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訴状
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事故から一週間後の朝、チャイムが鳴った。
保が玄関に出ると、スーツを着た男性が立っていた。
「田中保様でいらっしゃいますか」
男性は名刺を差し出した。弁護士、という文字が目に入った。
「はい」
保の声は掠れていた。
「佐々木由美様の代理人を務めさせていただいております、弁護士の川村と申します」
男性は丁寧な口調で言った。
「こちら、訴状になります」
茶封筒を差し出された。
保の手が震えた。封筒を受け取ると、ずっしりとした重みがあった。
「内容については、訴状をご確認ください。期日までに、応答をお願いいたします」
川村弁護士は深く頭を下げて、去っていった。
保は玄関に立ち尽くしたまま、封筒を見つめた。
「誰……?」
リビングから美樹の声がした。保は返事ができなかった。
封筒を持ってリビングに戻ると、美樹は顔色を変えた。
「それ……」
保は黙って封筒を開けた。
訴状。損害賠償請求。原告、佐々木由美。被告、田中保、田中美樹。
請求金額——二千五百万円。
美樹の顔から血の気が引いた。
「二千五百万……」
保は訴状を読み進めた。手が震えて、文字がぼやけた。
『原告は、被告らの長女である田中美保(当時五歳)の療育中、同児が使用していたハサミにより左腕を負傷し、正中神経損傷の重傷を負った。被告らは、当該児童が他者に危害を加える可能性について十分な説明を怠り、また適切な監督を行わなかった』
『原告は、左腕の機能障害により、療育士としての業務継続が困難となり、将来にわたって多大な経済的・精神的損害を被った。よって被告らに対し、損害賠償として金二千五百万円及びこれに対する遅延損害金の支払いを求める』
美樹は床に崩れ落ちた。
「二千五百万……そんな……そんなお金……」
保も言葉が出なかった。
家のローンがまだ千九百万円残っている。貯金は百万円程度。二千五百万円など、払えるはずがなかった。
「私たちのせい……」
美樹が震える声で言った。
「私たちが、ちゃんと説明しなかったから……佐々木さんが……」
「いや、俺たちだって、まさか美保がそんなことをするなんて……」
保は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
まさか。その言葉は、言い訳にしかならない。
結果として、佐々木さんは重傷を負った。美保の手によって。
それは事実だった。
その日、保は会社を休んだ。美樹と二人、リビングのテーブルに向かい合って座った。美保は隣の部屋で、いつものようにぬいぐるみを抱いている。
「弁護士……相談しないと」
保が言った。
「でも、お金……」
美樹が呟いた。
「弁護士に相談するお金も……」
保は頭を抱えた。
スマートフォンで検索した。法テラス。無料相談。個人賠償責任保険。
保はふと思い出して、保険証券を探した。火災保険に付帯していた個人賠償責任保険。加入していたはずだ。
「あった……」
保は証券を見つけた。
「個人賠償責任保険、限度額一億円……」
美樹が顔を上げた。
「保険……使えるの?」
「わからない。でも、確認しないと」
保はすぐに保険会社に電話をかけた。
事情を説明すると、担当者は言った。
「お子様の行為による第三者への損害ということですね。確認させていただきますが、重度の知的障害があるお子様の場合、責任能力がないと判断され、監督義務者である保護者様の責任として保険適用になる可能性があります」
「本当ですか」
「ただし、詳細な調査が必要です。保険金をお支払いできるかどうかは、後日ご連絡させていただきます」
電話を切ると、保は美樹に言った。
「保険が使えるかもしれない」
「本当に……?」
美樹の目に、わずかな希望の光が灯った。
でも、保は知っていた。
たとえ保険が下りたとしても、それは金銭の問題でしかない。
佐々木さんの腕は、元に戻らない。
療育士としての仕事も、続けられないかもしれない。
その罪は、消えない。
午後、ゆらり三沢事業所から電話があった。山口施設長からだった。
「田中さん……訴状のこと、お聞きしました」
山口の声は沈んでいた。
「私たちも、本当に……申し訳ございません」
「いえ、施設のせいでは……」
保は言った。
「美保を預けた、俺たちの責任です」
「田中さん、一つお伝えしなければならないことがあります」
山口は続けた。
「ゆらり本部と顧問弁護士が協議した結果……施設としても、田中さんご夫妻に対して、損害賠償請求を行うことになりました」
保の膝から力が抜けた。
「職員の安全管理、施設運営への影響、そして他の保護者様からの不安の声……本部としては、法的な対応を取らざるを得ないという判断です」
保は何も言えなかった。
「私個人としては……本当に申し訳なく思っています」
山口の声は震えていた。
電話を切ると、保は床に座り込んだ。
「どうしたの?」
美樹がリビングから出てきた。
保は顔を上げられなかった。
「施設からも……訴えられる」
「え……」
美樹の声が震えた。
「ゆらりが……私たちを……?」
保は頷いた。
美樹は壁に手をついて、身体を支えた。
「そんな……あんなに優しくしてくれたのに……」
「仕方ないんだよ」
保は絞り出すように言った。
「施設だって、他の子供たちを預かってる。保護者から不安の声が出れば、対応せざるを得ない」
「でも……」
美樹は膝をつき、床に手をついた。
「じゃあ、二つ……二つも訴えられるの?」
保は答えられなかった。
数日後、ゆらり本部からの訴状が届いた。
請求金額——八百万円。
『事故によって施設の評判が著しく損なわれ、利用者が減少した。また、職員の精神的ケアや安全対策の強化に多大な費用を要した』
合計で、三千三百万円。
保は訴状を持ったまま、動けなくなった。
三千三百万円。
たとえ保険が全額下りたとしても、弁護士費用、裁判費用がかかる。
そして、精神的な負担。
保は深く息を吐いた。
美樹に見せると、妻は何も言わず、ただ訴状を見つめていた。
「私たち……どうなるの?」
美樹が震える声で聞いた。
保は答えられなかった。
隣の部屋では、美保が床に座って、ぬいぐるみを抱いていた。
その小さな背中を見つめながら、保は思った。
この子のために、あんなに必死になって、受け入れ先を探した。
やっと見つかった場所で、安心できると思った。
それが、こんな結末を迎えるなんて。
保はソファに深く沈み込んだ。
もう、立ち上がる力が残っていなかった。
保が玄関に出ると、スーツを着た男性が立っていた。
「田中保様でいらっしゃいますか」
男性は名刺を差し出した。弁護士、という文字が目に入った。
「はい」
保の声は掠れていた。
「佐々木由美様の代理人を務めさせていただいております、弁護士の川村と申します」
男性は丁寧な口調で言った。
「こちら、訴状になります」
茶封筒を差し出された。
保の手が震えた。封筒を受け取ると、ずっしりとした重みがあった。
「内容については、訴状をご確認ください。期日までに、応答をお願いいたします」
川村弁護士は深く頭を下げて、去っていった。
保は玄関に立ち尽くしたまま、封筒を見つめた。
「誰……?」
リビングから美樹の声がした。保は返事ができなかった。
封筒を持ってリビングに戻ると、美樹は顔色を変えた。
「それ……」
保は黙って封筒を開けた。
訴状。損害賠償請求。原告、佐々木由美。被告、田中保、田中美樹。
請求金額——二千五百万円。
美樹の顔から血の気が引いた。
「二千五百万……」
保は訴状を読み進めた。手が震えて、文字がぼやけた。
『原告は、被告らの長女である田中美保(当時五歳)の療育中、同児が使用していたハサミにより左腕を負傷し、正中神経損傷の重傷を負った。被告らは、当該児童が他者に危害を加える可能性について十分な説明を怠り、また適切な監督を行わなかった』
『原告は、左腕の機能障害により、療育士としての業務継続が困難となり、将来にわたって多大な経済的・精神的損害を被った。よって被告らに対し、損害賠償として金二千五百万円及びこれに対する遅延損害金の支払いを求める』
美樹は床に崩れ落ちた。
「二千五百万……そんな……そんなお金……」
保も言葉が出なかった。
家のローンがまだ千九百万円残っている。貯金は百万円程度。二千五百万円など、払えるはずがなかった。
「私たちのせい……」
美樹が震える声で言った。
「私たちが、ちゃんと説明しなかったから……佐々木さんが……」
「いや、俺たちだって、まさか美保がそんなことをするなんて……」
保は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
まさか。その言葉は、言い訳にしかならない。
結果として、佐々木さんは重傷を負った。美保の手によって。
それは事実だった。
その日、保は会社を休んだ。美樹と二人、リビングのテーブルに向かい合って座った。美保は隣の部屋で、いつものようにぬいぐるみを抱いている。
「弁護士……相談しないと」
保が言った。
「でも、お金……」
美樹が呟いた。
「弁護士に相談するお金も……」
保は頭を抱えた。
スマートフォンで検索した。法テラス。無料相談。個人賠償責任保険。
保はふと思い出して、保険証券を探した。火災保険に付帯していた個人賠償責任保険。加入していたはずだ。
「あった……」
保は証券を見つけた。
「個人賠償責任保険、限度額一億円……」
美樹が顔を上げた。
「保険……使えるの?」
「わからない。でも、確認しないと」
保はすぐに保険会社に電話をかけた。
事情を説明すると、担当者は言った。
「お子様の行為による第三者への損害ということですね。確認させていただきますが、重度の知的障害があるお子様の場合、責任能力がないと判断され、監督義務者である保護者様の責任として保険適用になる可能性があります」
「本当ですか」
「ただし、詳細な調査が必要です。保険金をお支払いできるかどうかは、後日ご連絡させていただきます」
電話を切ると、保は美樹に言った。
「保険が使えるかもしれない」
「本当に……?」
美樹の目に、わずかな希望の光が灯った。
でも、保は知っていた。
たとえ保険が下りたとしても、それは金銭の問題でしかない。
佐々木さんの腕は、元に戻らない。
療育士としての仕事も、続けられないかもしれない。
その罪は、消えない。
午後、ゆらり三沢事業所から電話があった。山口施設長からだった。
「田中さん……訴状のこと、お聞きしました」
山口の声は沈んでいた。
「私たちも、本当に……申し訳ございません」
「いえ、施設のせいでは……」
保は言った。
「美保を預けた、俺たちの責任です」
「田中さん、一つお伝えしなければならないことがあります」
山口は続けた。
「ゆらり本部と顧問弁護士が協議した結果……施設としても、田中さんご夫妻に対して、損害賠償請求を行うことになりました」
保の膝から力が抜けた。
「職員の安全管理、施設運営への影響、そして他の保護者様からの不安の声……本部としては、法的な対応を取らざるを得ないという判断です」
保は何も言えなかった。
「私個人としては……本当に申し訳なく思っています」
山口の声は震えていた。
電話を切ると、保は床に座り込んだ。
「どうしたの?」
美樹がリビングから出てきた。
保は顔を上げられなかった。
「施設からも……訴えられる」
「え……」
美樹の声が震えた。
「ゆらりが……私たちを……?」
保は頷いた。
美樹は壁に手をついて、身体を支えた。
「そんな……あんなに優しくしてくれたのに……」
「仕方ないんだよ」
保は絞り出すように言った。
「施設だって、他の子供たちを預かってる。保護者から不安の声が出れば、対応せざるを得ない」
「でも……」
美樹は膝をつき、床に手をついた。
「じゃあ、二つ……二つも訴えられるの?」
保は答えられなかった。
数日後、ゆらり本部からの訴状が届いた。
請求金額——八百万円。
『事故によって施設の評判が著しく損なわれ、利用者が減少した。また、職員の精神的ケアや安全対策の強化に多大な費用を要した』
合計で、三千三百万円。
保は訴状を持ったまま、動けなくなった。
三千三百万円。
たとえ保険が全額下りたとしても、弁護士費用、裁判費用がかかる。
そして、精神的な負担。
保は深く息を吐いた。
美樹に見せると、妻は何も言わず、ただ訴状を見つめていた。
「私たち……どうなるの?」
美樹が震える声で聞いた。
保は答えられなかった。
隣の部屋では、美保が床に座って、ぬいぐるみを抱いていた。
その小さな背中を見つめながら、保は思った。
この子のために、あんなに必死になって、受け入れ先を探した。
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