俺の上司は完璧な恋人

豆ちよこ

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理想と現実の狭間 (野崎)

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 来た事も無い土地の歩いた事も無い道を、背筋を伸ばして無心になって歩く。只々真っ直ぐに。顔を上げてひたすら歩く。

 『また月曜に』

 そう告げて部下の部屋から出た。
 単身者向けのマンションは、駅からだいぶ離れた場所にあるらしい。歩けど歩けど住宅地ばかりで、一向に駅らしい物が見えてこない。
 住宅街の静けさと擦れ違う人の少なさに、今日が土曜の朝だと実感する。
 黙々と歩き回って時間の感覚もなくなった頃、ようやく車が往来する通りまで出た。
 丁度良く空車のタクシーが拾えたので、乗り込んで自宅マンション迄の住所を告げる。

「お客さん、それならすぐそこだよ。歩いても行けるけどいいの?」

「え?」

 運転手にそう言われ周りを見渡すと、見覚えのあるスーパーが目に入った。
 確かにあと5分も歩けば自宅まで辿り着く近所だ。こんな目の鼻の先まで辿り着いていたのにも気付かないなんて、本当にどうしようもない。
 運転手に謝ってタクシーは断り、歩いて自宅迄の道を急いだ。
 程なく見慣れた外観のマンションが見えて来て、ほっとした途端に歩き疲れた足が痛みだす。どうやら随分長い間歩き回っていたらしい。
 朝早く出たはずが、太陽はもうすぐ真上に来ようとしていた。
 

 エントランスのオートロックを解除し管理人室を一瞥すると、毎日顔を合わせる初老の管理人が軽く会釈をしてくれた。習慣で会釈をし返してからエレベーターへ乗り込んだ。
 階数表示盤の数字が上がるのをぼんやりと見ている内に、記憶の蓋が少しづつ開いていく。嫌な感じに胸がざわついて、思わず頭を振って蘇りそうな記憶を追い払う。早く部屋に帰りたい。
 
 エレベーターを降りてから足早に部屋へと向かう。
 後ろ手にドアを閉め、ようやく肩の力を抜いた。
 途端に膝が震え出し、ふらふらとその場にへたり込む。腰が抜けた様に動けない。両手で顔を覆い大きく深呼吸した。
 抜けきれなかった酒の匂いが鼻を突く。いったい自分は何をしているのか…。

「かわいい……、だって?」

 今朝、部下に言われた言葉を思い出していた。

 家族以外にあんな事を言われたのは初めてだ。狼狽えてみっともない顔をしてしまった気がする。変に思われてなければいい。
 ……いや。もう遅いか。


 浅沼晋一郎。入社3年目のやたらとガタイのいい男だ。学生時代は柔道部だったらしい。体育会系のガサツで無神経な脳筋かと思えば、人当たりよく親切で、以外と気の利くムードメーカーだった。おまけにバカが付く程世話焼きで気配り上手。

「酔い潰れた上司なんか、放っておけばいいものを…」

 わざわざ自宅迄連れ帰り、ベッドまで明け渡すとは、どこまでお人好しなんだ。

「それに何だよ。スーツを吊るして靴まで揃えておくなんて…。お前はどこの嫁だってーの」

 浅沼が自分の部下として配属された時から、気になって仕方無かった。
 …もろ好みのタイプだったからだ。

 俺はゲイだ。認めたくはないが間違いなくそうだろう。
 昔から目を惹くのは体格のいい男だった。初恋は高校の体育教師。ラグビー部の顧問を務める、肩幅の逞しい先生だった。こっそり眺めて高校卒業と同時に初恋も卒業した。
 大学3年目、野球部の副部長をしていた友人に長い事片想いした挙げ句、狂しい想いに堪えきれず気持ちを打ち明け、こっ酷く振られ人生最大の汚点を残した。
 以来、恋だの愛だのからは遠退いた。というか諦めた。せいぜい頭の中で妄想するのが関の山。好みの男をひっそりと眺め満足する。そうやってこの数年、理想と現実を切り離して生きてきた。
 なのに…。浅沼と出会ってしまってから俺はおかしい。叶うはずもない夢をみてしまう。

 俺の理想が目の前に現れた。
 そりゃ夢だってみるよ。

 服の上からでもわかる筋肉質な身体。逞しい上腕筋。清潔感のある短い頭髪に人懐こい笑顔。ちょっとタレ目なところなんか、見ているだけでドキドキする。キリッとした眉を下げて、フニャと笑う顔は可愛くて大好きだ。襟元から覗く大きな喉仏がエロティックで、時々理性を飛ばしそうになる。男らしい肩幅、広い背中、分厚い胸板。どれも心臓に悪すぎる。
 それに加えてあの性格だ。

「そんなの……。好きにならない訳、ないじゃないか」

 それでも、見てるだけでいい。上司と部下として、側にいられるだけでいいんだ。他に何も望まない。
 そう決めていたはずなのに。

「夢なら…、よかった」

 ふわふわとした酩酊感の中、ふと目を覚ますと目の前に浅沼がいた。
 あの、フニャッとした大好きな笑顔で、俺を上から覗き込んでいた。
 ネクタイを外されスラックスを脱がされて、ぼんやりとその姿を追っている内に「ああ、夢か…。夢だから、浅沼は俺を抱いてくれるのか」そう思った。
 それなのに、俺を置いて離れて行ってしまう。
 どうして…? やっぱり男じゃ駄目なのか。それとも俺がお前の上司だから?
 どうにか引き止めたくて、好きだと言った。押し倒して縋り付き、訳の分からない言葉を吐き出すその唇を塞いだ。
 浅沼が何を言っていたのかはよく覚えてないが、唇と舌の感触は払っても払っても拭えない。
 あれが……本当に夢?
 いや。夢である訳がない。


「キスなんて……、した事もないのに」

 感触が残る唇に、自分の骨張った指で触れてみる。
 こんなんじゃない。もっと柔らかくて湿っていて…、もっと熱かった。
 ブルっと身体が震えた。下半身に血が集まっていく。いけない。このままじゃ更に浅沼を汚してしまう。
 のろのろと立ち上がり部屋の中へ進む。スーツを脱ぎ捨て、ソファにごろっと横になった。
 何でこんな事になったのか、昨夜の記憶を辿ってみた。


 昨夜は得意先の担当課長の接待だった。
 無類の女好きだからと、綺麗どころの揃っている店を選び2、3件梯子させられた。何度か接待をさせられた経験上、そこまでは想定の範囲内。
 だが最後に行ったキャバクラで、浅沼の隣に付いたキャバ嬢が、やたらと浅沼に引っ付くのが目障りで冷静さを欠いた。腕を絡め、自慢らしい大きな乳を肘に押し付けて、バカみたいに騒ぐもんだからイライラした。浅沼も浅沼だ。キャバ嬢の乳ばかり覗き込みやがって。鼻の下をデレデレと伸ばして満更でも無さそうにしていた。所詮ノンケはこれだからと、腹立ち紛れに酒ばかり煽ったのがいけなかった。
 店を出て件の課長をタクシーに押し込み、お疲れ様でしたと、頭を下げた迄ははっきりと記憶にある。
 その後は、……あの夢だ。
 浅沼に跨って、何か言っているあいつの口を塞いでて……。
 その後の記憶はなく、目が覚めたら朝で、宿酔いの怠さと頭痛に頭を抱えた。
 それから夢に見た事を思い出し、知らない部屋にいる事に驚いた。
 慌ててそこを出ると、綺麗に整った小さなキッチンの隅で、膝を抱えるように蹲る浅沼を見付けた。
 具合が悪く倒れているんじゃないかと、声を掛け起こし手を伸ばすと、俺の手を避けるように顔を引き吊らせ、身体ごと怯えるように逃げた。

 自分は何か、とんでもない事をしたのだと思った。
 寒くはないかと問われ、Yシャツ一枚だけの己の姿を自覚して、恥ずかしさと恐怖心が一気に膨らんだ。
 夢だとばかり思ったあれが、現実の出来事なのではないのか、と。

 その後は、逃げるように浅沼へ暇を告げて部屋を出た。
 俺は最低だ。
 勝手に女にヤキモチを焼き深酔いした挙げ句、親切にも介抱してくれた部下を襲ってしまった。

「ああぁぁ……っ! くそっ」
 
 口汚く罵ってくれたらいいものを。あの気の優しい部下は、最後まで「何もないっす」と、いつもと変わらぬ人懐こい笑顔をみせてくれた。
 
 『何も無かった』と言い張る浅沼に、本当はお前を襲ったんじゃないか、等と聞く勇気は無かった。
 浅沼にしてみたら、男の上司に襲われたなどと不名誉な事だ。もしかしたら消せないトラウマを植え付けてしまったかもしれない。
 何も無かったと言うのならそれでもいい。きっと無かった事にしたいのだろう。
 もう自分の出来る事は、仕事で浅沼をサポートしてやるくらいだ。極力接しないように。それでも出来るだけ目を掛けてやろう。それしか贖罪の方法が思い付かない。

「すまん、浅沼。こんな俺に好かれても、迷惑なだけだよな」

 改めてゲイである事を恥に思う。
 部下の信頼を最低な形で裏切ってしまった。見ているだけだと、あれ程固く誓ったのに。
 きっともう、側にいられるのも嫌だろうな。来年の人事で移動出来るかどうか、部長に相談してみよう。それで駄目なら、いっそ会社を辞める事になってもいい。
 それまではしっかりと仕事で支えてやろう。影からでも出来る事はある筈だ。
 そして今度こそ絶対に誓う。二度と浅沼には近づかない。この気持ちにも蓋をしてしまおう。どうせ叶わない想いだ。

「キス…、か」

 もしもあれが現実ならば、初めてのキスは好きな男に捧げられた。それだけを心の拠り所に、慎ましくひっそりと暮せばいい。
 気付けば指先が唇をなぞっている。触れたところがジンジンと熱を持つ。
 はぁ…と、甘ったるい吐息が漏れた。
 理性が駄目だと言っているのに、妄想はエスカレートするばかり。長年培った妄想力だ。理性を捻じ伏せるのは簡単だ。その証拠に腹の奥がグズリと熱くなる。膝を擦り合わせモゾモゾと腰が揺れた。

「ごめん、浅沼…。ごめんなさい…」

 下着の上から触れたソコは醜く張り詰め、しっとりと布地を濡らしている。
 最低だ。こんな事を知られたら、間違いなく嫌われる。そう思うのに、痛いくらい熱を持った欲望には勝てない。
 頭の中であの厚い胸板に顔を埋める自分を想像した。逞しい腕で苦しいくらい抱きしめられてみたい。掻き抱くように、その腕の中に閉じ込めて欲しい。そして耳元で『かわいいね、和巳さん』とか言われたら……。

 「んっ、…、…っ」

 下着の中がジワッと熱く濡れた。全力疾走したように息が上がり心臓がバクバクする。やがてそれが収まると、ジワジワと罪悪感が押し寄せてきた。
 申し訳なさと自己嫌悪で涙が溢れる。情けない。もうじき30歳にもなる男が、自慰で下着を汚した挙げ句、メソメソと泣くなんて。

「もう、嫌だ……っ」

 ひとしきりぐずぐずした後、重怠い身体を起こし浴室へと向かった。汚れた身体ごと薄汚い内側まで全部、シャワーで洗い流せたらいいのに。
 滝行のように頭からシャワーを被った。排水口に吸い込まれる温水をぼんやりと眺めながら、どうやって月曜の朝までに気持ちを切り替えようかと考えていた。






「あ、しまった」

 浴室から出て、洗濯機の中を漁ったが目的の物が無い。そういえばこの数日洗濯機を回していなかった。
 慌ててそこら辺に散らばっている汚れ物を放り込み、ピピッとボタンを押した。うちの洗濯機は最先端の優れ物だ。洗剤さえセットしておけば、後はボタンひとつ押すだけで乾燥までやってくれる。便利な時代になったものだ。その恩恵を余すことなく享受する。

「頼むぞ、相棒」

 ちょっと臭う使い古しのバスタオルを頭から被り、素っ裸のまま寝室へ向かった。足の裏がザラつく。そろそろ掃除を頼まなければ。
 クローゼットから、まだ汚れていない服を取り出し下着も着けずに身に纏う。随分前に妹から押し付けられた、どこぞのバンドのロゴが入ったオーバーサイズのトレーナー。何も着ないよりはマシだろう。
 そのままくしゃくしゃのベッドにボフンとダイブした。馴染んだ匂いが眠気を誘う。
 そういえば、今日は朝から何も食べてない。まぁ、いいか。別に腹は減ってない。くわっと欠伸が出た。パンツを穿いてない尻がスースーする。掛け布団をゴソゴソ集めて潜り込み、そのままウトウトと微睡みながら、自分のだらしなさに苦笑が漏れた。
 こんな姿、浅沼が知ったらさぞかし軽蔑するんだろうな…。苦笑がやがて嘲笑に変わる。
 外では必死に取り繕うが、実際は生活能力というものが皆無に等しい。辛うじて洗濯だけは、素晴らしい機械との出会いのお陰で何とかなったが、料理は愚か掃除も出来ない。実家の家族には一人暮らしを反対された。
 『お兄ちゃんには無理だよ』
 『悪い事言わないからやめなさい』
 『面倒見てくれる人でも出来たの?』
 さすがに『死にたいの?』と言われた時には、ちょっと考え直そうかと思った。けれどいつかは、一人で生きていかなければならないのだ。それなら早い段階で、何とかその術を身に付ける為にもと家を出た。だが、未だにこの有様だ。

「はぁ…。逞しくて可愛い恋人でもいればなぁ…」

 浅沼の顔がチラついた。胸がきゅっとする。浅沼に愛される女が羨ましい。俺がもし女だったら、浅沼は好きになってくれただろうか。
 散らかった部屋が目に映る。…いや、駄目だろうな。こんな生活能力皆無なダメ人間。いくら浅沼が世話焼きとはいえ、こんなゴミ溜めみたいな部屋に住む奴を好きになんてなるもんか。
 はぁ…と、もう一度溜息を吐いて目を綴じる。乾いたと思った涙がポロッと溢れた。
 今夜はもう、夢も見ずに眠りたかった。




 
 
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