江戸の退魔師

ちゃいろ

文字の大きさ
上 下
4 / 18

病魔

しおりを挟む
 実のところ、近づくにつれて気にはなっていたのだが、こうして前に立ってみるとはっきりと分かることがあった。
 小さな部屋が並ぶ長屋の屋根の下、三太と母親が住む部屋の出入り口である引き戸からは、どす黒さの混ざった紫色や、濁ったような緑色が混ざった薄暗い色の靄が流れ出ている。
 軽い風邪であれば、晃毅にも瘴気など視えはしないのだが、これは明らかに病魔が放つ瘴気だ。
「三太ー、おばちゃーん」
 障子を貼った引き戸の向こうには、何となく人の気配があるから、どちらかはいるのだろうが、この奥に入るのは危険な気がした。
 けれども、お麻も平助もそんなことに気付く気配はない。
 二人には瘴気など視えないだろうからそれも当然だが、返事がないことを訝しんで戸を開けようとしたお麻を、晃毅はそっと止めた。
「師匠?」
「お麻ちゃん、もし調子が悪いようなら三人も一度に訪ねては困るだろうから、まずわたしが行ってくるよ。お麻ちゃんは、まずそれを置いておいで。平助さんも」
 お麻が持つ団子の包みと、平助の天秤棒を指し示して言うと、二人は不思議そうに顔を見合わせた。
 とはいえ、二人の住む部屋に行って戻っても、ほんの十数歩の距離だ。時間も掛からないし、晃毅が言っていることも、入るなと言っているわけではないから、それほど変なことではない。
 どうしようかと迷いながら二人とも分かった、とうなずいてみせた。
「まあ、もしお夕さんまで寝付いてたら、俺がいきなり入っちまうと、悪いからな。その点、晃毅師匠なら、安心だ。お夕さんがいいって言ったら、呼んでくれ。ほら、お麻」
 お麻は納得出来てはいないようだったが、平助に促されて、晃毅を振り返りつつも自分たちの部屋へと足を向けた。
 これでひとまずは、二人がいきなり濃い瘴気を浴びるということはないだろう。
 体が弱い者なら、病魔に触れなくとも、瘴気を浴びるだけでも体に影響を受けることがある。
 三太が風邪をひいたらしくなってから数日は、お夕も姿を見せていたというのだから、看病をしているうちにお夕も影響を受けたのかもしれない。
 そんな想像を巡らせながら、晃毅は呼吸を整えて口の中で真言を唱えながら引き戸に手を掛ける。
 傍目には、ただ知り合いの家を訪ねる風情にするりと戸を開けたが、晃毅が視る景色は全く違っていた。
 戸の向こう、部屋の中には、ほんの僅かに息をすることも躊躇われるほどの瘴気が立ち込めている。
 どんな重い病であっても、こんなに濃い瘴気を放つことはあり得ない。
 呪いの作用を感じ取って、晃毅は眉を寄せた。散らさなくては。
 晃毅は視界をも塞ぐほどの瘴気の中に足を踏み入れると、三太とお夕を探した。
 部屋としてはほんの六畳の広さ。二人の姿はすぐに見つかる。
 湿った薄い布団の中に三太が青い顔で寝かされていて、その脇ではやはり顔色の悪いお夕が倒れ込んでいる。
 自分のために布団を敷く余裕もなかったのかもしれない。
 そんな二人の頭の近くには、小さなまだ新しい巾着袋が置かれており、晃毅はそれを拾い上げた。
 何かを入れるには小さく、守り袋のようだ。よく確かめたいところだったのだが、晃毅にも、すぐに戻ってくるだろうお麻と平助を思えば余裕はない。
 ともかく、今出来ることだけでもしなくてはならないと、晃毅は守り袋を懐に入れて、開け放したままの引き戸に向かって、素早く結んだ刀印を大きく振り下ろした。
「っ、きゃあっ」
 同時にその向こうでバタバタガタガタとそこらの物が揺れ動く音がして、高い声が上がった。
「なんだあ? この風」
 お麻が上げた悲鳴の後ろからは、平助の少し間の抜けたような声が聞こえた。
 晃毅は素早く刀印を解くと、部屋の隅に畳まれていた布団を敷いて、お夕を寝かせてやった。
「晃毅師匠、どうかしたの?」
 窓のない部屋から風が吹くとは思いもしないだろう。お麻と平助が、何事かあったのかと問い質したいような様子で、瘴気が吹き飛ばされて一時的に澄んだ部屋に顔を覗かせる。ちょうど、お夕に布団を掛けたところだった。
「ん……、だ、れ……?」
「って、こりゃあ、どうしたんだ?」
 お夕が目を開いたのと、平助が声を上げたのは同時だった。
 三太とお夕が二人して寝付いているのを見て、お麻と平助は慌てて板間へと上がった。畳はないのだ。
「随分調子が悪いようで、せめて空気を入れ替えようと思ったんですが」
「あ、それでさっきの風?」
「大変じゃないか。お夕さん大丈夫なのか、三太はどうしたんだ」
 お夕を覗き込んだ平助の言葉でお麻の意識も二人へと向いた。
 いかにもぐったりとしている二人の様子に、晃毅はお麻に水を持って来るように頼んで、三太とお夕それぞれの額に手を当てた。
 三太もお夕も熱はさほど高くないのだが、随分と消耗しているようだ。何より、苦しそうにか細い息を吐くごとに、瘴気がもれてくるのが分かる。
 病魔が入り込んでいる、と晃毅は目を伏せた。
 身の内に入り込んだ病魔は、それも呪いとなれば厄介だ。追い出すためには、入り込まれたものの体力も気力も必要になるし、体力気力が足りなければ、追い出してもまた元の体に入り込む。かといって、追い出さなければ、入り込まれた者は回復しない。
 晃毅の手で追い出せないこともないだろうが、それをするには人目はない方がいい。
 考え込んでいると、平助がお夕に話しかけた。
「なあ、お夕さん。お医者に来てもらっていいか?」
 お夕は首を振ったが、平助は話を続けた。
「金の心配か? そりゃ心配だけど、このままじゃいけねえよ。ほら、最近、養安先生のとこに、若いお弟子さんが帰って来ただろう? まだ勉強中だっていって、診るだけはただで診てくれるそうじゃないか。ちょうどいいだろ。な」
 晃毅にも聞き覚えのある医者の名で、その若い弟子というのももしや知っている相手ではなかろうかと顔を上げたが、平助は晃毅がそれを尋ねる前にさっさと土間に下りていた。
「っていうわけだからよ、晃毅師匠はここにいてやってくれ。俺はひとっ走り養安先生のとこに行って、誠先生を呼んでくらあ」
 聞かずとも自分が知りたかった答えを口にした平助を、晃毅は呼び止めようと立ち上がりかけて、そんな自分をどうにか踏みとどまらせた。
 医者を呼ぼうという平助の判断は正しい。
 そして自分の勝手でそれを止めようという晃毅の気持ちは、間違っている。 
 そんな当たり前のことを、わざわざ言葉にして考えなくてはならない自分に、晃毅は首を振った。
 今は三太とお夕に入り込んだ病魔をどうするかの方が大事だ。
 もしかしたら。
 平助が呼んでくるであろう誠なら、この病にも対処出来るかもしれない。
 だが、医者の手にもおえない病があることも、確かだ。自分にも出来ることがあるのだから、それをしないでいるわけにはいかない。
「晃毅師匠、お水、汲んできたよ」 
 お麻の声に、晃毅が振り返ると、お麻は水汲み桶を持って土間に立っていた。
 水甕に水がないことを知って、井戸まで汲みに行ってくれていたようだ。
 その時、晃毅はふと思いついて、お麻に頭を下げた。
「お麻ちゃん、悪いんだけど、二人に飲ませる分を残して、湯を沸かしてくれないか」
 お麻は、どうして、と瞬きをしてみせた。
「二人とも、顔色が悪いんだ。首筋なり、足なり、少し温めた方がいいだろうと思って」
 お夕がいつから倒れていたのか分からないが、指先は随分冷えていたし、三太は布団にいるとはいえやはり四肢は冷たかった。
 お麻も、それなら、と椀に水を汲み分けると、桶を持って自分の部屋へと向かって行った。同じようなものとはいえ、火を使うのなら使い慣れた竈でと考えたらしかった。
 この部屋で湯を沸かすことも、可能性としては考えていたので、晃毅は内心助かったと思いながらお麻が置いていった水の入った椀を取るために立ち上がり、ついでに戸を閉めた。
 お夕と三太に目を向けると、相変わらず苦しそうに目をつむっていて、眠っているのか多少なりと意識があるのかも分からない。
 晃毅は椀を両手で掲げるように持つと、小さな声で真言を繰り返し唱えた。病魔をの退散を願う。
 真言を唱え終えると、手前に寝ているお夕の首の下に手を入れ、薄く開いた口の中へと水を移しこむ。そして場所を移って、三太にも同じように水を飲ませた。
 それが効いたのかどうか。
 うっすらと目を開いたお夕が小さく「おみず……」と呟いた。晃毅はゆっくり椀から水を飲ませてやった。椀にあった水を全て飲みきると、先ほどまでよりもよほど大きく息をしながら再び眠り着いた。
 少しは楽になったのかと、晃毅が息を吐く。
 けれど三太の方は目を開ける気配はない。
 まだ幼く、病魔が入り込んだのがお夕より早かった分、症状が重いのだろう。
 晃毅は、水を二杯分置いていってくれたお麻に感謝して、もう一つの椀を手に取った。
 先ほどと同じく真言を唱えると、同じように水を三太に含ませる。 
 少しずつ、二回、三回と飲ませていると、五回目を飲ませたところで、三太が小さく唸り声を上げた。
「三太、聞えるか?」
 晃毅が声を掛けると、三太は聞こえていると言いたげに首を振った。
 反応があるなら、ないより随分いい。
 晃毅は椀に残った最後の水を、もう一度、と三太に含ませた。
 ごくり、と三太の喉が水を飲みこんだのと、湯の入った桶を抱えたお麻が興奮した声を上げながら入って来るのは、ほぼ同時だった。
「晃毅師匠、晃毅師匠、誠先生って人が来たよ!」
 お麻は誠を名前でしか知らなかったのだろう。
 板間に盥を置くと、再び外に出て手招きをしている。
「おっ父、早く早く!」
 か細かった息が、荒いとはいえはっきりしてきた三太と、気を失うような眠りから落ち着いた眠りに入れたていたお夕の姿を見ると、晃毅はお麻に静かにするように釘を刺したくなったが、彼女の興奮も無理もないかと諦める。
 病人を前に大人二人が深刻な顔をして、頼りになるだろうと呼びに行った相手がやって来たのだ。
 懐から手拭いを取り出した晃毅が、手拭いを湯に漬けていると急ぐ足音が二つ近づいて来て、再びお麻が開け放していた入り口を入って来た。
しおりを挟む

処理中です...