続 水槽と鳥籠の違い

あさき のぞみ

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無言

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中学三年生の春。
俺は自分の部屋で、ノートに向かっていた。
国語の宿題で出された「未来の自分への手紙」。
ペンを握ったまま、何も書けずにいた。
未来の自分。
どんな人間になっているんだろう。
彼女はいるんだろうか。
友達はいるんだろうか。
自信を持って生きているんだろうか。
わからなかった。
ペンを置いて、窓の外を見た。
夕暮れの空。
オレンジ色に染まっている。
綺麗だと思った。
でも、どこか寂しかった。
机の引き出しを開けた。
中に、何枚かの紙が入っている。
去年から書き溜めていた、物語の断片。
誰にも見せたことのない。
自分だけの、秘密の物語。
一番上の紙を取り出した。
「水槽と鳥籠の違い」
タイトルだけが書いてあった。
その下に、メモ。
「主人公:中井、16歳」
「自分に自信がない」
「誰にも愛されない」
「でも、誰かに出会う」
「早川さん?藤原?それとも……」
メモは、そこで止まっていた。
俺は、この物語の続きを考えた。
もし、高校に入って。
もし、早川さんみたいな女の子に出会って。
その子が、妊娠して、学校を辞めることになったら。
もし、藤原みたいな友達ができて。
その友達が、実は父親で、嘘をついていたら。
もし、大学に入って。
まいみたいな女性を呼んで。
惨めな思いをしたら。
もし、教育実習に行って。
渡瀬みたいな生徒に出会って。
関係を持って。
妊娠させて。
全部バレて。
人生が終わったら。
もし。
もし。
もし。
全部、妄想だった。
起こるはずのない出来事。
俺みたいな人間に、そんなドラマチックなことは起こらない。
でも、想像することはできた。
自分が誰かに必要とされること。
誰かに求められること。
たとえそれが、間違った形だったとしても。
たとえそれが、破滅に繋がるとしても。
ペンを取った。
ノートに、書き始めた。
物語を。
俺が経験しないであろう、物語を。
「俺は自分になんか自信なんてものは全くなかった」
最初の一行。
そこから、物語が溢れ出した。
早川さんが現れた。
藤原が現れた。
まいが現れた。
渡瀬が現れた。
みんな、俺の頭の中にしかいない人たち。
でも、彼らは生きていた。
俺のペンの中で。
時間が過ぎた。
気がつくと、夜になっていた。
ノートは、文字で埋まっていた。
最後の場面を書いた。
警察。
退学。
人生の終わり。
全部、書いた。
そして、最後の一行。
「これは中井が高校に進学する前に考えた妄想だった」
ペンを置いた。
読み返した。
自分で書いた物語なのに、まるで他人事のように感じた。
この物語の中の中井は、俺だけど俺じゃない。
色々なことを経験して。
色々な人に出会って。
間違いも犯して。
人生を壊して。
でも、少なくとも、生きている。
何かを感じている。
痛みも、後悔も、全部感じている。
本物の俺は、何も経験していない。
誰とも深く関わっていない。
ただ、水槽の中で泳いでいるだけの金魚。
外の世界を想像するだけ。
でも、それでいいのかもしれない。
物語の中の中井は、破滅した。
人生を壊した。
取り返しのつかないことをした。
でも、俺はそうならない。
そうなれない。
だって、俺には勇気がないから。
水槽の外に出る勇気も。
誰かを愛する勇気も。
間違いを犯す勇気も。
全部、ない。
だから、俺は安全だ。
何も失わない。
でも、何も得ない。
それが、俺の人生。
ノートを閉じた。
引き出しにしまった。
誰にも見せない。
誰にも話さない。
これは、俺だけの秘密。
窓の外を見た。
夜空に、星が見えた。
明日から、高校受験の追い込みが始まる。
春になれば、高校生になる。
新しい世界が始まる。
でも、何も変わらない気がした。
俺は俺のまま。
自信のない。
何も持っていない。
ただの、中井。
それでも、いいのかもしれない。
妄想の中で生きるよりは。
現実の中で、少しずつ進む方が。
たとえ、何も起こらなくても。
ベッドに横になった。
天井を見つめた。
シミは、なかった。
当たり前だ。
まだ、何も汚れていないから。
目を閉じた。
明日も、学校がある。
普通の一日が、続いていく。
それでいい。
それが、俺だから。
水槽の中の金魚は、外の世界を知らない。
鳥籠の中の鳥は、空を忘れている。
でも、それでいい。
知らない方が、幸せなこともある。
妄想の中で破滅するよりは。
現実の中で、静かに息をする方が。
ずっと、いい。
そう思いながら、眠りについた。
物語は、引き出しの中に眠っている。
誰も読まない。
誰も知らない。
ただの、妄想。
中井少年の、思春期特有の妄想。
起こらなかった出来事。
起こるはずのない出来事。
でも、もしかしたら。
もしかしたら、どこかの世界では。
この物語が、現実になっているかもしれない。
別の中井が、この道を辿っているかもしれない。
でも、この世界の俺は、違う。
安全な水槽の中で。
静かに泳いでいる。
それが、俺の選択。
それが、俺の人生。
窓の外で、風が吹いた。
春を告げる風。
新しい季節が、始まろうとしている。
でも、俺の中では、何も変わらない。
ずっと、変わらない。
それでいい。
そう思うことにした。
引き出しの中のノート。
そこに書かれた物語。
それは、もう一人の俺の物語。
妄想の中で生きた、もう一人の俺。
勇気を出して、水槽の外に出た俺。
でも、溺れて、沈んでいった俺。
俺は、そうはならない。
そうなれない。
そうなりたくない。
水槽の中は、安全だから。
外は、怖いから。
それが、答えだった。
俺の、答え。
目を閉じた。
眠りに落ちる前、最後に思った。
物語の中の早川さん。
物語の中の藤原。
物語の中の渡瀬。
みんな、ごめん。
君たちは、俺の妄想の中で、苦しんだ。
でも、それは俺の勝手な想像。
現実の君たちは、もっと幸せに生きているはず。
俺なんかと関わらずに。
俺なんかに見られずに。
ずっと、幸せに。
そう願いながら、眠りについた。
物語は、終わった。
妄想は、終わった。
でも、人生は続く。
俺の、何も起こらない人生が。
それでいい。
それが、いい。
そう信じることにした。
―完―
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