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境界の町の特別な日 2

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 西の燃え立つような残滓は藍色に塗りつぶされた。
 藍に染まった空に星が静かに瞬き、雨音のような夏虫のラブソングに鈴を鳴らして共演する。
 緩い風がささめくような葉音を響かせて通り抜けた。
 早めの夕食を済ませて昼間の汗を流すと湯上りに袖を通したのは――藍色に大輪の赤い撫子を描いた――母が菜月のために仕立てた浴衣。

「はい、出来上がりです」

 背中で赤い帯を整えてタキさんが柔らかく頬を緩める。
 浴衣の後姿を彩るのは花文庫。
 菜月は姿見に映る姿が別人のようで面映ゆい。

「――自分じゃないみたい」

 ぎこちない笑顔に「よくお似合いです」とタキさんに後ろから肩を撫でられてますます頬を染めた。

「すっかりお年頃のお嬢さんですもの」

 まるで孫を見るように嬉しそうに目を細める。

「お母さんもこんな浴衣を着てたの?」
「もちろんです。黄泉寺の縁日は揃って浴衣を着ますから。いつか菜月さんにこの浴衣を着てほしいと思いながら仕立てたんでしょうね」
「……こうなることを分かってたみたい」

 ちりんと風鈴。息を潜めるように虫の声が止んだ。
 束の間に広がった重たい沈黙。

「――たぶん、分かっていたんじゃないかと思います」
 菜月の声にタキさんが苦いものかみしめるようにつぶやく。

「ウブメってなに?」
(正太郎もウブメの子って……?)

 問い返すとほんの少し困ったように眉根を寄せて教えてくれた。
 ウブメ――は難産で亡くなった女性がなるというあやかしだという。
 幽霊となって我が子を育て、人に託して旅立つのだと。

「私のお母さんも、ウブメだったの?」
「勝間はウブメの血筋ですから」

 写真立ての中で笑う母の思い出は記憶にない。
 あるのはあの夢――お祭りの帰り道で見た後姿。
 それを伝えるとタキさんは嬉しそうに表情を崩す。

「それはきっと黄泉寺の縁日でしょうね。菜月さんが小さい頃にお父様と行かれましたでしょ?」

 夏休みに九十九町ここに来るたびに縁日に連れて行ってもらった覚えはある。
 そこで母に会ったかと問われると記憶がおぼろげだ。

「小さい頃の菜月さんは夜は疲れて夢の中でしたものね」

 ぬいぐるみを抱えてトンボとりや水遊びに夢中になった覚えがある。
 背負われた記憶が本物の記憶なのかは曖昧だ。
(夢なのかもしれないし……)

「でも、ずっと会っていないのに気付いてもらえるかな」

 母に会えると聞かされた時からずっと抱えていた不安が口を突いて出た。

「大丈夫です」

 鏡の前に座らせて菜月の髪を櫛で梳きながら、小さく笑う。

「撫子は『愛しい子』という意味があるんですよ」

 立たせて帯をもう一度綺麗に整えると、支度を終えた。
 うながされて居間に戻ると座卓の前で茶を啜る正太郎――縁日に行かないのでいつもの着物姿だ。
 懐かしそうに目を見張って、すぐに口元を引き締めた。

「へぇ……馬子にも衣装だな」
じゃない」

 菜月の間違いを修正することなく口元を緩めて持ち上げた湯呑を傾け、茶を啜る。

「――親子だな」
「菜月、みてみて~」

 ぼそりとつぶやいた正太郎の声に上書きするような元気な声。
 栗色の髪の毛を揺らして両手を広げてくるりと回るのはアカリ。
 白地に水色で描いた波紋に赤や黒の金魚が泳ぐ柄。
 背中で揺れる尻尾のような兵児帯がふわりと揺れる。

「アカリは金魚ちゃん!」

 足元に纏わりついて褒めろと催促してくるアカリに頬を緩めた。
 菜月に妹がいたらこんな感じかもしれない。

「うん、かわいいよ」

 褒めてやるととろけそうな笑顔で座卓の周りスキップして跳ねまわる。

「……さっきからウロウロと鬱陶しい」

「アカリはかわいいんだもん!」

 性別はよく分からないが、熊のヌイグルミの付喪で見た目は女の子。
 かわいいと褒められればうれしいだろう。

「正太郎は女心が分からないんでしょうね。まったく宝の持ち腐れです」
「――興味がないだけだ」

 もはや定番となりつつあるタキさんの小言にため息を落とす。

「心配ねぇよ、正太郎はオレがヨメにもらってやる」

 宣言して勢いよく襖を引き開けて入って来たのは――河野。
 すかさず正太郎の隣を陣取ってぐっと肩を引き寄せる。

「――っ!」

 あやうく茶をこぼしそうになって慌てて湯呑を座卓に戻してほえた。

「なんで俺がカッパの嫁にならなきゃならん!」
「オレと正太郎の仲じゃねぇか。今こそ河野家伝来の秘儀を試す時だ。安心しろ優しく手ほどき――あだっ!」

 年ごろのお姉さまのハートをぶち抜くような笑顔の河野に拳を落とす。

「阿呆!」

 座布団をずらして距離を置くとわざとらしく咳払いをして襟元を直す。

「ケチ! ちょっと試すくらいいいじゃねぇか!」
「お前の実験台になる気はないっ!」

 河野は白地に細縞を描いた浴衣。嫌味でなく似合っている。
 素朴な疑問。

「――白じゃないの?」
「……あやかしを勝手に死人しびとにすんじゃねぇ」

 河野にじっとりにらまれた。確かに違う。

「あやかしはどちらにも属しないという意味で白地に柄を描いた浴衣を着るんですよ」

 なるほど。確かに人間でも死人でもない。

「正太郎は年中、紺の着物だな。白い肌に映えて――」

 なにを考えているのかニヤついて手を伸ばす河野の顎を押し退けた。

「境界守は仕事ができれば色は関係ない」

 暑苦しい。とにらみ付けて絡んでくる河野の腕を引っ剥がす。

「――菜月に手を出すなよ」
「出すか。オレは正太郎一筋だ」

 清々しい笑顔で胸を張る。そういう問題ではない。

「それから、お守りだ」

 正太郎が袖を探って取り出したのは小さな根付。
 広げた菜月の手のひらに乗せた。
 銀色の鈴の付いた赤いガラス玉。
 白いトンボが絵付けされている。

「トンボだ、かわいい」
「へぇ、正太郎は勝間のオトンボだからシャレみたいなもんだな」
「オトンボ?」
(なんだろ、トンボを丁寧に言ったってこと?)

 意味が分からず小首を傾げた。
 正太郎の説明では「オトンボ」は旅館の跡継ぎを示す「末の男の子」という意味らしい。
 確かに正太郎は母の弟だ。
 そういえばアキツもトンボの意味だ。

「菜月は末の子でも男の子でもないから境界守になれない。……というよりそんなことをしたら姉さんが怒り狂ってあの世から戻ってきそうだ」

 正太郎が肩をすくめて苦笑する。

「ちゃんと身に付けてろ。間違って連れて行かれても戻って来られるようにするためのお守りだからな」

 指先で摘まみ上げて首をひねった。というか困った。
(これって、どうやって身につけるの?)
 菜月が首をひねっているとタキさんが小さな小銭入れを差し出してくれる。

「これに結わえ付けて帯に挟むとよろしいんですよ」

 いそいそと小さな小銭入れに結わえ付けて帯に挟み込んだ。
 動くたびにちりんと鈴が鳴る。

「お札もちゃんと持ったか? 出かけるぞ」

 河野に促されてお寺に納めるお札と提灯を受け取って連れ立って出発した。

※※
縁日、たどり着けませんでした。( ̄▽ ̄;)
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