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第一章 四つ葉のクローバーを君に
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十日経ってもまだ退院の許可は下りない。昼間うとうとしてしまう時以外はピアノを弾いていたが、じっとしていられず光は何度も庭を覗き込んだ。
日差しが気持ちよくて捜索中に眠ってしまう事も多いが、雨が降って物理的に外に出られない日を除き、ほぼ毎日シロツメクサ群生地とにらめっこしている。
土の香りがする自分の寝巻も、黒ずんだ爪周りも、別段悪くない。心療内科の診察室に出向くたび、庭を通って一度土を触っておけば、気持ち悪さがマシになることにも気づいた。一石二鳥とはまさにこのことだ。
(三つ葉でもけっこう可愛いし……部屋に持ち込んでもいいかな)
そう思い、自分用に一本摘んで持ち歩いてみた。だが自分勝手な都合で生命を無駄に摘んでしまった――と思うと、どことなく罪悪感に駆られて後悔の念ばかり募る。しかもあっという間に干からびて、翌日には緑の香りを失ってしまった。
手折った葉は手入れしても二度と蘇らない。
結局そっと土の中に埋め込み、いつの日か生き返る事を祈っておいた。
あのピアノ好きの金髪少年が、ピアノを弾かずに外で何かを探している、という噂はいつの間にか病棟内に広がっているようだった。
「中庭に何か落とし物でもしたのかい? 先生も一緒に探そうか」
相変わらず探りを入れるような尋問が飛び交う心療内科での気怠い診察時間。今日も机に突っ伏したまま、光は無言を貫いた。爪に残る土の香りとホットカフェオレの甘さで無理やり吐き気をごまかしてやり過ごす。
ここに来る前、主治医・星野には「外の空気を吸ってくると元気になるね」と褒められた。ああいうことを言ってくれるなら、まだもう少し気分よくなるのに。大きなため息をひとつ零して、光は窓の向こうを見つめた。
「ひとまず、前よりは少し表情が和らいでるようでよかった」
「……」
「今日は先生の話を聞いてくれるかい?」
「……?」
いつも質問ばかりしてくる男が、ふいにそんな言葉を紡いだ。光はきょとんと目を広げて声の主を振り返った。短く刈り上げた首元をさすりながら、心療内科医の若槻は光が見ていた窓の向こうに視線をずらす。
「いつも光くんのことを気にかけているんだ、あの人は」
「……」
「脈拍数、血圧、体温、機嫌、食欲。それから、心臓の調子。光くんの身体は、いつも誰かに管理されている。そうしなければ君は、ある日突然生命維持活動をやめてしまうかもしれないからね」
自分の話と言っておきながら、結局は光のことを語っている気がする。それに『あの人』とは、誰のことなのだろうか。訝し気に睨みつける光と視線をわざとらしく外したまま、彼は話を続けた。
「毎日君のデータを集めながら、君を見ている。一触即発の壊れもののような身体を、どうすれば本人の望む生活ができるレベルまで回復させることができるか、考えている。そう、毎日毎晩ね」
「……」
「その人はとても有能で、人間のあらゆる身体を知り尽くしている。でもどんなに万能な腕を持っていても、目に見えない場所にある傷口は塞げない。そこからどんどん傷が抉れて拡がっていても、気づくことはできない。傷はやがてゆっくりと君の身体を蝕み、毎日取れない緊張感との攻防で交感神経が疲弊していく。それをメスで取り除くことはできないのだ。……そう嘆いて僕のところに相談に来た」
「……」
「誰のことか、わかるかい?」
光はしばらく首を捻った後、「わからない」と答えた。
「光くんの身体に刻み込まれた、外からは見えない無数の傷を治療するために一生懸命な人だよ。君はよく知っていると思う」
「……」
「その人はね、君のことを本当に心配しているんだ。僕は非番の時、たまに彼と飲みに行ったりするんだけど、光くんの病室から呼び出しがあったらいけないからと言って、お酒は一滴も飲まない」
「……何が言いたいんだよ」
「ん? 遠巻きに話せば、伝わると思ったんだけどなあ。君は結構、他人の微細な感情に敏感みたいだから」
「……」
質問攻めをやめた代わりに大人側の心情を語り出した若槻は、僕もそうなんだよ、と垂れ気味の目を細めてにっこり笑った。
「君のささくれだったままの心を、心配している人たちが沢山いる。そのことにだけは、気づいてほしくてね。特に君の主治医――星野先生は、今西光という少年を一分一秒でも多く長生きさせてあげたいし、君のやりたいことを沢山させてあげたい。そう思っているんだよ。そのためにはどうしても、見えない傷を手当しなくちゃいけない。僕は君の見えない傷のかけらをひとつずつ机の上に並べて、適切に取り除く方法を君と話し合いたい」
つまり、いつまでも黙っていてはいけないということなのだろうか。このまま無言を貫いていても、あの心配性の主治医に迷惑をかけ続け、退院の許可ももらえないと。光は俯き、ぬるくなったカフェオレを持ち上げ一口つけた。明らかにしゅんと落ち込む光とは正反対に、心療内科医はにんまりと口角を上げ不敵に笑う。
「でないと星野先生に役立たずって言われてフラれちゃうだろ、僕が」
「……なんだ。あんた、あのセンセーが好きなの」
「何、そういうのはすぐ察せるんだ?」
いけ好かないこの男が苦手な理由が少しわかった気がして、光はため息をついた。堂々と同性愛者だと公言し、気に入った人間にはすぐアプローチをかけるどこぞの上司に似ているのだ。
「ライブハウスにいると、あんたみたいなのが男漁りによく来る」
「へええ、それなら僕も一度行ってみたいな。フラれた時は新しい恋を探しに行かなくちゃ」
けらけらと笑うその姿は、本心なのかどうかよくわからなかった。
だがもしその予想が当たっているのであれば、光も一度訊いてみたいと思うことがあった。
「……もし当たってるんなら。俺の質問にも答えろよ」
「ん? なんだろうね、興味を持ってくれてうれしいから、真摯に回答するよ」
十日経ってもまだ退院の許可は下りない。昼間うとうとしてしまう時以外はピアノを弾いていたが、じっとしていられず光は何度も庭を覗き込んだ。
日差しが気持ちよくて捜索中に眠ってしまう事も多いが、雨が降って物理的に外に出られない日を除き、ほぼ毎日シロツメクサ群生地とにらめっこしている。
土の香りがする自分の寝巻も、黒ずんだ爪周りも、別段悪くない。心療内科の診察室に出向くたび、庭を通って一度土を触っておけば、気持ち悪さがマシになることにも気づいた。一石二鳥とはまさにこのことだ。
(三つ葉でもけっこう可愛いし……部屋に持ち込んでもいいかな)
そう思い、自分用に一本摘んで持ち歩いてみた。だが自分勝手な都合で生命を無駄に摘んでしまった――と思うと、どことなく罪悪感に駆られて後悔の念ばかり募る。しかもあっという間に干からびて、翌日には緑の香りを失ってしまった。
手折った葉は手入れしても二度と蘇らない。
結局そっと土の中に埋め込み、いつの日か生き返る事を祈っておいた。
あのピアノ好きの金髪少年が、ピアノを弾かずに外で何かを探している、という噂はいつの間にか病棟内に広がっているようだった。
「中庭に何か落とし物でもしたのかい? 先生も一緒に探そうか」
相変わらず探りを入れるような尋問が飛び交う心療内科での気怠い診察時間。今日も机に突っ伏したまま、光は無言を貫いた。爪に残る土の香りとホットカフェオレの甘さで無理やり吐き気をごまかしてやり過ごす。
ここに来る前、主治医・星野には「外の空気を吸ってくると元気になるね」と褒められた。ああいうことを言ってくれるなら、まだもう少し気分よくなるのに。大きなため息をひとつ零して、光は窓の向こうを見つめた。
「ひとまず、前よりは少し表情が和らいでるようでよかった」
「……」
「今日は先生の話を聞いてくれるかい?」
「……?」
いつも質問ばかりしてくる男が、ふいにそんな言葉を紡いだ。光はきょとんと目を広げて声の主を振り返った。短く刈り上げた首元をさすりながら、心療内科医の若槻は光が見ていた窓の向こうに視線をずらす。
「いつも光くんのことを気にかけているんだ、あの人は」
「……」
「脈拍数、血圧、体温、機嫌、食欲。それから、心臓の調子。光くんの身体は、いつも誰かに管理されている。そうしなければ君は、ある日突然生命維持活動をやめてしまうかもしれないからね」
自分の話と言っておきながら、結局は光のことを語っている気がする。それに『あの人』とは、誰のことなのだろうか。訝し気に睨みつける光と視線をわざとらしく外したまま、彼は話を続けた。
「毎日君のデータを集めながら、君を見ている。一触即発の壊れもののような身体を、どうすれば本人の望む生活ができるレベルまで回復させることができるか、考えている。そう、毎日毎晩ね」
「……」
「その人はとても有能で、人間のあらゆる身体を知り尽くしている。でもどんなに万能な腕を持っていても、目に見えない場所にある傷口は塞げない。そこからどんどん傷が抉れて拡がっていても、気づくことはできない。傷はやがてゆっくりと君の身体を蝕み、毎日取れない緊張感との攻防で交感神経が疲弊していく。それをメスで取り除くことはできないのだ。……そう嘆いて僕のところに相談に来た」
「……」
「誰のことか、わかるかい?」
光はしばらく首を捻った後、「わからない」と答えた。
「光くんの身体に刻み込まれた、外からは見えない無数の傷を治療するために一生懸命な人だよ。君はよく知っていると思う」
「……」
「その人はね、君のことを本当に心配しているんだ。僕は非番の時、たまに彼と飲みに行ったりするんだけど、光くんの病室から呼び出しがあったらいけないからと言って、お酒は一滴も飲まない」
「……何が言いたいんだよ」
「ん? 遠巻きに話せば、伝わると思ったんだけどなあ。君は結構、他人の微細な感情に敏感みたいだから」
「……」
質問攻めをやめた代わりに大人側の心情を語り出した若槻は、僕もそうなんだよ、と垂れ気味の目を細めてにっこり笑った。
「君のささくれだったままの心を、心配している人たちが沢山いる。そのことにだけは、気づいてほしくてね。特に君の主治医――星野先生は、今西光という少年を一分一秒でも多く長生きさせてあげたいし、君のやりたいことを沢山させてあげたい。そう思っているんだよ。そのためにはどうしても、見えない傷を手当しなくちゃいけない。僕は君の見えない傷のかけらをひとつずつ机の上に並べて、適切に取り除く方法を君と話し合いたい」
つまり、いつまでも黙っていてはいけないということなのだろうか。このまま無言を貫いていても、あの心配性の主治医に迷惑をかけ続け、退院の許可ももらえないと。光は俯き、ぬるくなったカフェオレを持ち上げ一口つけた。明らかにしゅんと落ち込む光とは正反対に、心療内科医はにんまりと口角を上げ不敵に笑う。
「でないと星野先生に役立たずって言われてフラれちゃうだろ、僕が」
「……なんだ。あんた、あのセンセーが好きなの」
「何、そういうのはすぐ察せるんだ?」
いけ好かないこの男が苦手な理由が少しわかった気がして、光はため息をついた。堂々と同性愛者だと公言し、気に入った人間にはすぐアプローチをかけるどこぞの上司に似ているのだ。
「ライブハウスにいると、あんたみたいなのが男漁りによく来る」
「へええ、それなら僕も一度行ってみたいな。フラれた時は新しい恋を探しに行かなくちゃ」
けらけらと笑うその姿は、本心なのかどうかよくわからなかった。
だがもしその予想が当たっているのであれば、光も一度訊いてみたいと思うことがあった。
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「ん? なんだろうね、興味を持ってくれてうれしいから、真摯に回答するよ」
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