江戸の退魔師

ちゃいろ

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 葉照庵を出て並んで歩くと、お菖は意外にも足が速かった。
 手習いに来ている子の中で同じくらいの背丈の女の子を思い浮かべてみても、断然に速い。しかも仕草は走っているのではなく、歩いている。
「あの、そんなに急がなくてもまだ日暮れには間に合いますよ」
 けれど晃毅が、帰りのことを気にして急いでいるのかと思って声を掛けると、お菖はようやくそこで自分の足の速さに気付いたらしい。
「ん? ああ、別に急いだつもりはないんだけど、つい早足になっちゃうんだよねえ。でも晃毅さんなら、別に苦じゃないでしょう?」
 それはそうだが、晃毅にしてもやや速足と感じる速さではある。お菖が疲れてしまわないかが心配だ。
 それでもお菖はそんな晃毅の心配を笑った。
「大丈夫、そこらの女子供よりはよほど足に自信があるからね。ああ、そうだ、そんな訳だから、うちと葉照庵の往復も、わたしにとっちゃ大したことじゃないって、わかってもらういい機会だね」
 お菖がそんなことを言うのは、晃毅がお菖に、たびたび葉照庵にやって来てもらうのは申し訳ないようなことを言っているからだろう。だが、お菖が養父と暮らす家は、確かに日に何度も訪ねてもらうには申し訳ない距離にあるはずなのだ。
「そう、でしょうか」
「そうだよ」
 そんなに軽々しく行き来できる距離ではない気がして呟くと、あっさりと返される。
 場所を聞けば、お菖の足では半時掛かりそうな距離だ。
 だが確かに、こうして一緒に歩いてみると、半時は掛かるまいという気になって来る。もしかすると、四半時程度でたどり着くかもしれない。
「それにしても、晃毅さんは足が強いね。実のところ、男の人でもわたしの足について来れる人は珍しいと思ってたんだけど」
 ふふ、とお菖が笑う。
 晃毅はその言葉に冷静になって今の足の速さを測ってみた。
 確かに速いし、いつの間にか速度が上がっている。どうやら知らないうちに、お菖が速度を上げていたらしい。
 だがこんな速さで歩く女性も子どもも滅多に居はしない。駆けたとしてもだ。
「あ、の……、お菖さん?」
 これは一体どういうことか、尋ねていいことなのか、どうなのか。
 躊躇いながら発した言葉に、お菖は晃毅を見上げると、不意に足を止めた。
 息も乱れてはいない。
「おかげで、随分早く帰れたわ。お礼をしなくちゃね」
 まだ日暮れではなく夕暮れと呼ぶにもまだ空は青いが、冷えて来た空気が晃毅の首筋をするりと撫でて行くので、背筋が震える気がした。
 ただ、お菖の言葉自体に嫌な感じは受けない。
 だから素直に聞いてみることが出来たのだ。
「……何でしょうか?」
「うん。あそこ」
 お菖がまだ少し離れた場所にある家を指し示した。
 江戸の町と呼ぶには外れ近く。川が流れ、田畑が並ぶ近くの沼のほとりに、ポツリとその家は建っている。
 長屋の立ち並ぶ通りを思えばのどかな光景だが、やはり野犬の話が回っているのか周囲を見渡しても、畑にすら人の姿はない。
 だがそれよりも異様なのは、池の周囲に生き物の気配がないことだった。
 朝も氷を見なくなってしばらく経つのだから、どんなに小さな池だろうが多少の生き物気配くらいあっていいようなものだがそれがない。前もそうだったな、と晃毅は以前にこの沼のほとりを訪れた時のことを思い出した。
 あの時と同じように、菖蒲の葉がさやさやと揺れている。
「菖蒲が生えてるでしょう? 沼のところ」
「ええ……」
 菖蒲だけは確かに根付いて生き生きとした気配を持っているが、他に生き物の気配がないことを思えば、むしろ菖蒲の勢いの良さは不思議だ。
「病邪を祓う薬草だってのは、知ってる?」
「ええ、菖蒲湯に使うんでしょう?」
「そうそう」
 お菖は晃毅を手招いて沼に向かった。
 晃毅が一足遅れて追いつくと、菖蒲の葉を何枚か切って束ね、渡そうとする。
「だから、これをお礼に」
「……これを?」
 差し出された葉を、戸惑いながら受け取る。
 ただ笑顔でそれを渡しただけのお菖に、晃毅は何故と聞くか聞かないか迷ってしまった。
 菖蒲湯に浸かる節句はまだ先で、節句でなければ使っていけないというわけでもないが、お菖がこれを礼とする理由が分からない。
 晃毅の戸惑いには気づいている様子のお菖だが、説明をしてくれる気配はない。
 それとも聞かなくてはならない理由など本当はなくて、ただ薬草だからとくれたのだろうか。
 菖蒲湯に浸かると疲れが取れやすくなるというし、浸からずとも薬湯や薬酒として飲むことも出来るから、疲れが出たと言われている晃毅を気遣ってくれているのかもしれない。
 単純にそう思っていいのかもしれないが、この場の雰囲気がそうさせない。
 もっと正確にいうなら、この池の存在のためである気がして。晃毅はちらりと池を見た。
 瞬間、水面が風もなく波立った。
 見る見るうちに、ごぼごぼと大きな泡が吹き上がり、水面を押し上げていく。
「おや」
 それを見た晃毅は背筋が震えたが、お菖は何でもないように一言発すると、懐から包みを取り出して、その中身を池の中にポンと放り投げた。
 団子だ。
 団子は波立つ水面が噛り付くようにして飲みこんで、その後は、静かな水面に戻る。
 相変わらず、生き物の気配はない。だが、何かが姿を現して消えた気配はまだ残っている。
 これは、自分の役目を果たすべき場所なのではと晃毅は懐の刃を意識した。
 だが、包みを懐に戻したお菖がパンパンと手を打ち合わせる音に、踏み止まる。お菖の行為は明らかに、先ほどの現象に対応したものだ。
 お菖が、今の出来事が何ものによるどのようなものであるか知っているのであれば、晃毅がお菖に明かしていない姿を見せる必要はないかもしれない。
「あの、お菖さん、今のは……」
 だがあれが何か尋ねないないままにするほど、図太い神経は持っていない。恐る恐るといった風に声を掛けると、お菖は案外あっけらかんと返した。
「ああ、まあ池の主みたいなもんね。ただまあ、菖蒲の葉に囲まれていて出てはこれないんだけど」
「主、ですか……」
 破邪の薬草に囲まれて出て来れないもの。
 それはやはり、自分の領分なのではと思ったが、続いたお菖の言葉に晃毅は刃に手を伸ばすことは止めた。
「そう。古くからここにあって、ここにあってもらわないとならない。んだそうよ。うちの親父殿によると。ところで」
 それほどのものなら、自分の領分であっても力は及ばないし、少なくとも師に託された役目の範疇ではないと考えていた晃毅は、さらに続くお菖の言葉をぼんやりとしか聞いていなかった。
「晃毅さんは、よく視えるんだねえ」
 今何かを言われた気がしてお菖を見ると、お菖はなるほどといった顔で晃毅を見ていた。
「え」
 もしや先ほどの波立ちが、そもそも見えてはならないものだったかと気まずさに立ち尽くす。だがこれもまた、お菖の軽い物言いで解放された。
「なんてね。ごめんね、晃毅さんがそういう性質だっていうのは、分かってたんだ。だからそれを上げておこうと思ってね」
「……どういう、ことです?」
「ん? ああ。まあ、こういうところに住んでいるからってことにしておいてくれると話は早いんだけど」
「はあ」
 誰にも見せていないはずの事情を、知らない内に把握されていることの納得は難しく、ぼんやりとした返事しか出来ない。
 お菖は肩をすくめる。
「急にこんなことを言われると困るよね。でもまあ、それは持っておくといいよ。多分役に立つし、また持って行くからいつでも言って」
「ありがとうございます、でも……」
 晃毅はちらりと池を見た。
 今度は波立ちはせず、水面は平穏を保っている。
 だがそこには確かになにものかがあるのだろう。それを出さないための菖蒲なら、こうして持って行ってしまってはいけない気がする。
 お菖は晃毅の視線を追って、その意図を正しく汲み取った答えを返した。
「大丈夫。いくらでも生えてくるし、増えるからね」
 それはカラリとした、何の裏もない言いようだった。
 今度こそ、晃毅は菖蒲の葉をしっかりと受け取ることにした。これ以上断る理由も、訝しむ理由もない。
「それなら、ありがたくいただいていきます」
「うん」
 このまま別れて帰る頃合いだろうかという雰囲気になったのだが、お菖はまだもう少し話があるような、それでいて自分から何かを言いだすのではないような顔で晃毅を見た。
「ええと、何か……?」
 池の中の存在も、随分意味ありげに見えたお菖の行動も、もうそれほど恐れなくていいはずなのに、先ほどまでとは違った緊張を感じながら問いかける。
「ん? ううん。別にね。まあ、今日のところは早く帰った方がいいよね。送ってくれてありがとう」
 まだ帰ってはならないような雰囲気を醸し出していたのはお菖だったはずなのだが、お菖はそう言って手を振ってみせた。
 何だかよく分からないが、そう言われて晃毅が留まっている理由もない。
 それではと頭を下げて歩き出す。
 その後ろで池がこぽりと泡を水面に上らせて、お菖が呟いたことに晃毅は気が付かなかった。
「言ってくれれば、力になれることもあると思うんだけど。まあ、まだ菖蒲の葉くらいなもんかしら」
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