ぬしに会わねば真の闇

手塚エマ

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歌うて通るになぜ出て逢わぬ 常にきく声忘れたか

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「そっか。……今日は私が家を出るのが、少しだけ遅かったから」
「あのお婆さん。時計みたいに絶対同じ時間にここ、通りますからね」

 渉はかしこまった微笑みを、もう一段階和らげた。

 そして、再び口をつぐんでしまい、鳥居の下の落ち葉をホウキで掃き出した。 

 神社の前を走るようになってから、渉とは会釈程度は交わしていた。
 同じ区内に住む者の、最低限の礼儀を通す感覚だったが、会社員の千華とは接点のない渉と毎朝顔を合わせるようになり、千華の日常に渉が確かに組み込まれつつあったのだ。

 千華はジョギングを始める前よりは、渉と親しくなれていたのだと、勝手に思い込んでいた。
 勘違いしてしまっていた。
 渉の中では、今も昔も変わらずに、一定の距離を置かれたままだと気づかされ、がっかりもしたし、落ち込んだ。もっと言うなら、期待をがれた。

 だから本番前の一週間、毎晩混合踊りの練習を二人で重ねていたものの、渉とは、一定の距離感を意識した。心の中で線引きをして、打ち解けなかった。
 それでもいいと思えたからだ。
 渉とするのは世間話の延長か、混合踊りの振りつけなどへの、互いの意見交換で済ませてきた。

「この振りつけの時だけど。こんな感じで大丈夫? 折谷君は、もっとこうして欲しいとか、こうしたいとか何かない?」

 千華からの提案に、渉は「いいえ」だの「はい」だの答えるに留まった。
 こちらが年上なのだから、言いたいことがあったとしても、きっと反論しにくいのだろう。そういう意味でも控え目な性格の渉が、次第に気の毒に思えていた。

 私なんかと組まされて、窮屈なんじゃないだろうか。

 千華の中では日を追うごとに、自己卑下ばかりが膨らんだ。

 千華は練習の合間の休憩時間も、染物屋の渉の店の手拭いは、デザイン格好いいねと、空気が悪くならない程度の話をしたりした。
 かといって、渉自身は何が好きで、今はどんなことに興味があるのか、渉に興味は示さない。
 渉から聞かれたことも一度もない。

 渉にとって、こちらは三日間だけ一緒に踊る相方あいかた以外の何者でもない。
 それ以上でもそれ以下でもない。
 相方自身に対しては、何の関心もないのだと、感じていた。 

 千華が手拭いの話をした時も、「あれ。デザインしてるの、撲です」と、ぼそりと一言返ってきたが、それだけだ。

 渉は千華といる時は、普段にも増して表情が硬くなる。
 お世辞を言ったと思われたのか、喜んでくれているのかどうかがわからずに、千華の方が困惑した。
 結局言葉に詰まってしまい、会話は全然弾まない。

 千華は千華で気を揉んで、渉は渉で気を遣う。
 こんな風にぎくしゃくしたまま、祭の当日を迎えるのか。これで最後のおわらを締めくくることの、やるせなさ。

 それなのに、今朝に限ってコツンと小石を投げられでもしたように、渉の方から声をかけられ、千華は言葉が続かない。
 すると、
「もう明後日から本祭なんて早すぎませんか? 僕。……本当は、もっと練習したかったんです」

 石畳みの参道をホウキで掃く音がふいに止み、渉が千華をじっと見る。

 こんなことは初めてで、千華はひたすら面食らう。鼓動がどんどん速くなる。神社の雑木林を朝日が眩しく照らし出し、渉の端正な面立ちに、薄い葉陰を落としている。

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