれる『仕事』の実情が見えないうちは、自分の口から『必要ない』とも言いきれない。

「律さんはお顔立ちに品があり、清楚でいらっしゃるから、着物の地の色が濃いと印象がちぐはぐになりますね。茶でも鼠でも、少し淡めの方が品があってお似合いでしょう」

 聖吾はその後もスタイルブックを手に嬉々として素地を選び、革手袋から襟巻、外出用の帽子まで注文した。
 律はといえば姿見の前に突っ立って、聖吾が顔の近くに反物を当てるに任せることしかできずにいた。



  第五章 籠の鳥


 ルイ王朝時代のフランス宮廷を模したという白亜の校舎のあちこちから、ピアノや管楽器や、美しいソプラノの歌声が、漏れ聞こえてくる。
 ひと月前に音楽大学に復学し、階段教室で講義を受けつつ、律は物憂げに息を吐く。万年筆は板書の痕も何もない真っ白なノートに置かれたままだ。半円形で観音開きの双子窓からそっと外に目をやれば、はるか彼方に優美な文様を描く鉄の門扉が霞んで見える。
 門まで続く手前の広大な敷地には、花壇が左右対称に配置され、中央に設けられた噴水が冬の淡い日差しを弾いて飛沫しぶきを跳ねさせていた。
 休学していた頃ならば、帰宅する学生の群れに逆らって、仕事場に向かっていた頃合だろう。
 木枯らしの向かい風が、空腹で冷えきった身体に堪えたものだ。
 しもやけのできた凍えた指で必死になってカフェーのピアノの鍵盤を叩いていた。
 もらった日銭で帰りに屋台の支那蕎麦をすする。聖吾に引き取られる前の極貧生活の中での、人生最良の瞬間だった。あの頃に比べたら、今は天国のような暮らしをさせてもらっている。
 何の心配も憂いもない。
 それなのに気がつくとまた、あの血へどを吐くような半年間に想いを馳せる自分がいた。
 律が板書もせずに呆けていると、授業の終了を報せる鐘が厳かに校内に反響した。と同時に、とりとめのない回想から引き戻されて、机の上の楽譜を閉じる。慌ただしく文具を鞄に収めた律は逃げるように講堂を後にした。
 稼業が破産するまでは、この中に何の違和感もなくいられたはずが、異邦人のようだった。

「おい、待てよ。律!」

 二階からエントランスホールに続く大理石の大階段を下っていると、頭の上から呼び止められた。
 声がした方へ顔を向けた律に、二階ホールの手摺りから同期生の長沼ながぬま丹下たんげが身を乗り出させている。彼等の頭上では、ドーム天井にほどこされた漆喰彫刻と金箔張り、壮大なシャンデリアが豪奢なきらめきを放っていた。

「毎日毎日、そんなに急いで帰らなきゃならない用でもあるのか?」

 長沼が不満そうに眉間に皺を作っている。

「別に用はないけど……。迎えの車を待たせてるから、あんまり遅れると悪いだけ」
「用がないなら珈琲でも飲んで帰ろう。せっかく復学したっていうのにお前ときたら授業が終われば、あっという間に姿を消すし。話をする暇もないじゃないか」

 ぼやいた長沼と丹下は制服の角帽を被り、赤絨毯じゅうたんが敷かれた大階段の中央を下りてきた。丹下は律の肩を抱き込みながら歩き始める。
 丹下は、どこぞの王宮と見紛うばかりのホールの豪華さにしっくり馴染む美男子だ。すっきり整った顔立ちで佇まいも洗練されているのの、口元には締まりがない。いつも冷笑とも侮蔑ともつかない薄ら笑いを浮かべている。

「銀座に新しくできたカフェーの女給が美人だって評判なんだ。ちょっとだけ付き合えよ」

 青年らしいキラキラした目が、今の律にはまぶしすぎた。

「そんなこと言われても困るよ。僕はカフェーで珈琲なんか飲めるような身分じゃないんだ」
「おいおい冗談言うなよ。お前は今あの水嶋財閥のご当主様に後見人になってもらっているんだろ? いい歳してまさか一銭も持たされていないのか?」

 丹下が安っぽい皮肉で律を挑発する。

「……そんなことはないけれど」

 律は鞄を抱えてうつむいた。
 書生らしい仕事は何ひとつしていない。丹下にも長沼にも、聖吾は縁戚の後見人だとしか言えずにいる。
 小遣いも分不相応なほどもらっている。聖吾からも午後八時の門限さえ守ってくれるなら、友人達と遊びにいったらいいと言われていた、けれど、身内でもないうえ、既に充分すぎるぐらいの面倒をみてくれている。聖吾が一日中、朝早くから深夜まで忙しく働いて得た報酬の中から与えられた小遣いを、自分の遊びに費やす気にはなれずにいた。

「ごめん。やっぱりまた今度にするよ」

 自分のために使うのは自分で働いた金がいい。
 風呂焚きでも薪割りでも鞄持ちでも何でもして、その労働の対価として与えられる賃金ならばカフェーや映画館にも行けるだろう。
 そうでなければ後ろめたいし罪悪感も拭えない。律はうつむいたまま小声でびると二人の制止をふり切った。
 大理石のホールを走り抜け、主庭の石畳を誰とも目を合わせずに通り過ぎる。鉄扉の正門前には既に黒いボンネットの自家用車が停まっていた。
 聖吾の書生になったはずなのに、屋敷から大学に車で通学するなんて考えもしないことだった。半年前まで音大には市電を乗り継ぎ、あとは徒歩で通っていた。
 聖吾には市電で通うと散々訴えてみたが、『私が主人になったからには、律さんが犯罪の標的にされる危険は避けられない』と諭された。
 実際、花街で誘拐の標的にされた過去があるだけに、できるだけ一人で出歩かないよう懇願されれば、過去に被害を被った聖吾の言に従うしかない。
 律が正門から出てくると、紺の詰襟に制帽を被った運転手がすぐさま車を降り立った。

「お帰りなさいませ」

 白手袋をはめた男に後部座席のドアを開かれ、うやうやしく頭を下げられる。律は背中がむず痒いような居心地の悪さを懸命に抑え込んだ。

「すみません。お待たせ致しました」

 そそくさと乗り込む律を行き交う学生達がもの珍しげに見つめている。中にはわざわざ近寄ってくる者もいて、律は後部座席で小さくなる。
 ここ数年で車が急速に普及し始めたとはいえ、社用で用いる公用車がほとんどだ。私的に車を動かす者は滅多にいない。
 裕福な学生でさえ、市電やくるまで通う中、送り迎えに運転手付きの自動車を寄越すなど学習院に通う皇族ぐらいなものだった。
 聖吾は新しい環境に慣れたら仕事をさせると言ってくれた。
 けれどそのために分不相応な生活をさせる必要があるのだろうか。こんな下にも置かない扱いは、慣れるどころか肩身が狭くなるだけだ。
 自分にはこれ程までの贅沢をさせてもらう理由がない。


        ◆


「律さん。それでは今夜はビリヤードをお教えします」

 夕食後、就寝までの予定を聖吾に訊かれた律は宿題もなく、特にないと答えた。すると、洋装のシャツとスラックス、ジャケットに帽子といった外出着に着替え、革靴で撞球場どうきゅうじょうに来るように告げられた。
 撞球場どうきゅうじょうはビリヤードを楽しむためだけに庭の一角に建てられた煉瓦造りの重厚な建物だ。
 玄関はあるが三和土たたきはないため、革靴のままで中に入る。

「ちなみに、ビリヤードの経験は?」

 先に来て待っていた聖吾に訊ねられ、律は左右にかぶりを振る。

「いいえ。ビリヤードなんて私は一度も……」
「律さんがあまりに礼儀正しく、家と学校しか行き来をなさらないものですから、少しは遊びも覚えた方が、後々のためになることもありますから」

 遊んでこいと言いながら、本物の書生のように直帰してくる律を愛でているかのような口振りだ。

「わかりました。欧米では社交場のひとつとして撞球場どうきゅうじょうが用いられます。三つ揃いの背広に革靴と帽子を必ず被り、ゲームに臨むのが紳士のたしなみ、といったところでしょうか」

 オイルヒーターで温められた室内は長袖のシャツ一枚でも充分だが、聖吾はジャケット、シャツ、ネクタイに加えてベストまで着ていた。
 律とてビリヤードでするいくつかのゲームは知っている。
 だが、東濃の旧家では、そんなハイカラな遊びをたしなむ者はいなかった。
 聖吾は手球を撞くためのキューを持ち、グリップを布で拭いている。

「最初はビリヤードテーブルでラックを使い、ひと塊に組んだ的球に、キューで撞いた手球を強く当てて大きく球を散らせます。後は手球をキューで撞いて台の六つのポケットに落とすというだけの簡単なルールです。まだ日本人には馴染みがありませんが、ビリヤードで腕を奮うと、それだけ欧米人から対等な紳士として扱われます。ですので、律さんも練習なさってはいかがかと」

 聖吾は自ら手入れしたキューを律に差し出した。

「私にですか?」

 音楽家に進路を取らせておいて、まるで実業家がするような遊びを身につけさせると言い出す聖吾の意図が、わからない。

「ビリヤードなんて、私に必要なのでしょうか?」
「ほら、また、そういうところです。ビリヤードは紳士のたしなみとして身につけるのも大切ですが、もう少し私に打ち解けてくださればと思っているんです」

 胸板や肩口の厚みと、引き締まった細い腰が強調されて悩ましく見える立ち姿に、見惚れて呆けていたのだろう。

「律さん?」
「はい、旦那様!」

 厳めしい声で呼ばれた律は、背筋を板のように固めて起立する。

「それでは実践的に伝授しましょう。まずは基本のポージングです」

 緑の羅紗布敷きのビリヤードテーブルの中心に的球をひと塊、木枠を使って器用に整え、棒立ちの律の背後に回って言った。

「キューの持ち方をご覧になったことは?」
「はい。あります」
「キューは利き手で持ちます。律さんは右手になりますね。それから左手の親指と人差し指で作った輪にキューを通して狙いを定めます。白の手球を強くしっかり撞く。ひと塊の的球をできるだけ大きく散らせてください。これがブレイクショットです」

 律は聖吾のあやつり人形さながらに、聖吾の指でキューを持つ指の形を作らされ、聖吾に手の甲をしっかり押さえつけられて、他の指も台につくようブリッジを整えられていた。
 密着した背中に聖吾の逞しい胸板が当たる。そのうえ頬を擦り寄せるようにして語られては、手順も耳に入らない。
 胸の鼓動がはちきれんばかりに猛り狂い、こめかみまでもが脈打った。

「さあ、では、一度撞いてみてください。右の肘を支点にした振り子のようにキューを動かし、手球に水平に当てましょう」

 言われるままにキューで手球を水平に撞くと、狙い通りに命中した。
 小気味よい音を立てて、赤、青、緑など、色とりどりの的球がテーブルに広がった。

「そうです。その通りです。お上手ですよ。やっぱり律さんは勘が良いから、教え甲斐がありますね」

 二人羽織さながらに、ほとんど聖吾が撞いたにも関わらず、大きな声で褒めそやす。
 律は、くすりと微かに笑う。
 教え上手の聖吾は、とびきりの褒め上手。
 どんなに小さな進歩でも見逃さず、必ず褒めてくれるのだ。
 聖吾が御側付おそばづきだった頃は、テニスもスキーもこんな風に教わった。
 郷愁が律の胸にせりあがる。思い起こせば、亡き父も兄も鷹揚に律に微笑みかけてくれていた。東濃随一の名家と謳われ、何ひとつ欠けることなく幸せだった日々。
 その中には他でもない聖吾がいた。
 聖吾もこの上なく幸せそうに。
 何もかも満ち足りているような顔をして。

「今、律さんがブレイクショットでゲームをスタートさせました。今度は私の番になります」

 手球を前にフォームを完璧に決めて構えた聖吾は美しく艶やかだ。
 まだ養育係だった頃は、十一歳の律にビリヤードを教える必要はなかったからだったのか。初めて教わるビリヤードは、正装の紳士のポージングや、的球がぶつかる時の小気味よい音。すべてがいかにも大人の男のたしなみといった色香がある。
 テニスやスキーを教えてくれた聖吾とは違う、大人の男の色気と艶感だ。

「目標の的球とポケット、キューの先端を結んだ直線は、シュートラインと呼ばれます。シュートラインを見定めてキューで撞きましょう」

 身構えた聖吾は説明を終えるや否やキューで撞き、的球をポケットに入れ込んだ。これが見本と言わんばかりのパフォーマンスだ。

「さあ、今度は律さんです。今夜は、ひと通りの型だけなぞるつもりで結構です」

 聖吾の前だと、いつも良いところを見せたくて、つい身体に力が入ってしまう。
 そんな悪癖も承知の上での声かけだ。
 最初から完璧を目指す方が非現実的だと、気づかせてくれている。
 肩を上下させつつ、首も回した律は、聖吾からキューを受け取った。

「ああ、律さん。それでは身体とテーブルとの距離が開きすぎです。軸足になる左の膝を曲げるなり、足の幅を広げるなどして、身体を低く保ちましょう。胸がテーブルに付くか付かないかの距離感です」

 左の足の位置を変えてみたり、背中を手のひらで軽く押すなど、態勢を整えるために、聖吾は足首や腰の上縁にも触れてきた。
 しっかり腰骨を両手で持たれて前傾させられ、腿や膝にも触られる。なんだか聖吾に向かって尻を突き出すかのようなポージングを披露するのは、恥ずかしい。
 聖吾はその背中にのしかかるようにして、肘の角度や足の位置など調整するのだ。
 こんなことは、ただの指導だ。それなのに。

「どうかなさいましたか?」

 時折聞かれて、律は「いいえ!」と、直立する。身体が熱くなっているのを自覚して、挙動不審になっている。

「旦那様。少し暖房が効きすぎているかもしれません。上着は脱いでも構いませんか?」

 聖吾はゲームを始める前に、ベスト姿になっている。シャツの袖もまくられて、気軽な身なりになっていた。

「ああ、そうでした。すみません。本来ならば上着も着たまま、帽子も被ったままで行うゲームです。ですから慣れて頂かなくてはと思ってましたが、今日は練習ですし。そこまで要求するのはやめましょう。上着は脱いでくださって結構です」

 答えながら、背後に回った聖吾が脱ぎかけた上着を女中のように袖まで下して受け取った。

「旦那様!」

 律は聖吾の冗談めかした女中の真似を一喝した。

「私はいつも申し上げているつもりです。旦那様がそのような真似をなさっては、旦那様の沽券こけんに関わる重大事です」

 口から火を吐くようにして怒鳴ったが、もらい受けた上着を肘に掛けたまま、聖吾はやにさがって笑っている。

「律さんは、いつもそうやって少しも打ち解けてくださらないじゃないですか。上着を脱がして差し上げるぐらい、黙って見逃してもくださらない」

 寂しげな顔で追及されると、律も言葉が出てこない。

「せめて二人きりでいる時は、私と遊んでも頂きたいのに、あなたは朝起きてから夜寝るまでの間中、私の書生のままなんて」

 憂いを帯びた顔つきに、律は鼓動をはね上げた。けれども聖吾は律の顔を見ようともせず上着を凝視し、鼻に近づけ、犬のようにくんと一瞬匂いを嗅いだ。
 匂いを嗅いだ?
 律は驚愕と焦りと笑いと気色けしきの悪さがドカンと噴き出し、あっけにとられる。
 しかも、まったく何事もなかったようにハンガーに上着を通すと、ハンガーラックに掛けたのだ。
 これは聖吾が今言った『遊び』なのか『悪ふざけ』なのかが判別できずに固まった。
 それなのに聖吾はといえば、律の上着を掛け終えて、オイルヒーターを弱にしている。
 バーカウンターに用意されたクーラーで、冷やしたシャンパンのふたを開け、フルートグラスをふたつ棚に並べて置いた。

「旦那様! 私の分でしたら」
「ここは遊び場ですから無礼講でいきましょう。あなたも喉が渇いたでしょう?」
「喉は渇いておりますが、私は水を頂きます」

 カウンター内に許しも請わずに入った律は蛇口からフルートグラスに水を入れ、立て続けに三、四杯は飲み干した。

「喉の渇きは収まりました。ですのでシャンパンはいりません」

 肩で息をするようにして、聖吾を制した律の顔をまじまじ見ていた聖吾が小さく噴き出した。

「わかりました。私は乾杯すらもしてもらえずに一人で寂しく頂きます」

 残ったグラスに黄金色のシャンパンを注ぎ、細い柄を持ち、口に寄せる。その一連の所作は映画俳優か何かのように耽美だった。

「あっ、申し訳ございません。旦那様に手酌をさせてしまいまして」
「では、律さんはフルートグラスに注ぐ方法をご存じですか?」

 言われてみれば、人に酌などした経験は一度もなかった。もともと酒は飲まないうえに、もしも飲めたとしても自分は注がれる立場であったからだ。

「ワインやシャンパンも上手く注げば、西洋人から一目置かれます。彼らは女性に酒を注がせる日本の文化を程度が低いと、いつも馬鹿にしますから」

 聖吾はグラスで一杯たしなんで、何事もなかったようにキューを持つ。

「今度は一対一でのプレイをしましょう。ですが、あくまでも練習ですので、勝ち負けにはこだわらず」

 聖吾は相手が律でも初心者でも、手を抜くようなことはない。
 台すれすれに胸を近づけ、肘を引き、片目を細めて打つ聖吾。
 そんな彼にときめく自分を隠しきれなくなっている。

「今日はこのぐらいにしておきましょうか」

 聖吾には、時間を見つけて練習するように言い渡された。
 けれども、ビリヤードは紳士のたしなみだからと告げられた言葉で、律は自分の中の違和感が増幅するのを感じていた。音大を卒業するからには、就職先は公の交響楽団を目指す事になるだろう。楽団の認知度が高ければ高いほど、紳士的な立ち居振る舞い、パーティや撞球場どうきゅうじょうなどのスマートな身ごなしを求められるに違いない。学生ではなくなる近い未来に、決して恥をかかせないよう、心配りをしてくれる。
 なんてありがたいんだと感謝する一方で、聖吾の厚意が日増しに背負いきれなくなっている。
 聖吾が伊崎家に恩返ししたいというのなら、自分と母を引き取って、大学に通わせてくれているだけで、充分すぎるぐらいだろう。
 そんな後ろめたさを少しでも軽くしたかった。
 一体、いつになったら書生らしい書生として、主人や屋敷の雑務をこなし、勉学にも励むことができるよう、配慮してくれるのか。
 この屋敷での書生の仕事とは何なのか。
 将来に備えて何かをするより、今するべきことがしたいのに。

「旦那様。こういった遊戯も書生に関わりがあるのでしょうか?」

 二人で小一時間ほど実践したり、指導をされたりしたあとで律が切り出す。撞球場どうきゅうじょうを出た時に、詰問口調になった律に、聖吾が驚いた顔をする。

「当然です」
「ですが、私は、まだどんな仕事をするのかさえも」
「それについてはおいおい話をすると申し上げたはずですよ」

 聖吾はネクタイの結び目に指を入れ、首を振って緩めると、目も合わせずに豪語した。しかし、信じようにも信じきれない不安が増すだけだ。

「旦那様」

 語気を一層強めたが、聖吾は先に石段を駆け下りた

「練習相手が必要ですから、何なりとお申しつけください。ご学友がいらっしゃるなら、屋敷に招いてたしなんでも結構です。飲み物や食べ物なども入用ですから、遠慮なく女中にお申しつけください」

 などと、話の筋を変えて逃げかける。

「書生の分際で、お屋敷に友人を招き入れ、飲み食いしながらビリヤードを楽しめと、おっしゃるのですか?」

 律の語気が荒くなる。
 聖吾は肩越しに振り向いた。

「例えば、の話ですよ。基本的にお相手でしたら私がします。美しいポージングと打ち方をお教えしないといけませんので」

 何の感情も読み取れないような顔つきで返事をした。
 そして、そのまま庭に出て、明かりのついた母屋へ向かう。
 律もまた、庭に出た。
 前方の、日本庭園の灯籠に火がともされた広大な庭の端を突っ切って、縁側から母屋に入るまで、聖吾の背中を見つめていた。


        ◆


「お帰りなさいませ、旦那様」

 その日、とうとうしびれをきらした律は使用人に交じって車寄せに並び立ち、帰宅した聖吾を出迎えた。
 左右に分かれて居並ぶ左の列の、後部座席にいちばん近い位置には執事が、右の列には女中頭の和佳がいる。
 執事と和佳の二人は、いかにも迷惑顔で呆れたように互いに目配せしあっている。だが、場違いなのは承知の上だ。
 撞球場どうきゅうじょうは庭の離れに設えられていて、練習に臨む時には聖吾と常に二人きり。
 本来ならば数名で行う球技なのだが、律は自分の腕が足りてはおらず、一対一での練習がまだ必要なのだと感じていた。
 だが、離れで二人きりだというシチュエーションは込み入った話をするのにうってつけなのだが鉄壁の防御を張られたように隙がない。彼はウイスキーをたしなみながら球技することも増えている。酔った様子の聖吾には切り出しにくくてためらわれた。
 練習と称したゲームが終わると、自主練習を申しつけられ、聖吾だけがそそくさと撞球場どうきゅうじょうを出てしまう。聖吾もこちらの顔色を読むようになり、話し合いを迫ろうとすると避けるように書斎にこもってしまうのだ。

「コートをお預かり致します」

 律は執事の傍らから進み出ると、聖吾の背後に回って告げた。
 けれども、弾かれたように身を翻した聖吾に険のある目でにらまれて、律は伸ばした両手を思わず引っ込める。

「そんなことは自分で致します」

 聖吾は渋面を浮かべ、脱いだコートを手近な女中に手渡した。そのまま律を真正面から見下ろすと、腰に手を当て、溜息をく。

「いいですか? 律さん。今後、出迎えなんて決してなさらないように願います。帰宅をしたら私がご挨拶に伺います。もし、何かありましたら、いつでも和佳か使用人にお申しつけください。私をお呼びでしたなら、私の方から律さんのお部屋に参ります」

 用があれば申しつけろと言いながら、眼差しと声音で突き放す聖吾に当惑し、身体を石のように硬くした。
 それでもこのまま、なし崩しにはできないと、ひるむ自分を奮い立たせる。

「でしたら、これから少しで構いませんので、お時間を頂けませんでしょうか」

 律は聖吾の後を追いかけた。すると、聖吾はおもむろに進行方向の左に寄り、自分の右を歩くように誘導した。突然の立ち位置の変更に違和感を覚えた律は足元に目をやった。
 そして、その行為の意味を瞬時に悟って瞠目どうもくした。
 母屋の廊下は左半分が畳敷きで、右半分は板張りになっている。
 だから、この屋敷では使用人は板間を歩き、主人や客人には畳敷きを歩かせるのが常だった。
 ということは、聖吾は自分よりも書生である律の方こそ主人であると、無言のうちに示しているのだ。

「旦那様」

 仕事をさせると言いながらいつまでたっても主人扱いをやめない聖吾。


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