だから

あさき のぞみ

文字の大きさ
10 / 17

静かな朝

しおりを挟む
ある夜、保と美樹は久しぶりに二人で話をした。
美保が眠った後、リビングで向かい合って座った。
「美樹、大丈夫か?」
保が聞いた。
美樹は首を横に振った。
「大丈夫じゃない……もう、限界かもしれない」
「俺も……限界に近い」
保は正直に言った。
「仕事も、失いそうだ」
美樹は顔を上げた。
「え……」
「休職を勧められてる。実質的には、退職勧奨だ」
保は続けた。
「でも、仕事を失ったら、もう……」
二人は黙り込んだ。
しばらくして、美樹が小さく言った。
「保さん……私、もう……」
美樹は言葉を詰まらせた。
「母親として、失格なのかもしれない」
「そんなことない」
保は慌てて言った。
「美樹は、誰よりも頑張ってる」
「でも……」
美樹は涙を流した。
「最近、考えちゃうの。もし、美保がいなかったらって」
保は息を飲んだ。
「そんなこと考える自分が、嫌で嫌でたまらない。でも、考えちゃうの」
美樹は顔を覆った。
「私、ダメな母親だ……」
保は美樹を抱きしめた。
「美樹はダメじゃない。俺たちは、ただ疲れてるだけだ」
「疲れてるだけ……?」
美樹は保を見た。
「本当に、それだけ?」
保は答えられなかった。
その夜、二人は寄り添って眠った。
でも、美樹の心は、もう決まっていた。
次の日の朝、保は目覚ましで起きた。
いつもの時間。朝六時半。
隣を見ると、美樹はいなかった。
「もう起きたのか……」
保はゆっくりと起き上がった。
リビングに行くと、静かだった。
「美樹?」
返事がない。
キッチンを覗いた。誰もいない。
「美樹?」
もう一度呼んだ。やはり返事がない。
保の胸に、嫌な予感が走った。
トイレのドアを確認した。開いている。中には誰もいなかった。
美保の部屋へ急いだ。
美保は布団の中で眠っていた。いつものように、ぬいぐるみを抱きしめて。
でも、美樹の姿はなかった。
「美樹!」
保は家中を探した。
寝室、リビング、キッチン、風呂場、トイレ。
どこにもいなかった。
玄関に行くと、美樹の靴がなかった。
「どこ行ったんだ……」
保はスマートフォンを取り出して、美樹に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回。
「お客様がおかけになった電話は、電源が入っていないか……」
アナウンスが流れた。
保の手が震えた。
リビングに戻ると、テーブルの上に、何かが置かれていた。
スーパーの特売チラシを裏返した紙。
そこに、美樹の文字で書かれていた。
『ごめんなさい。
保さん、美保をお願い。
私はもう、母親でいられません。
こんな形で逃げ出して、本当にごめんなさい。
美保、ごめんね。ママは弱い人間でした。
二人とも、幸せになってください。
美樹』
保の身体から、血の気が引いた。
「美樹……」
スマートフォンを握りしめた。もう一度電話をかけた。
やはり、電源が切られている。
保は紙を持ったまま、その場に立ち尽くした。
保は必死に考えた。
美樹は、どこへ行ったのか。
実家か。でも、美樹の両親は既に他界している。
友人の家か。でも、最近美樹は誰とも会っていなかった。
それとも——。
保の頭に、最悪の想像が浮かんだ。
「違う……そんなはずない……」
保は慌てて着替えた。
美保はまだ眠っている。起こすわけにはいかない。
保は児童相談所に電話をかけた。
「もしもし、田中です。緊急でお願いがあります。妻が朝からいなくなって……娘を一時的に預かっていただけないでしょうか」
中村相談員が出た。
「わかりました。すぐに職員を向かわせます」
三十分後、児童相談所の職員が美保を迎えに来た。
保は職員に頭を下げた。
「お願いします」
そして、車に飛び乗った。
美樹を探さなければ。
保は車を走らせた。
駅、スーパー、公園。
美樹がよく行く場所を、片っ端から探した。
でも、どこにも美樹の姿はなかった。
保は警察に電話をかけた。
「妻が今朝から行方不明で……」
「今朝からですか。何か事件性はありますか」
「わかりません……ただ、置き手紙があって……」
保はメモの内容を伝えた。
警察官は少し黙った後、言った。
「わかりました。捜索願を出してください。ただ、成人の失踪の場合、すぐに大規模な捜索を開始できるとは限りませんが……」
保は必死に頼んだ。
「お願いします……妻は、精神的に追い詰められていて……」
「わかりました。できる限りのことをします」
保が車で探し回っている間、美樹は市の西側にある鹿島山にいた。
標高五百メートルほどの、小さな山。
家から車で三十分の距離。
美樹は登山道を歩いていた。
朝の五時に家を出た。
保が起きる前に。
美保に最後の別れを告げることもできなかった。
顔を見たら、決心が揺らぐから。
美樹は黙々と歩いた。
登山道には、誰もいなかった。
十五分ほど登ったところで、美樹は立ち止まった。
大きな楓の木があった。
太い枝が、横に伸びている。
美樹はリュックから、ロープを取り出した。
昨日、ホームセンターで買った。
店員に不思議そうな顔をされたが、気にしなかった。
美樹はロープを枝にかけた。
手が震えた。
本当に、これでいいのか。
美樹は目を閉じた。
保の顔が浮かんだ。
優しい人だった。いつも、美樹を支えてくれた。
でも、もう無理だった。
美保の顔が浮かんだ。
小さな顔。無表情だけど、確かに生きている顔。
「ごめんね、美保」
美樹は呟いた。
「ママは、弱い人間だった」
美樹はロープに首をかけた。
そして——。
足を、踏み出した。
保が鹿島山に思い至ったのは、正午を過ぎた頃だった。
美樹が以前、「あの山、景色がきれいなんだって」と言っていたことを思い出した。
保は車を走らせた。
鹿島山の駐車場に着くと、美樹の車があった。
保の心臓が跳ねた。
「美樹!」
保は登山道を駆け上がった。
息が切れた。足が痛い。
でも、走り続けた。
「美樹! 美樹!」
叫び続けた。
そして——。
十五分ほど登ったところで、保は見た。
大きな楓の木。
その枝に、ロープがかかっていた。
そして、その下に。
美樹が、倒れていた。
「美樹!」
保は駆け寄った。
美樹の首には、ロープの跡があった。
保は美樹を抱き起こした。
「美樹! 美樹!」
でも、美樹は反応しなかった。
保は必死に心肺蘇生を試みた。
「美樹、頼む! 目を開けてくれ!」
でも、美樹の身体は冷たくなり始めていた。
保はスマートフォンを取り出して、救急車を呼んだ。
「妻が……首を吊って……」
保の声は震えていた。
「すぐに向かいます。今、心肺蘇生を続けてください」
保は必死に胸骨圧迫を続けた。
「美樹……頼む……死なないでくれ……」
でも、美樹は動かなかった。
救急隊が到着したのは、二十分後。
隊員たちは美樹を確認し、顔を見合わせた。
「心肺停止状態です。すぐに搬送します」
美樹は救急車で病院に運ばれた。
保も救急車に同乗した。
美樹の手を握りしめた。
冷たい手。
「美樹……」
保は泣いた。
病院に着いて、医師たちが必死に蘇生を試みた。
でも——。
一時間後、医師が出てきた。
「ご家族の方」
保は立ち上がった。
「残念ですが……」
医師は首を横に振った。
「お亡くなりになりました」
保の膝から、力が抜けた。
「そんな……」
保は床に崩れ落ちた。
「死因は、窒息による心肺停止です。発見時には、既に……」
医師の言葉が、遠くなった。
保の頭の中が、真っ白になった。
美樹が、死んだ。
保は顔を覆った。
「美樹……すまない……」
声を出して泣いた。
「俺が……俺が守れなかった……」
廊下に、保の泣き声が響いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

明治かんなぎ少女の冥契 五百年の時を超えて、あなたに愛を

花籠しずく
キャラ文芸
 ――ですが、わたくしは生まれました。あなたに会うために。  月のものが来るようになってから、琥珀は不思議な夢を見る。誰かに探されている夢。きっと大切な人だったことは分かるのに、目が覚めると朧気で何も思い出せない。婚約者である志貴の言いなりの人形になる生活をし、生家とは会うと脅され、心が疲弊していたある日、家からひとり抜け出すと、妖魔のようなものに出会う。呪術師である志貴に、一時祓ってもらいはしたが、不思議と心が痛む。夢に美しい男が現れ、声に導かれるようにして、ある山のふもとの、廃れた神社の中に入ると、そこには苦しそうに蹲るあの妖魔がいた。琥珀はそれが夢に現れた、蘿月という男だと直感する。全身が黒い靄で包まれた彼の、靄を払う方法を、どうしてか琥珀は知っていた。口づけをし、息を吹き込むように、生きて、と願った。  帰ってすぐに志貴に殴られ、月のものがはじまっていたことが志貴にばれる。琥珀を穢そうとする志貴の様子に恐ろしさを覚えて、助けてと叫んだその瞬間、闇を裂くようにして、蘿月が現れた。 「琥珀は、俺が五百年待ち望んだ花嫁だ」  これは、時を超えて紡がれる愛の物語。そして虐げられた少女が、愛を知り、愛のために生きる自由を選ぶ物語。 ※R-15っぽいゆるい性描写があります。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

処理中です...