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禁書の書架
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この2年のあいだ、ヘイルータンは他人の視線を常に感じていた。寝るときの他にはいつも付きまとっていた。
どうにかしてヘイルータンの粗を探し出そうと、サルヴィアが目を光らせていたのだ。
サルヴィアだけでない。息のかかった者たちが、ヘイルータンのことを監視していることも知っていた。
2年かけても、禁書の書架を探し出せなかったのは、その視線に動きを制約されていたからでもあった。
今日は、その視線を感じない。
周囲に気を配ってみる。
やはり、サルヴィアの監視はなかった。
大魔導師が急に海を見に行きたいと言い出したというから、それでサルヴィアは大魔導師のもとに馳せ参じているのだろう。
このところ大魔導師は、ヘイルータンのことを傍らに置き続けていた。サルヴィアにとっては久しぶりの活躍の場というわけだ。
(今しかない)
と、ヘイルータンは足速にラセン階段を駆け上がった。
ヘイルータンもいつ大魔導師に呼び出されるかわからない。出来れば呼び出される前に、《獣解呪の書》を手にしておきたかった。
ラセン階段の踊り場にある扉を開けると、本を装丁するための革や鋲が保管されている部屋がある。
さらに奥の扉を開けると、今度は表紙を彩るための染料などが置かれた部屋になる。
まだ使われていないまっさらな羊皮紙たちが積み上げられている部屋。まだ文字の彫られていない鉛。文字が彫られた鉛。いろんな種類の筆。……次から次へとヘイルータンは扉を開けて行った。
図書館の魔法による空間転移の路面図は、ヘイルータンの脳裏にたたきこまれていた。ルーン文字を覚えることに比べれば、たやすいことだった。
ひとつ扉を開けるたびに、ダアゴの「もうワシらのことを見限っても良いのじゃ」という声が胸裏によみがえってきた。
同時にテンの「私は魔術師を育てるために、こいつを拾ってきたわけじゃねェんだよ」という声もよみがえった。
そしてついに。
禁書の書架へとたどり着いた。
入口には南京錠がかけられている。そのカギを持つことが許されているのは、大魔導師か大司書だけだった。
もし大司書になる前にこの場所を見つけ出せていたとしても、盗み出すことは出来なかっただろうな、と思う。
ヘイルータンは持っていたカギで、南京錠を開けた。
禁書の書架は、シンと静まり返っていた。滅多に人が足を踏み入れないため、独特な静けさが沈殿していた。
本棚が左右に並べられている。ただそれだけの部屋だ。しかし、ここにある本は怖ろしいものばかりだった。
拷問や処罰のために使われる魔法ばかりなのだ。
図書館の興りであるヒトマル族と、近隣の5大国は100年のあいだ戦争をしていた時期がある。
その時代にヒトマル族が作り上げたものが多いと聞いている。
ヘイルータンは羊皮紙とインクの匂いが好きだった。この部屋の匂いは好きになれなかった。人の血をインクに使っているのではないかと思うほど血なまぐさいのだった。
(これだ……)
《獣解呪の本》を取り出した。
場所の見当は事前につけてあったので、見つけ出すことは容易かった。
その本を手にした瞬間、ヘイルータンは戦慄した。ヘイルータンの手にあるのは、ただの本ではない。
今までヘイルータンが生きてきた意味そのものでもあった。
本をふところにしまいこんだ。
ヘイルータンが着ているのは、図書館規定の服装であり、魔術師の黒衣と呼ばれるものだった。
黒衣には細工が施されてある。本を収納するための隠しポケットを作ったのだ。装丁のための縫い糸や革は、図書館にあったので、簡単に作ることが出来た。
隠しポケットもまた、今日のために用意したものだった。
「良し」
と、思わず声を漏らした。
うっかり声を漏らしてしまって、誰かに聞かれてはいないかとあたりを見渡した。
他には誰もいるはずがなかった。
自分の人生において、大切な役目を通過した。今ならば涙を流すことも出来るのではないか――と思った。
思ったように喜怒哀楽を発露できない自分の顔が、ヘイルータンはいまだにコンプレックスだったのだ。
目を閉ざして涙腺がふくらむのを待った。いっこうに涙の気配はなかった。
もしかするとオレは、とんでもなく冷徹な人間なのかもしれない――とヘイルータンは自虐心を起こした。
いつまでも禁書の書架にとどまっているわけにもいかない。涙は諦めて、さっさと退室してしまうことにした。南京錠をかけなおした。異常がないことを確認して、静かに退室することにした。
「ヘイルータン!」
退室してすぐに声をかけられた。
身構えていなかったので、心臓が軽く跳ねあがった。
声をかけてきたのはマオだった。
「な、なに?」
ヘイルータンの手は無意識に、己のミゾオチあたりをさすっていた。
そこに《獣解呪の書》をしまってある隠しポケットがあるのだった。
「そこでいったい何をしていたニャ?」
「いや。何でもないよ。チョット1人になりたかったから」
「ふぅん。怪しいニャーね」
とマオは前かがみになると、ヘイルータンのことを見上げるようにした。
青く澄みきった双眸を、今は見返すことが出来なかった。
「それよりオレに何か用事?」
活版印刷のさいに使う文字の刻まれた鉛が置かれた部屋だった。
ヘイルータンとマオがいる場所は、棚の奥地であり、ほかに人の気配はなかった。
「大魔導師さまが探していたニャーよ。海を見に行きたいからいっしょに行こうって。あんまり遅れると怒られるニャーよ」
「わかった。教えてくれてありがと」
「安心するニャ。ヘイルータンがここにいたことは、誰にも言わないから」
「もう行くよ」
「あんまり危ないことはしちゃダメにゃーよ」
と、マオはそう言ってきた。
もしかするとマオは、ヘイルータンが何をしようとしているのか、察しているのかもしれない。
どうにかしてヘイルータンの粗を探し出そうと、サルヴィアが目を光らせていたのだ。
サルヴィアだけでない。息のかかった者たちが、ヘイルータンのことを監視していることも知っていた。
2年かけても、禁書の書架を探し出せなかったのは、その視線に動きを制約されていたからでもあった。
今日は、その視線を感じない。
周囲に気を配ってみる。
やはり、サルヴィアの監視はなかった。
大魔導師が急に海を見に行きたいと言い出したというから、それでサルヴィアは大魔導師のもとに馳せ参じているのだろう。
このところ大魔導師は、ヘイルータンのことを傍らに置き続けていた。サルヴィアにとっては久しぶりの活躍の場というわけだ。
(今しかない)
と、ヘイルータンは足速にラセン階段を駆け上がった。
ヘイルータンもいつ大魔導師に呼び出されるかわからない。出来れば呼び出される前に、《獣解呪の書》を手にしておきたかった。
ラセン階段の踊り場にある扉を開けると、本を装丁するための革や鋲が保管されている部屋がある。
さらに奥の扉を開けると、今度は表紙を彩るための染料などが置かれた部屋になる。
まだ使われていないまっさらな羊皮紙たちが積み上げられている部屋。まだ文字の彫られていない鉛。文字が彫られた鉛。いろんな種類の筆。……次から次へとヘイルータンは扉を開けて行った。
図書館の魔法による空間転移の路面図は、ヘイルータンの脳裏にたたきこまれていた。ルーン文字を覚えることに比べれば、たやすいことだった。
ひとつ扉を開けるたびに、ダアゴの「もうワシらのことを見限っても良いのじゃ」という声が胸裏によみがえってきた。
同時にテンの「私は魔術師を育てるために、こいつを拾ってきたわけじゃねェんだよ」という声もよみがえった。
そしてついに。
禁書の書架へとたどり着いた。
入口には南京錠がかけられている。そのカギを持つことが許されているのは、大魔導師か大司書だけだった。
もし大司書になる前にこの場所を見つけ出せていたとしても、盗み出すことは出来なかっただろうな、と思う。
ヘイルータンは持っていたカギで、南京錠を開けた。
禁書の書架は、シンと静まり返っていた。滅多に人が足を踏み入れないため、独特な静けさが沈殿していた。
本棚が左右に並べられている。ただそれだけの部屋だ。しかし、ここにある本は怖ろしいものばかりだった。
拷問や処罰のために使われる魔法ばかりなのだ。
図書館の興りであるヒトマル族と、近隣の5大国は100年のあいだ戦争をしていた時期がある。
その時代にヒトマル族が作り上げたものが多いと聞いている。
ヘイルータンは羊皮紙とインクの匂いが好きだった。この部屋の匂いは好きになれなかった。人の血をインクに使っているのではないかと思うほど血なまぐさいのだった。
(これだ……)
《獣解呪の本》を取り出した。
場所の見当は事前につけてあったので、見つけ出すことは容易かった。
その本を手にした瞬間、ヘイルータンは戦慄した。ヘイルータンの手にあるのは、ただの本ではない。
今までヘイルータンが生きてきた意味そのものでもあった。
本をふところにしまいこんだ。
ヘイルータンが着ているのは、図書館規定の服装であり、魔術師の黒衣と呼ばれるものだった。
黒衣には細工が施されてある。本を収納するための隠しポケットを作ったのだ。装丁のための縫い糸や革は、図書館にあったので、簡単に作ることが出来た。
隠しポケットもまた、今日のために用意したものだった。
「良し」
と、思わず声を漏らした。
うっかり声を漏らしてしまって、誰かに聞かれてはいないかとあたりを見渡した。
他には誰もいるはずがなかった。
自分の人生において、大切な役目を通過した。今ならば涙を流すことも出来るのではないか――と思った。
思ったように喜怒哀楽を発露できない自分の顔が、ヘイルータンはいまだにコンプレックスだったのだ。
目を閉ざして涙腺がふくらむのを待った。いっこうに涙の気配はなかった。
もしかするとオレは、とんでもなく冷徹な人間なのかもしれない――とヘイルータンは自虐心を起こした。
いつまでも禁書の書架にとどまっているわけにもいかない。涙は諦めて、さっさと退室してしまうことにした。南京錠をかけなおした。異常がないことを確認して、静かに退室することにした。
「ヘイルータン!」
退室してすぐに声をかけられた。
身構えていなかったので、心臓が軽く跳ねあがった。
声をかけてきたのはマオだった。
「な、なに?」
ヘイルータンの手は無意識に、己のミゾオチあたりをさすっていた。
そこに《獣解呪の書》をしまってある隠しポケットがあるのだった。
「そこでいったい何をしていたニャ?」
「いや。何でもないよ。チョット1人になりたかったから」
「ふぅん。怪しいニャーね」
とマオは前かがみになると、ヘイルータンのことを見上げるようにした。
青く澄みきった双眸を、今は見返すことが出来なかった。
「それよりオレに何か用事?」
活版印刷のさいに使う文字の刻まれた鉛が置かれた部屋だった。
ヘイルータンとマオがいる場所は、棚の奥地であり、ほかに人の気配はなかった。
「大魔導師さまが探していたニャーよ。海を見に行きたいからいっしょに行こうって。あんまり遅れると怒られるニャーよ」
「わかった。教えてくれてありがと」
「安心するニャ。ヘイルータンがここにいたことは、誰にも言わないから」
「もう行くよ」
「あんまり危ないことはしちゃダメにゃーよ」
と、マオはそう言ってきた。
もしかするとマオは、ヘイルータンが何をしようとしているのか、察しているのかもしれない。
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