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慣らし
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最初の一週間、美樹は毎朝、不安で胸が押しつぶされそうだった。
「本当に大丈夫かな」
施設の玄関で美保を預けるとき、何度もそう呟いた。美保は相変わらず無表情で、施設の職員に抱かれても泣きもしなければ笑いもしなかった。それが逆に美樹を不安にさせた。
「大丈夫ですよ。お母さん、ゆっくり休んでくださいね」
担当の保育士、佐々木さんはいつも笑顔でそう言ってくれた。二十代後半の、明るい女性だった。名札には「佐々木由美」とあった。
最初は二時間だけの預かりだった。美樹は家に帰っても落ち着かず、スマートフォンを握りしめて施設からの連絡を待った。何か問題があったらすぐに迎えに行けるように、外出もせず家にいた。
けれど、電話は鳴らなかった。
二時間後、迎えに行くと、美保は畳の部屋で一人、ボールプールに入っていた。佐々木さんが傍で見守っている。
「どうでしたか」
「とってもよく過ごせましたよ。少しお昼寝もしてくれました」
佐々木さんは連絡帳を手渡しながら、美保の様子を細かく教えてくれた。何を食べたか、どんな遊びをしたか、排泄の様子まで。すべてが丁寧に記録されていた。
二週目に入ると、預かり時間は四時間に延びた。美樹は最初の一時間だけ不安で仕方なかったが、それを過ぎると、不思議な感覚に襲われた。
静寂だった。
家の中に、美保の声がない。物音がない。気を張る必要がない。
美樹はソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めた。何を見ているのかもわからないまま、ただ画面を見つめていた。そのうち、いつの間にか眠っていた。
目が覚めたのは、アラームが鳴ったときだった。迎えの時間を知らせる音。美樹は慌てて起き上がり、時計を見た。二時間も眠っていた。
「二時間……」
美樹は呟いた。美保が生まれてから、こんなに長く眠ったのは初めてだった。鏡を見ると、自分の顔が少しだけ柔らかく見えた。
施設に迎えに行くと、美保は相変わらず一人で遊んでいた。でも、その表情はいつもより穏やかな気がした。
「今日もとてもよく過ごせました。音楽に合わせて体を揺らしたり、感覚遊びを楽しんだりしていましたよ」
佐々木さんの報告を聞きながら、美樹は安堵のため息をついた。
三週目、預かり時間は六時間になった。午前十時から午後四時まで。美樹は恐る恐る、近所のスーパーに買い物に出かけた。
美保を連れての買い物は、いつも戦いだった。カートに乗せても脱走する。商品を勝手に取る。大声を出す。周りの目が痛かった。「ちゃんと躾けないと」という視線。「迷惑な親子」という空気。
でも今日は一人だった。美樹はゆっくりと店内を回り、食材を選んだ。誰にも急かされず、誰の視線も気にせず。野菜を手に取り、賞味期限を確認し、値段を比べる。そんな当たり前のことが、こんなにも贅沢に感じられた。
レジを済ませて外に出たとき、美樹は立ち止まった。空が、こんなに青かったことを忘れていた。風が頬を撫でていく。季節が春から初夏へ移り変わっていることに、今更気づいた。
美樹は深く息を吸った。久しぶりに、生きている実感があった。
夜、保が仕事から帰ると、美樹は久しぶりに手の込んだ夕食を作っていた。豚肉の生姜焼き、ほうれん草のお浸し、味噌汁、ご飯。結婚した頃は当たり前に作っていた献立。
「美樹、顔色がいいな」
保が言った。美樹は照れくさそうに笑った。
「今日、昼寝したんです。二時間も。それから買い物も行けて」
「そうか」
保は妻の頭を撫でた。美樹の表情が、少しずつ明るくなっていた。
一ヶ月が過ぎた頃、山口施設長から提案があった。
「美保ちゃん、とても順調に慣れてきています。もしよろしければ、週三回、六時間の利用にしてみませんか」
美樹は即座に頷いた。
その夜、布団の中で保に言った。
「怖いくらいスムーズで。何か問題が起きるんじゃないかって、まだ不安になるんです」
「それだけ、ゆらりが美保に合ってるってことだよ」
保は答えた。
「そうですね。そう信じたいです」
美樹は目を閉じた。今夜も、きっとぐっすり眠れる。
そう思いながら、美樹は深い眠りに落ちていった。久しぶりの、安らかな眠りだった。
「本当に大丈夫かな」
施設の玄関で美保を預けるとき、何度もそう呟いた。美保は相変わらず無表情で、施設の職員に抱かれても泣きもしなければ笑いもしなかった。それが逆に美樹を不安にさせた。
「大丈夫ですよ。お母さん、ゆっくり休んでくださいね」
担当の保育士、佐々木さんはいつも笑顔でそう言ってくれた。二十代後半の、明るい女性だった。名札には「佐々木由美」とあった。
最初は二時間だけの預かりだった。美樹は家に帰っても落ち着かず、スマートフォンを握りしめて施設からの連絡を待った。何か問題があったらすぐに迎えに行けるように、外出もせず家にいた。
けれど、電話は鳴らなかった。
二時間後、迎えに行くと、美保は畳の部屋で一人、ボールプールに入っていた。佐々木さんが傍で見守っている。
「どうでしたか」
「とってもよく過ごせましたよ。少しお昼寝もしてくれました」
佐々木さんは連絡帳を手渡しながら、美保の様子を細かく教えてくれた。何を食べたか、どんな遊びをしたか、排泄の様子まで。すべてが丁寧に記録されていた。
二週目に入ると、預かり時間は四時間に延びた。美樹は最初の一時間だけ不安で仕方なかったが、それを過ぎると、不思議な感覚に襲われた。
静寂だった。
家の中に、美保の声がない。物音がない。気を張る必要がない。
美樹はソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めた。何を見ているのかもわからないまま、ただ画面を見つめていた。そのうち、いつの間にか眠っていた。
目が覚めたのは、アラームが鳴ったときだった。迎えの時間を知らせる音。美樹は慌てて起き上がり、時計を見た。二時間も眠っていた。
「二時間……」
美樹は呟いた。美保が生まれてから、こんなに長く眠ったのは初めてだった。鏡を見ると、自分の顔が少しだけ柔らかく見えた。
施設に迎えに行くと、美保は相変わらず一人で遊んでいた。でも、その表情はいつもより穏やかな気がした。
「今日もとてもよく過ごせました。音楽に合わせて体を揺らしたり、感覚遊びを楽しんだりしていましたよ」
佐々木さんの報告を聞きながら、美樹は安堵のため息をついた。
三週目、預かり時間は六時間になった。午前十時から午後四時まで。美樹は恐る恐る、近所のスーパーに買い物に出かけた。
美保を連れての買い物は、いつも戦いだった。カートに乗せても脱走する。商品を勝手に取る。大声を出す。周りの目が痛かった。「ちゃんと躾けないと」という視線。「迷惑な親子」という空気。
でも今日は一人だった。美樹はゆっくりと店内を回り、食材を選んだ。誰にも急かされず、誰の視線も気にせず。野菜を手に取り、賞味期限を確認し、値段を比べる。そんな当たり前のことが、こんなにも贅沢に感じられた。
レジを済ませて外に出たとき、美樹は立ち止まった。空が、こんなに青かったことを忘れていた。風が頬を撫でていく。季節が春から初夏へ移り変わっていることに、今更気づいた。
美樹は深く息を吸った。久しぶりに、生きている実感があった。
夜、保が仕事から帰ると、美樹は久しぶりに手の込んだ夕食を作っていた。豚肉の生姜焼き、ほうれん草のお浸し、味噌汁、ご飯。結婚した頃は当たり前に作っていた献立。
「美樹、顔色がいいな」
保が言った。美樹は照れくさそうに笑った。
「今日、昼寝したんです。二時間も。それから買い物も行けて」
「そうか」
保は妻の頭を撫でた。美樹の表情が、少しずつ明るくなっていた。
一ヶ月が過ぎた頃、山口施設長から提案があった。
「美保ちゃん、とても順調に慣れてきています。もしよろしければ、週三回、六時間の利用にしてみませんか」
美樹は即座に頷いた。
その夜、布団の中で保に言った。
「怖いくらいスムーズで。何か問題が起きるんじゃないかって、まだ不安になるんです」
「それだけ、ゆらりが美保に合ってるってことだよ」
保は答えた。
「そうですね。そう信じたいです」
美樹は目を閉じた。今夜も、きっとぐっすり眠れる。
そう思いながら、美樹は深い眠りに落ちていった。久しぶりの、安らかな眠りだった。
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