だから

あさき のぞみ

文字の大きさ
8 / 17

崩壊

しおりを挟む
訴状が届いてから、家の空気が変わった。
保と美樹が交わす言葉は、美保のことと裁判のことだけになった。
「明日、法テラスに相談に行く」
「美保のおむつ、買っておいて」
「弁護士から連絡があった」
「美保、また夜泣きした」
それ以外の会話は、なくなった。
美樹の表情も変わっていた。以前は、疲れていても笑顔を見せることがあった。でも今は、常に何かに追われているような、緊張した表情をしている。
そして——美樹の身体にも、異変が現れ始めていた。
生理が来なくなった。
最初は気づかなかった。ストレスで遅れているだけだと思っていた。
でも、一ヶ月、二ヶ月と来ない。
妊娠ではない。検査薬で確認した。
ただ、止まってしまったのだ。
そして、生理前のような症状だけが残った。イライラ、頭痛、倦怠感。
些細なことで怒りが爆発するようになった。
「なんでそこに置くの!」
保が美保の着替えをテーブルに置いただけで、美樹が声を荒げた。
「ごめん……」
保は謝ったが、美樹はそっぽを向いた。
別の日、保が仕事から帰ると、美樹がリビングで泣いていた。
「どうした?」
「わからない……わからないの……」
美樹は顔を覆った。
「何もかもうまくいかない。美保は言うこと聞かないし、家事も終わらないし、お金もないし、裁判もあって……」
美樹の声は、もはや叫びに近かった。
「もう、無理なの! 私、もう無理!」
保は妻の隣に座った。
「疲れてるんだよ。少し休んだら?」
「休めるわけないでしょ!」
美樹が叫んだ。
「美保がいるのに、どうやって休むの? あなたは仕事に行けば外に出られるけど、私はずっと家にいるの。ずっと美保と二人きりなの!」
保は何も言えなかった。
美樹は続けた。
「ゆらりにも行けなくなった。他に行く場所もない。児童相談所は施設入所を勧めるけど、そんなこと……できるわけない……」
美樹は崩れるように、ソファに倒れ込んだ。
その夜、美樹が小さく言った。
「生理、来ない」
保は顔を上げた。
「え?」
「もう二ヶ月来てない。その前も不順で……」
美樹は自分の腹部に手を当てた。
「妊娠じゃないのはわかってる。検査薬も使ったし。たぶん、ストレスで……」
保は何も言えなかった。
「最近、生理前みたいな症状がずっと続いてて……自分でもわかるくらいイライラするの。些細なことで怒鳴りたくなる。あなたにも、美保にも」
美樹は涙を拭った。
「婦人科に行った方がいいかな……でも、そんな時間もお金も……」
保は妻の肩を抱こうとしたが、美樹は身体を引いた。
「触らないで……今は……」
保は手を引っ込めた。
美樹の心は、少しずつ壊れていった。
夜、美保が眠った後、美樹は一人でリビングに座っていた。
窓の外を見つめながら、ぼんやりと考えていた。
いつから、こんなふうになったんだろう。
結婚した時、美樹には夢があった。
子どもを産んで、育てて、また仕事に戻る。保と二人で、週末には外食したり、映画を見に行ったり。年に一度は旅行にも行きたい。
普通の、幸せな家庭。
それが、美樹の描いていた未来だった。
でも、美保が生まれて、すべてが変わった。
美保を愛していないわけじゃない。むしろ、愛している。この子のためなら、何でもしたいと思っていた。
でも——。
美樹は自分の手を見た。
荒れた手。美保の世話で、水仕事ばかりしているから。
爪も短く切っている。美保が癇癪を起こした時、引っ掻かれないように。
鏡を見ると、別人のような顔があった。
目の下のクマ。痩せた頬。白髪も増えた。
まだ三十歳なのに。
美樹は目を閉じた。
もし、美保がいなかったら——。
そう思ってしまう自分がいた。
そして、そう思ってしまう自分を、激しく責めた。
「私、ダメな母親だ……」
美樹は呟いた。
でも、心の奥底では、もう一つの声が囁いていた。
「もう、限界だ」
ある日の朝、美樹は美保に朝食を食べさせていた。
美保は口を開けない。スプーンを持っていっても、顔を背ける。
「美保、食べて」
美樹は優しく言った。
でも、美保は食べない。
「お願い、食べて」
美樹の声が、少し強くなった。
美保は、テーブルの上の皿を手で払った。
皿が床に落ちて、割れた。ご飯が散らばった。
「美保!」
美樹が叫んだ。
美保は、泣き出した。
「うああああ!」
美樹は美保を抱き上げようとしたが、美保は暴れた。
「美保、やめて! お願い、やめて!」
美樹は美保の腕を掴んだ。強く、掴んだ。
美保は泣き叫び続けた。
美樹も、泣いていた。
「お願い……お願いだから……」
美樹の手が、美保の腕を強く握りしめていた。
美保の腕に、赤い跡がついた。
「あっ……」
美樹は慌てて手を離した。
美保は床に座り込んで、泣き続けた。
美樹は自分の手を見た。
この手が、美保を傷つけた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
美樹は美保を抱きしめた。
でも、美保は泣き止まなかった。
その日から、美保の身体に異変が現れ始めた。
アトピーが悪化した。
以前は軽度だったが、急激に悪くなった。首、腕、膝の裏。赤く腫れ上がり、掻きむしって血が出た。
「美保、掻いちゃダメ!」
美樹は美保の手を押さえた。
でも、美保は掻くのをやめなかった。
夜も、無意識に掻いている。朝起きると、シーツに血がついていた。
皮膚科に連れて行った。
「ストレスですね」
医師は言った。
「環境の変化とか、何かありましたか?」
美樹は答えられなかった。
施設に行けなくなったこと。母親が常にイライラしていること。家の中の緊張した空気。
すべてが、美保にストレスを与えていた。
「ステロイドを処方します。でも、根本的には環境を整えることが大切です」
医師の言葉が、美樹の胸に刺さった。
環境を整える。
どうやって。
家に帰ると、美樹は美保に薬を塗った。
美保は嫌がって、暴れた。
「美保、我慢して」
美樹は美保を押さえつけて、薬を塗った。
美保は泣いた。
美樹も、泣きたかった。
夜、保が帰ってくると、美樹は疲れ果てた顔で座っていた。
「美保、アトピーが悪化してる」
美樹が言った。
「見せて」
保は美保の腕を見た。赤く腫れて、掻き壊した跡がある。
「ストレスだって、医者が言ってた」
美樹は続けた。
「施設に行けなくなったから。家にずっといるから」
保は何も言えなかった。
「そして……」
美樹は自分の手を見た。
「私が、美保を抑えつけすぎてるから」
「美樹……」
「私、ダメな母親なの。美保にストレス与えて、身体壊して」
美樹は泣き出した。
「もう……どうしたらいいのかわからない」
保は妻を抱きしめた。
美樹の身体は、驚くほど痩せていた。
「病院、行こう」
保が言った。
「婦人科も、心療内科も。美樹の身体が一番大事だ」
美樹は保の胸で泣いた。
「ありがとう……」
でも、美樹の心の奥底では、もう一つの声が囁いていた。
「もう、遅い」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

明治かんなぎ少女の冥契 五百年の時を超えて、あなたに愛を

花籠しずく
キャラ文芸
 ――ですが、わたくしは生まれました。あなたに会うために。  月のものが来るようになってから、琥珀は不思議な夢を見る。誰かに探されている夢。きっと大切な人だったことは分かるのに、目が覚めると朧気で何も思い出せない。婚約者である志貴の言いなりの人形になる生活をし、生家とは会うと脅され、心が疲弊していたある日、家からひとり抜け出すと、妖魔のようなものに出会う。呪術師である志貴に、一時祓ってもらいはしたが、不思議と心が痛む。夢に美しい男が現れ、声に導かれるようにして、ある山のふもとの、廃れた神社の中に入ると、そこには苦しそうに蹲るあの妖魔がいた。琥珀はそれが夢に現れた、蘿月という男だと直感する。全身が黒い靄で包まれた彼の、靄を払う方法を、どうしてか琥珀は知っていた。口づけをし、息を吹き込むように、生きて、と願った。  帰ってすぐに志貴に殴られ、月のものがはじまっていたことが志貴にばれる。琥珀を穢そうとする志貴の様子に恐ろしさを覚えて、助けてと叫んだその瞬間、闇を裂くようにして、蘿月が現れた。 「琥珀は、俺が五百年待ち望んだ花嫁だ」  これは、時を超えて紡がれる愛の物語。そして虐げられた少女が、愛を知り、愛のために生きる自由を選ぶ物語。 ※R-15っぽいゆるい性描写があります。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

処理中です...