変える理由なんてなく

あさき のぞみ

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童貞と、解けた動揺

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悠人は、テーブルの上で、失敗したキャラメルマキアートを再現するかのように、カップとスプーンで身振り手振りを交えて静香に説明していた。

「……で、ここでキャラメルソースを入れるのが衝動的すぎたんです。計画性がなかった」

「なるほど。じゃあ、まずはソースの量を計量するのが、成功への第一歩ですね」静香はTシャツ姿のまま、真剣な眼差しで悠人の話を聞いている。
物理的な距離は近い。静香の濡れた服は乾燥機の中で回っているが、二人の間に漂う空気は、湿った重さとは無縁で、むしろどこか軽やかだった。

しかし、悠人の頭の中では、新たな情報のノイズが爆発していた。


(冷静に話してるけど、やばい。この人、可愛い。可愛すぎるだろ、このバイトTシャツ姿。こんな状況で、俺はマキアートの説明なんてしてていいのか?)

彼の動揺は、今回、自分の経験の不足、すなわち童貞であることに起因していた。

静香は、前回、既婚者ではないと判明した。つまり、今、彼の目の前には、交際可能な、一目惚れした女性がいる。しかし、彼女の醸し出す落ち着き、兄との親密なやり取りに見られた余裕、そして何より、この非日常的な状況で動じない大人の雰囲気が、悠人の心を締め付けた。


(落ち着け、俺。この人は、きっと色々な経験をしてきた人だ。兄があんなにスマートなんだから、静香さんも、恋愛でいくつも修羅場を越えてきた経験豊富な女に違いない)


悠人は、静香の落ち着きと自分の焦燥感を勝手に天秤にかけ、決定的な差があると思い込んだ。彼の中のADHDの衝動性は、常に「白か黒か」「全か無か」の極端な結論を求める。

静香が、デザイン科で友人と行ったヨーロッパ旅行のスケッチの話をし始めた。


「……パリの美術館に行ったとき、彫刻をただ見るんじゃなくて、触ってみたい衝動に駆られたんだけど、警備員に見張られていて諦めたの」


「あ、それ、めっちゃわかります!衝動を抑えるの、大変ですよね」悠人は、反射的に大きく頷いた。

静香は微笑んだ。「そう。でも、衝動って、デザインの種になる。兄がよく言うんだけど、制御できないエネルギーこそが個性だって」

(兄、兄……。きっと、その兄から、色々な恋愛の駆け引きとかも学んできたんだ。この余裕は、場数を踏んだ証拠だ)

動揺の波が、彼の理性を飲み込もうとした。このままでは、また勝手に「彼女は手が届かないレベルの女性だ」と結論づけて、諦めてしまう。

衝動性が、彼を突き動かした。


「あの……静香さんは、その、今までお付き合いされた人って、やっぱりたくさんいらっしゃるんですか?」


言葉は、衝動的に、そして場違いなほど直球で飛び出した。悠人自身、言ってしまった後で、顔が真っ赤になるのを感じた。童貞が、経験豊富だと決めつけた女性に、いきなり恋愛遍歴を聞くという、最悪の質問だ。


静香は、一瞬、目を見開いた。彼女の落ち着いた表情が、初めて動揺で曇った。頬がうっすらと赤くなり、視線が泳ぐ。

「えっ……急に、どうしたの?」

その動揺を見て、悠人はさらに追い込まれた。

(やっぱり、デリカシーのない質問だったんだ。きっと、過去の華々しい恋愛の話を、こんな男に話したくないんだ……)

「す、すみません!変なこと聞いて!僕、ADHDの悪い癖で、考える前に言葉が…」

「違うの、悠人君」

静香は、そっとカップをテーブルに置き、自分を落ち着かせるように一度深呼吸をした。そして、恥ずかしそうに、少し声を落として言った。

「あのね……私、全然経験豊富なんかじゃないよ。むしろ、その逆」



悠人は、目を丸くした。


「デザインに過集中するから、恋愛のスイッチが全く入らないの。大学時代、サークルの先輩に一度告白されたけど、その時、締め切り前の課題で頭がいっぱいで、**『ごめんなさい、今は時間がもったいない』**って断っちゃったくらい」

彼女は苦笑した。

「兄は、私が恋愛に全く興味がないのを心配してるんだ。だから、いつも落ち着いて見えるのは、恋愛の余裕なんかじゃなくて、単に恋愛の経験値がゼロだからかもしれない。私は、悠人君みたいに、誰かに衝動的に夢中になるエネルギーが、ずっと羨ましかったんだよ」


静香の告白は、悠人にとって、再び世界の視点が変わる瞬間だった。

彼の動揺の原因だった「静香=経験豊富な女」という図式が、音を立てて崩れ去る。彼の恐れていた「経験の差」は、存在しなかった。

(俺が、また勝手に結論付けてたんだ。落ち着いている=経験豊富。違う。それは、静香さんの個性であって、恋愛の履歴書じゃない)


彼の過去の失敗は、童貞であることではなく、童貞というコンプレックスから、相手を勝手に神格化し、自分から距離を取ろうとした、その衝動的な判断だった。

童貞であること、経験不足であることは、静香の前に立つ上でのハンデではない。むしろ、彼らのスタートラインは、驚くほど近かったのだ。

彼の頭の中のノイズは収まり、代わりに見事なメロディが流れ始めた。それは、彼の**「衝動的な行動力」を、今度は「恋愛の経験値」**に変えていけるかもしれないという、新しい希望の音だった。

「静香さん……じゃあ、もし、僕がもう一度、キャラメルソースの量を計って、計画的にアプローチし直しても、大丈夫、ですか?」

悠人は、少し震える声で尋ねた。

静香は、ふわりと笑った。

「計量しすぎるのも、衝動的すぎるのも、もったいないよ。私は、悠人君の衝動に乗って、この雨の中、ここまで来ちゃったんだから。……少しずつ、でいいんじゃないかな」


彼女の言葉に、悠人は心の中で、人生初の恋愛の課題に、過集中で挑む決意を固めた。
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