だから

あさき のぞみ

文字の大きさ
6 / 17

事故

しおりを挟む
それは、いつもと変わらない火曜日の午後だった。
美保は療育室で、佐々木さんと一​​​​​​​​​​​​​​​​緒に制作活動をしていた。
その日のテーマは「七夕飾り」。色とりどりの折り紙を切って、笹の葉に飾る。美保の発達段階では難しい作業だったが、佐々木さんは美保が「切る」という動作に興味を持つかもしれないと考えていた。
「美保ちゃん、見ててね。こうやって切るんだよ」
佐々木さんは子ども用の安全ハサミで、折り紙をゆっくりと切ってみせた。
美保は珍しく、その動作をじっと見つめていた。
「やってみる?」
佐々木さんは美保の手にハサミを持たせた。美保の小さな手が、ハサミを握った。
「そうそう、上手だね」
美保は何度か、ハサミを開いたり閉じたりした。まだ紙は切れなかったが、動作そのものを楽しんでいるようだった。
「すごいね、美保ちゃん。初めてなのに、ちゃんと持てるんだね」
佐々木さんは笑顔でそう言って、美保の頭を撫でた。
その時、他の子どもが泣き出した。
「ちょっと待っててね、美保ちゃん」
佐々木さんは立ち上がり、三メートルほど離れた場所にいる子どものところへ向かった。転んで膝を擦りむいたようだった。
「大丈夫? 痛かったね」
佐々木さんは子どもを抱き上げ、傷を確認し始めた。
その間、わずか十数秒。
美保は、まだハサミを持っていた。
開いて、閉じて。開いて、閉じて。
その動作が楽しくて、美保は繰り返していた。
そして——。
佐々木さんが振り返った瞬間だった。
美保は立ち上がっていた。ハサミを持ったまま。
「美保ちゃん、危ない!」
佐々木さんは慌てて駆け寄った。
「ハサミ、机に置こうね」
佐々木さんは優しく声をかけながら、美保に近づいた。
美保は、佐々木さんの顔を見た。
そして、ハサミを持った手を——。
振り上げた。
遊びの延長だった。ただ、ハサミを動かしたかっただけだった。
でも、その手が、佐々木さんの腕に当たった。
「あっ」
佐々木さんの小さな声。
ハサミの刃先が、佐々木さんの左腕に深く食い込んでいた。
血が、流れ始めた。
「美保ちゃん……」
佐々木さんは、痛みをこらえながら美保からハサミを取り上げた。
美保は、何が起きたのか理解していなかった。ただ、ハサミを取られて、少し不満そうな顔をしていた。
「加藤先生!」
佐々木さんの声に、隣の部屋にいた主任の加藤が駆けつけた。
「由美さん!」
加藤は佐々木さんの腕を見て、顔色を変えた。
「すぐに救急車を!」
傷は深かった。子ども用の安全ハサミとはいえ、刃先は尖っている。そして、偶然にも血管の近くを切ってしまっていた。
佐々木さんは床に座り込んだ。
「美保ちゃん……大丈夫?」
出血で意識が朦朧とする中でも、佐々木さんが心配したのは美保のことだった。
「美保ちゃんは無事です。由美さん、しっかりして!」
加藤は止血しながら、必死に声をかけた。
救急車が到着するまで、十分。
佐々木さんは病院に搬送された。
美保は、何が起きたのかわからないまま、別室で職員に見守られていた。
その日の午後二時、美樹のスマートフォンが鳴った。
ゆらり三沢事業所、山口施設長からの着信だった。
美樹の心臓が、大きく跳ねた。
これまで三ヶ月間、一度も施設から電話がかかってきたことはなかった。
震える手で、通話ボタンを押した。
「もしもし、田中です」
「田中さん、山口です」
山口の声は、いつもと違って震えていた。
「あの……美保ちゃんと、佐々木の件で……」
美樹の全身から、血の気が引いていくのがわかった。
「美保が……制作活動中に、ハサミで……佐々木が怪我をしました」
「えっ……」
「今、救急車で病院に搬送されています。美保ちゃんに怪我はありません。ただ……」
山口は言葉を詰まらせた。
「傷が深くて……血管を傷つけているかもしれません」
美樹は息ができなくなった。
「すぐに……すぐに伺います」
電話を切ると、美樹は床に崩れ落ちた。
保に電話した。声が震えて、うまく言葉にならなかった。
「すぐに帰る」
保はそれだけ言って、電話を切った。
一時間後、保が駆けつけた時、美樹はリビングの床に座り込んだまま、動けずにいた。
「美樹」
保が肩を抱いた。美樹は何も言えなかった。
その日の夕方、保が一人で施設に美保を迎えに行った。
施設の玄関には、警察の車が停まっていた。
中に入ると、山口施設長が真っ青な顔で立っていた。その奥では、警察官たちが何かを記録している様子が見えた。
「田中さん……申し訳ございません……」
山口は絞り出すように言った。
「美保は」
保の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「奥の部屋で、職員が見ています。怪我は……美保ちゃんに怪我はありません」
保は案内された部屋に入った。
美保は、畳の部屋の隅で、ぬいぐるみを抱いて座っていた。いつもと変わらない、無表情な顔で。
保は娘を抱き上げた。美保は何も抵抗しなかった。何も感じていないかのように。
「佐々木さんは……」
保が聞くと、山口は言葉を選ぶように答えた。
「今、手術中です。腕の動脈を傷つけていて……」
山口の声が震えた。
「命に別状はないと連絡がありましたが、腕の神経も損傷している可能性があって……」
保は美保を抱きしめたまま、施設を出た。
家に帰ると、美樹はまだリビングに座り込んでいた。
「美保……」
美樹が娘を見た瞬間、涙が溢れた。
「美保……美保……」
美樹は泣きながら美保を抱きしめた。美保は相変わらず無表情で、母親の涙の意味を理解していないようだった。
その夜、二人は一睡もできなかった。
翌日、警察から事情聴取があった。保と美樹は何度も頭を下げた。謝った。謝り続けた。
「お嬢さんには、責任能力がありません」
警察官は言った。
「ですが、今後の対応については、児童相談所と相談することになります」
保は黙って頷いた。
美保は、隣の部屋でぬいぐるみを抱いて座っていた。何も知らないかのように。
その夜、山口施設長から電話があった。
「田中さん、佐々木の手術が終わりました」
保は息を飲んだ。
「命は……助かりました。ただ……」
山口は続けた。
「左腕の正中神経を損傷していて、今後リハビリが必要になります。完全に回復するかどうかは……まだわかりません」
保は電話を握りしめた。
「本当に……申し訳ございません……」
「田中さんが謝ることではありません。私たちの監督責任です」
山口の声も震えていた。
「ただ……しばらく、美保ちゃんの受け入れは……」
言葉が続かなかった。
保は理解した。
もう、ゆらりには通えない。
電話を切ると、美樹が言った。
「美保、もう施設には通えないよね」
保は頷いた。
「当分は……無理だろうな」
美樹の目から、また涙が溢れた。
「やっと見つかった場所だったのに……やっと、安心できると思ったのに……」
保は妻の肩を抱いた。
その夜、二人は眠れなかった。
隣の部屋では、美保がぐっすりと眠っている。何も知らずに。自分が何をしたのかも理解せずに。
保はベッドの中で、天井を見つめた。
佐々木さん。
あんなに優しくしてくれた人。
美保のことを、誰よりも理解してくれた人。
その人の腕を、美保が……。
保は目を閉じた。
でも、その光景が頭から離れなかった。
窓の外は、暗かった。月も星も見えなかった。
ただ、深い闇だけがそこにあった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

明治かんなぎ少女の冥契 五百年の時を超えて、あなたに愛を

花籠しずく
キャラ文芸
 ――ですが、わたくしは生まれました。あなたに会うために。  月のものが来るようになってから、琥珀は不思議な夢を見る。誰かに探されている夢。きっと大切な人だったことは分かるのに、目が覚めると朧気で何も思い出せない。婚約者である志貴の言いなりの人形になる生活をし、生家とは会うと脅され、心が疲弊していたある日、家からひとり抜け出すと、妖魔のようなものに出会う。呪術師である志貴に、一時祓ってもらいはしたが、不思議と心が痛む。夢に美しい男が現れ、声に導かれるようにして、ある山のふもとの、廃れた神社の中に入ると、そこには苦しそうに蹲るあの妖魔がいた。琥珀はそれが夢に現れた、蘿月という男だと直感する。全身が黒い靄で包まれた彼の、靄を払う方法を、どうしてか琥珀は知っていた。口づけをし、息を吹き込むように、生きて、と願った。  帰ってすぐに志貴に殴られ、月のものがはじまっていたことが志貴にばれる。琥珀を穢そうとする志貴の様子に恐ろしさを覚えて、助けてと叫んだその瞬間、闇を裂くようにして、蘿月が現れた。 「琥珀は、俺が五百年待ち望んだ花嫁だ」  これは、時を超えて紡がれる愛の物語。そして虐げられた少女が、愛を知り、愛のために生きる自由を選ぶ物語。 ※R-15っぽいゆるい性描写があります。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

処理中です...