片翼天使の序奏曲 ~その手の向こうに、君の声

さくら怜音/黒桜

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第四節 ひと夏の陽炎とファンタジア

#54 雨に流すリグレット④ -光side-

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長い時間をかけ、誰もいない自宅にようやくたどり着いた光は、濡れた身体のまま二階の寝室に飛び込んだ。
部屋の隅には、布ケースにしまい込んでいた古い電子キーボードが鎮座する。勢いよくファスナーを開け、中身を取り出してACアダプタをコンセントに差し込む。それを抱えてベッドに乗り込み、膝の上に置いた。

「…………」

鍵盤に指を置く。けれど一音も鳴らすことなく、光は目を閉じた。どうしても、弾けなかった。

「うそつき……」

誰に向かって告げた文句なのかは、自分でもわからない。
ぽつ。毛先から手の甲に雫が滴り落ちた。
まるで苦い魚の内臓を食べた時のような、胸焼けした感覚に陥る。冷たいキーボードを胸いっぱいに抱えこみ、座った体制から腰を折って光はベッドに顔を埋めた。不整脈の波が鍵盤越しにドク、ドクンと酷いリズムを刻んでいく。

「っ……はっ……はぁ……ぅうっ……」

段々と、息が自由にできなくなる。
ぐうと首を締め付けられ、細胞という細胞を全部雑巾絞りでもされていそうな圧迫感。咄嗟に胸ポケットから雨に濡れた錠剤を引きずり出し、一つパキリと割った。もはやこの行為は幼児期から刷り込まれた無意識の仕草だ。
早くこれを飲まなければ、息が続かない。悲鳴を上げて暴れだす脈拍に押され、涙が勝手に零れ落ちる。
けれどこのまま飲まなければ――。

(母さんに……会える……?)

心臓発作に耐え続ける痛みや苦しみ。悲しいことしか起きない人生。こんなに苦しいのに、どうして生き延びなければいけないのだろう。このポンコツな心臓を自分で二度と動かないようにしてしまえば、もう絶対に苦しい思いなんてしないで済むはず。

早く楽になりたいのに。
――この不完全な身体では、息をすることさえ辛くて。
こんな身体だから、本当はひとりぼっちが死ぬほど怖いのに。
――だれもそばにいてくれない。

それは万物の命に不平等に与えられた、神様からの気まぐれな試練。最初から双子の弟と器を分け合い、不完全な姿で生まれてきた自分には、苦行を乗り越える力すら持ち合わせていなくて――。

震えるその指は、錠剤を持ったままベッドのシーツにとさりと落ちた。

……


「飲め、今すぐ」

張り詰めた空気を震わせ、誰かがそう叫んだ。
誰かはわからない。わからないけれど、その力強い声はゆるりピアノの旋律になって、ポロンと身体にしみ込んでいく。
目に映るものは、どす黒い塊と闇色の壁紙だけ。
何も視えない光の代わりに、黒い塊が光の指を口の中に押し入れた。


**

「雨の中無茶しやがって。冷え切ってるじゃないか、このままだと肺炎コースで入院だぞ、このクソバカたれが。容体がもう少し落ち着いたら病院に来いってこのバカに伝えておいてくれ」
「わかりました、必ず送り届けます」

黒髪の少年が、ぺこりと頭を下げる。光に罵詈雑言を吐き散らし、聴診器を鞄に片付けた白衣姿の壮年男性――稲葉は「よっこらせ」と声を漏らして立ち上がった。

「今連れて行ってもいいんだが、生憎バイクで来てしまったからな」
「稲葉さん。やっぱソイツ、発作だった?」
部屋の入り口から中に入らず、じっと見ているだけの青年が口を開いた。見た目は高校生か、大学生ぐらいの若い男だ。

「ああ、そうだ。すれ違っただけでよくわかったなあ、真也しんや。お前のおかげでまた命拾いしたようなもんだ」
「……いや。別に分かったわけじゃない。さっきぶつかった時、周りに気分のよくない残留思念がいっぱい纏わりついてたから、遅かれ早かれそうなるかと思って」
「ああ、お前はそういうのが視えるんだっけなあ」
「信じなくてもいーけど、別に」
「心霊現象と科学が物言う医療現場はそもそも発想が異なるからな。まあ、光の極度のストレス原因が台風の連れてきたオバケだってことにしておけば説得力あるから、カルテにはそう書いておくよ」

こいつ、昔からオカルト系は苦手なんだよ。
話しかけてきた青年――【真也】とは旧知の仲らしく、そんな雑談をしながら、稲葉はドスドスと階段を降りた。後ろをゆっくりついて見送りに来たもう一人の少年を振り返り、一度立ち止まる。

「ところで君は誰だい?」

少年は一瞬口をきつく閉じ、目を泳がせた。けれど当たり障りのない微笑をやんわり浮かべる。

「今西くんの、友人です。さっき喧嘩しちゃったんで、僕のせいで雨の中飛び出しちゃって。すみませんでした、あとで必ず病院に連れて行きます」
「…………」
「……じゃあ仲直りをしてから。よろしく頼むよ」

それ以上の追求はしないまま、稲葉は白衣を翻し、真也を連れて今西家を後にした。

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