俺の上司は完璧な恋人

豆ちよこ

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浮き立つ心

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「あの…、お先に失礼します。野崎主任」

「ああ。お疲れ様」

「……お疲れ様でした」

 退社の挨拶に野崎主任に声をかけると、チラッと一瞥されただけでそれ以上の会話もない。
 見慣れた日常の一コマにすぎないそのやり取りをし、俺は会社を後にした。

 衝撃的一夜から早ひと月。すっかり平穏な日常に戻った。…戻った、というか、何事も無かったような日々を過ごしていた。
 あの週末が明け、訪れた月曜の朝の緊張感はなんだったのかと思う程、野崎主任は通常営業だった。
 相変わらず小さなミスすら見逃さない眼力は健在だし、ピシッとした佇まいも変わりがない。いや、心做しかピシッ具合に磨きがかかった気もする。
 まるで狐につままれたような気分だった。それも1週間、2週間と日が経つ内に、こちらもすっかり毒気を抜かれ、今じゃ何か悪い夢でも見ていたのではなかろうかと感じているくらいだ。

 ただ、一つだけ腑に落ちないのは、あれから何となく、…本当に何となくなのだが、避けられているんじゃないか、と感じる事があるのだ。
 勘違いか、とも思った。むしろ仕事はそれまで以上に熱心に指導されている。普段なら指摘されないような小さなミスすら見逃して貰えない。
 ベテラン社員のお局様には「期待されてる証拠よ」と背中を叩かれたが、これまでの成果をみても身に余る期待だ。お陰で野崎さんの鞄持ちと呼ばれる程、常に外回りのお供だったこの俺が、この頃はそのお役目すら儘ならない。
 ひとつひとつは大した事じゃない。
 呼び付けられる回数が減った。
 小言がいつもより短い。
 雑用に駆り出されない。
 気付くと席に居ない。
 仕事以外の会話が少なくなった。
 ……等など。 
 気にしなきゃどうという事もないが、何ていうか…、喉に小骨が刺さったような違和感を感じるのだ。
 この3年、ほぼマンツーマンで指導をされていた、俺にしか感じない違和感。
 だからこそ、余計に気になって仕方がない。

 
 
「なぁ、どう思う?」

「どう、と聞かれてもなぁ…。気の所為だろとしか、言いようが無いし」

 松田に相談するも、返ってくる答えはいつもこうだ。
 本当に気の所為ならいい。だけど原因に思い当たる節しかない身としては、とても気の所為だとは思えない。間違いなく、あの日の出来事が尾を引いている。

 あの告白以来、俺の中で野崎和巳という男の認識が変わった。
 以前は面白味の無い、クソ真面目でおっかない堅物上司だった。だけどこの頃はそうでもない。少なくとも面白味は充分にある。
 注意深く観察すると、本当は不器用で案外おっちょこちょいな一面が見えて来て、思わず顔が緩む事もしばしばだ。
 小さな子供の様に、セロハンテープの端を必死に探していたり、ちょくちょく紙の端で指を切ったりする。その上絆創膏が上手く巻けなくて、何枚もダメにしては落ち込んでいたり。思わず手を出したくなる不器用さだ。
 左右違う靴下を履いているのに気付いた時は正直驚いた。一瞬見間違いかと思ったくらいだ。それとハンカチ。あんなにきちんとした身形なのに、ポケットからくしゃくしゃのハンカチが出てきた時には、見てはいけない何かを感じた。

 俺は元来世話焼きだ。歳の離れた弟妹がいるせいか、誰かの世話をするのは全く苦じゃない。苦、どころか逆に好きだ。趣味と呼んでもいいかもしれない。
 何しろ世話の焼ける悪戯っ子のチビ2人に、ガキの頃から散々鍛えられてきた。「兄ちゃんスゲェ!」と言われるたびに、生き甲斐すら感じていた。
 社会人になって一人暮らしを始めてから、それを取り上げられてしまったからか、野崎さんのダメな所エピソードを発見するたびに、ムズムズと世話焼きの血が騒ぐ。有り体に言えば放っておけない。いや、寧ろ可愛いとすら感じている。
 そう気付いてからはもう止まらなかった。この所、毎日会社に来ては野崎観察が止められない。


「え?お前今頃気づいたの? 野崎主任が慕われてるのは、そういうギャップがいいからだろ。知らなかったのか?勿体ねえな。お前が一番側にいるのになぁ」

 松田にそう言われた時には、3年も無駄にした時間を心から悔やんだ。仕事を覚えるのに必死で、周りが見えていなかった証拠だ。己の無能さにガッカリする。
 そういえば方向音痴疑惑もそうだ。松田が本人から聞いたと言っていた事もあって、思いきって野崎さんにカマをかけてみた。
 以前足を鍛える為に遠回りすると言っていた取引先迄の道程を、少し早目に行きましょうか、と急かしてみたら想像以上に狼狽えた。
 
『あ? ああ。じゃあ……、こっちから…』
『いえ。主任、そっちじゃありません。こっちです』 
『え?…ああ、そうだったな』
 
『……あの、そこは曲がりませんよ?』 
『え?…、わかってる。ね、猫がいたから、つい…』
 
『猫?…いました?』
『もう逃げた。…ほら、行くぞ』
 
『あの、野崎さん。…次は左です』
『…っ!左に行こうと思ってた』

『野崎さん!?あの、そっち右ですよ』 
『あ……』

 どうやったらこんなに迷えるのかと、不思議なくらいの方向感覚の無さに心配になる。この人、よく今まで生きてこれたな。

『あのぉ、松田から聞いたんですが、主任てもしかしなくても、だいぶ方向音痴ですよね?』
 
 うろうろし過ぎて、右と左の区別もつかなくなったらしい上司が可哀想になって、そんなに虚勢を張らなくてもいいですよと告げると、

『そっ、 し、知って、…なら、お前が先に歩け!』

 普段の鉄面皮が剥がれて素の顔が出た。その拗ねた顔の可愛さに思わず笑ってしまった。

『何が可笑しいっ、…さっさと行け!』

 あの朝の照れ顔がまた見られた。
 この顔をずっと見ていたいと思う自分は、思った以上に野崎さんに嵌っているんだろうと自覚したのだ。

 怖いけど可愛くて、きちんとしているようで抜けてる所もあって、仕事は出来るのにちょっとした事が不器用で。
 知れば知るほど野崎和巳という人が気になって仕方がなかった。
 それなのに、あの日を堺に少しづつ接点が減っていくのが寂しい。
 会社から駅までの道程を、そんな事をつらつらと考えながら歩いていた。


 
「あれ? …晋一郎くん?」

 親しげに名前を呼ばれ振り向くと、巻き髪の可愛らしい女性がこちらを見ていた。
 誰だっけ?こんな可愛い子、知り合いにいたか?

「私よ。柔道部のマネやってた小泉麻里絵!久しぶりねぇ。卒業以来かしら?」
「えっ、小泉さん!? うわっ、随分綺麗になっちゃって。わからなかったよ」
「やだぁ、もう!綺麗だなんて。……昔が汚かったみたいじゃないっ」
「いやっ、そ、そんな意味じゃないよ!」
「あはは、冗談よー。でもありがと。お世辞でも嬉しい」

 良かった。中身はそれほど変わりがない。小泉麻里絵は、大学時代の柔道部のマネージャーだ。打てば響くような会話が楽しい女の子で、いつもショートヘアの男勝りな感じだった。小柄なのに力が強くて、試合前に背中をバシンと叩かれると、皆不思議と気合が入ったものだ。

「会社、この辺なの?今帰り?」
「ああ。小泉さんも?」
 
「ううん。私はこれからデートなの。彼の職場がこの駅だから」
「そっか。…あ、もしかして半田?」

 うん、と彼女が返事をしたのと同時に「晋一郎か?」と、懐かしい声がした。

「おい、晋一郎!久しぶりだな」
「おー、半田。…て、お前。またデカくなってないか?」

 半田は同期生で同じく柔道部の友人だ。在学中から俺よりデカくて、90キロ級の大将だった男だ。今は更にデカくなって、もしかしたら3桁の大台に乗ってるんじゃないか?

「何だよ、幸せ太りか?」
「ええー、あははは。まぁ、…そうかもな。あのな、俺たち、来年結婚するんだ」
 
「えっ!本当に? おめでとう」
「招待状送るから、是非出席してね」

 幸せそうな友人カップルを見て嬉しくなる。そうか、俺達もそういう年齢になったんだなぁ…、と感慨深い。

「お前はどうなんだよ晋一郎」
「そうそう。いい人、いないの?」
 
「いやぁ、俺は…」

 ふと、野崎さんの顔が浮かぶ。

「まぁ…、ちょっと気になる人なら、最近できたかな」
 
 うん、そうだ。俺は野崎さんが気になる。四六時中考えてしまうくらい気になっている。
 これはもう、恋とかそういう類の感情だろう。

「なぁんだ、まだ片想いか?」
「んー、いや。……気になったきっかけは、向こうから好きだって迫られたから、なんだけど」
 
「ウソっ!なら話は早いじゃない」
「それがさぁ。酔った上での告白だったし、今は何となく避けられてる気がしてさ」
 
「なんだそれ。その子大丈夫か?お前誂われたんじゃないのか?」

 やっぱりそう思うよな。でも人を誂って、あんな事言う人じゃないんだ。

「あら、きっと照れてるだけよ。お酒に酔った勢いで告白しちゃったんでしょ。気不味いのよ。もう晋一郎くんの方から、グイグイいっちゃえばいいじゃない」

 なるほど。その可能性は確かに有り得る。根が真面目なだけに、俺が迷惑してると勘違いしてるのかもしれないな。

「うん……。ありがとう。ちょっと頑張ってみるよ」

 上手くいったら報告して、と言う二人と別れて駅に向かった。
 会社を出た時より足取りが軽い。
 あの世話の焼き甲斐のありそうな可愛い人が、自分の恋人になってくれるかもしれない。そう考えたら顔がニヤけてくる。
 グイグイか…。それなら得意だ。けれど相手は男で上司。正攻法では難しいだろう。だけど一筋の光も見えた。相手も憎からず想ってくれていると知っているのだから、堂々と思っている事を伝えればいいんじゃないか。
 まさか自分が、男相手にこんなウキウキした気分になる日が来るとは思ってもいなかった。人生何があるか分からないもんだ。
 よくよく考えてみたら、野崎さんは俺の理想の恋人像に限りなく近い。今まで女の子相手じゃ発揮出来なかった家事スキルも、あの人になら好きなだけさせて貰えそうな気がする。あれやれこれやれと指図されるのも悪くないな。 
 その為にも、先ずはあの夜の真意を確かめたい。
 あの告白は本当ですか、と。
 それから、俺は何にも迷惑なんてしてません、何なら嬉しくて仕方が無いです、って伝えたい。
 身の回りの世話を焼かせて欲しい。とことん尽くして褒められたい。名前を呼んで頭を撫でてくれるなら、尻尾を振って何処までもお供します! 
 そんな事を考えたら楽しくて、また明日からの仕事も頑張れそうだ。もちろん野崎観察も欠かさないぞ。
 相手の情報は一つでも多いに越したことはない。そう教えてくれたのは他でもない、野崎さん自身だ。
 尊敬する上司の教えには、素直に従うのが部下の心得ってもんだろ。
 
 あ、そうだ。今度の商談、あれ纏まったら飲みに誘ってみよう。初めて一人だけで纏め上げた商談だ。ご褒美くださいって言ったらあの人の事だ、きっと無碍に断ったり出来ないだろう。ちょっと姑息かなとは思うけど、これなら自然に誘える。
 俄然やる気が出てきた。案外自分は恋愛脳だったんだな。
 好きな相手に褒められたい。認められたい。そんな気持ちがやる気に繋がるなんて。
 電車に揺られながら流れる景色を眺めると、ちらちらと灯る街の灯がキラキラ光って見えた。まるで自分の心の中を象徴しているようだ。随分と浮かれているなと思うけど、久々に訪れた甘美な胸のトキメキは想像以上に楽しい。
 ふと、怪訝な顔した学生風の女性と目が合った。見ちゃいけない物を見てしまった、と言わんばかりに視線を反らされた。どうやら知らぬ内に顔が笑っていたみたいだ。
 すみません、お嬢さん。俺は今、頭の中に花が咲いちゃってるんです。そんな訳で、お見苦しくても勘弁してやってくださいな。
 訳もなく楽しくて、脳内で変な言い訳をした。


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