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08 気にしない妻 気にしてほしい夫

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 アンジェとユーリスは、近くの公園でゆったり歩いていたところを、ある集団に捕まった。

「ユーリ……久しぶり。ねえ、どうして最近来てくれないの?」
 切なげに、儚げに、たおやかに。中心の令嬢が小首を傾げてユーリスを見上げる。
「これは、マリリア。お久しぶりです。最近は充実して忙しくて」
「あぅ、あー」

 マリリアは尚も泣きそうな顔を作り、目を潤ませる。
「ねえ、ユーリ。あなたやっぱり奥様に縛られて……無理矢理結婚を……可哀相……」
「ああ、これですか? 中々いいですよ。画期的な発明です」
「あー、だーだ」
 ユーリスは隣で微笑むアンジェを見て、自身の身体を見下ろす。
 マリリアは距離を詰めようとするががあり密着できない。

「信じられない……男がそのような事を……」
「情けない……」
 未だいい歳をしてマリリアの信奉者として付き従っている「逆ハー要因」たちが、ユーリスを詰っている。アンジェには面と向かって批判できないため矛先は全てユーリスへ向かう。
 そんなユーリスは聞こえないフリをして少し体を揺すった。
「あぅー、あーあぅ」

「まあ、今、かあさま、と言ったわ!」
 アンジェが、抱っこ紐にくくられユーリスに抱えられている娘を覗き込んだ。
「い、いや、とうさまと言った!」
 ユーリスも負けじと娘を窺う。
「あーあー」
 きゃっきゃっ、と無邪気に笑う愛らしい女児は、ふくふくした両手をフラフラさせて喜んでいる。

 二人は娘を連れ、散歩のために再度歩き出す。
「そうですわ。本当に、もう遊びませんの?」
「は……? あそぶ?」
 アンジェがちらりと肩越しに集団を振り返る。
 ユーリスは愕然としている。
「この子が物心つけば教育に悪いので流石に自重していただきたいですけれど」
「い、いや! ありえない!」
 ぶんぶんと首を振って否定する振動を受けて、娘がまた楽しそうに笑う。
 ユーリスはひっそり落ち込んだ。

「ユーリ……!」
 三人の後ろから、か弱いようで張り上げた声が響いた。


 別宅に戻り、ユージェニーを寝かしつけ、ユーリスは目に見えて落ち込んだ。
 初恋だったの令嬢の本性に今更ながら気付いたのと、妻がマリリアの存在を全く気にしていない事に。
「ユーリス。仕方がないと思いますわ。恋というのは盲目になるものだと沢山の小説にありましたもの。それが初恋であるなら猶更」
 妻の慰めは微妙に的を外している。
 ユーリスはその事よりも、妻にもっと気にしてほしかった。遊ばないのか、と今更思われている事が衝撃だった。

「いや……それはもうどうでもいいんだ……」
 力なく首を振るが、アンジェは反論した。
「どうでもいいかしら? 本当? 彼女、あなたを諦めていないみたいだったけれど」
「諦めて……いや、彼女は別に俺を好いていた訳じゃないだろう」
「それでも、相談女というのはそういう思考でしょう?」
「相談女?」
 まるで初めて聞いた、と言わんばかりな名称に、ユーリスは言葉の意味からその真意を推し計ろうとしている。
「ええ。思わせぶりに男性を見つめて、決して自分から明確に誘う事はしない。相談に乗ってほしいの、と言ってか弱く見つめる……」
 ユーリスは顔を青くして、口を引き結んだ。
「わたくしも誰かにやってみようかしら?」
(気持ちが悪いからやらないけれど)
 するとユーリスは慌てて止めた。
「だ、駄目だろう! それは浮気じゃないか!」
「ええ、そうですよ?」
 きょとん、と首を傾げたアンジェを見て、ユーリスは更に青白くなった。
「あ……」
「ようやくご自分を俯瞰で見られるようになって良かったですわ」
「あ、彼女が、離縁された、のは……」

 元王太子妃の離縁の理由は公にはされていない。だが知っている者は当然熟知している。彼女の「相談役」たちが原因だと。
 王太子妃ともあろう女性が、複数の男性と懇意にしている。その胎に宿るかもしれない種を疑うな、というのは無理がある。
 王太子が妃と距離を置き、確実に子を孕んでいない確証を経て、ようやく離縁が成った。と、そういう経緯がある。

 驚く事に、ユーリスは今の今までそれを思い付きもしなかった。
 自らが潔白であるから、疑いもしなかった。
 以前、「離縁の原因は何だったのだろうな」と疑問を呟いた事で、アンジェも母ラミリスも周りの使用人たちも呆れ、多少上がった好感度はまたひっそりと下がる、という事態にまで陥った。

 ユーリスの根本に、マリリアという女性は無垢で神秘性を湛えた淑女。という絶対的な概念があった。それは恋を失っても、消える事のない鉄壁の領域として存在している。

 それが、今日、初めて覆った。領域が崩れた。
 赤ん坊を抱えアンジェが隣にいるのに、目の前でその家族を扱き下ろすような発言を平然とした事で。
 ユーリスがアンジェを疎ましく思い、未だマリリアを好いていると絶対の自信を持った言葉だと、分かってしまって。

 ユーリスは床に埋まるのではないかというくらい項垂れている。
(随分根深い洗脳だったのね。さあ、これからどうなるかしら)
 アンジェはユーリスと情を交わしても、結局それは恋愛感情ではない。嫉妬という感情すら湧いてこない。
 だが鬱陶しいという気持ちがあるのは、娘がいるからだ。
(後顧の憂いだけは排除したいけれど……この子が大きくなった時、父親の色恋のあれこれは知りたくもないでしょうし)
 それでもアンジェは未来を描いた時、ユーリスを父親として引き留めねばという決断に行きついてしまう。

 だが、ロンド家の総意は違った。
「これから、また我が家を……イーリスたちを煩わせる可能性を考慮する。ユーリス。あの女がまた近づいてくる事があれば、今度こそお前ごと切り捨てるぞ」
 当主の冷酷な決断だ。
 嫡男のイーリスの妻は現在第2子を妊娠中だ。そんな中、兄にまたも異性問題が勃発するかもしれない。引っ越しをすればいいという問題ではなくなった。
 ユーリスが今は妻一人を愛しているという事実があっても、問題の方からやってきてはどうしようもない。

「……分かったか。お前が今までやってきたツケが、あの女だ」
「異性問題の後始末はきちんとしないとこうなるっていう悪い見本ね」
「……義姉上に免じて静観していましたが、こちらに飛び火するようなら絶対に許しません」
 家族会議でユーリスは針のむしろだった。唯一、アンジェだけは険を向ける事なくじっと黙っていた。
 そして、ひとつ、頷く。
「あなただけを切り捨てるのは容易ですが……」
 ユーリスは、目線を落とした。
「ユーリス。それでも、あの子にはあなたが必要ですわ。しっかりなさいませ、

 ユーリスは項垂れたまま、滂沱の涙を流した。
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