欠陥αは運命を追う

豆ちよこ

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第一章

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 そこはこじんまりとした、古くて小さな病院だった。
 担当医師は年老いたオメガの専門医。

 先に着いていた玲一に一旦千津を預け、医師の説明を聞きながら、2階の一番いい部屋だという病室に向かう。

「運び込まれた時にはもう、だいぶ弱っていて、正直助からないだろうと思っていました」

 老朽化の激しい建物。リノリウムの床はくすみ、所々ヒビ割れている。
 初老の医師は腰の後ろで手を組み、少し曲がった背中を丸めながら歩く。
 足が悪いのか、少し引き摺るような足音が廊下に響いた。

「それでも出来る限りの事はしたんです。でもね。ここではもう、出来る事がないのですよ」

 人気の無さが、この病院の現状を物語る。おそらく今いる患者が、最後のお客さんなんだろう。

「───こちらです」




 ああ…、分かる。
 薄いドア一枚隔てた、この場所にいても。
 焦がれて…。でも一度も認識出来なかった…。


────淡い、林檎の花。


 病室のプレートには『吉野葵 Ω』の表記。
 聞きたい事も、話したい事もたくさんある。何よりもその存在を確かめたい。

 ドアを開けようと、伸ばした手が震える。
 いいのか? 俺なんかがここに来て、本当に良かったのか?
 
「貴方じゃないと駄目なんですよ。 番の貴方以外には、助けてやれんのですよ」

 こちらの考えを読んだかのように、初老の医師が背中を押した。



 キィ…と軋むドアを押して、明るい室内へと足を踏み入れた。
 二人部屋だと聞いていたが、使われているのは一つだけ。柔らかい陽射しの窓ぎわに、静かに眠る小さな姿が目に入る。
 点滴の管が二本、その細い腕から伸びていた。 
 


「───葵。 迎えに来たよ」


 お前の王子様だぞ。娘に自慢してたんだろ?

「起きろよ、葵。一緒に帰ろう。 千津も来てるんだ。 あの子、お前と同じ色の髪なんだな」

 さらさらとした榛色の髪を撫でる。

 記憶にあるより少しだけ大人びた輪郭。
 こけた頬、落ち窪んだ眼底。乾いて皮の剥けた小さな唇。痩せっぽちが更に痩せこけたせいで痛々しい。
 苦労が滲み出たその姿に胸が潰れそうなほど苦しくなる。

「遅くなってごめんな……。何も知らないまま、放ったらかしにして、本当にごめん」

 顔を覗き込みそのまま、葵の小さなおでこにコツンと額を合わせた。薄い肌から透ける、細い血管すら見える距離で、綴じた瞼を見つめる。小振りの可愛らしい鼻先に自分のそれを擦り付けながら、部屋に入る前から感じていた、ほんのりと甘い林檎の花の香りを吸い込んだ。
 

───ああ、そうだ。……思い出した。


 俺はこうしてこの距離で、葵の顔を見た事がある。

 この立ち昇る甘い香りを嗅げば、すぐに思い出せたのにな。あの嵐の様な激しい激情を。







 あの日だ。玲一を放っておけず、その後を追い渡米しようと決めて、荷造りをしているところに葵はやって来た。

『帰って来ますよね? すぐに帰って来るでしょ?』

 今にも泣き出しそうな顔でそう言われ、後ろ髪を引かれる思いをした。
 あの頃の宝条家は父と兄の確執で天地をひっくり返した様な大騒ぎだったし、そんな場所にお気に入りだった小間使いを残して行くのも気掛かりではあった。
 けれど親友でもある玲一を一人にしておくのはもっと気掛かりで、そのささやかな願いに応えてやる事が出来なかったんだ。

『ごめんな、葵。 その約束は出来ない』

 だから、家から逃げ出す自分と同じく、この子にも逃げ道を用意したんだ。
 金庫の中身を確認させ、そのセキュリティコードを、葵にしか開けられないようセットした。
 
『もしもここから逃げたくなった時は、この石を持って行けよ』

 砕いて売れば幾らか金にもなるし、足も付かない。そう教え、生きていく術を与えた。浮かない顔をした葵は、それでも小さく頷いた。

 決して『行かないで』とは言わなかった。きっとそう言ったら、俺が困ると分かっていたんだ。
 代わりに、今夜は一緒に寝てもいいかと、子供みたいな事を望んだ。それくらい、いつでも言えば叶えてやったのに。
 欲しい物を欲しいとは言えない、葵らしい希望に苦笑いしながらその願いを聞き入れた。
 それがニューヨークに経つ3日前だ。



 だがその夜、父と兄の大喧嘩が始まった。
 二人の出すアルファの怒りのオーラは邸中に蔓延した。それに怯え逃げ込むように俺の部屋へとやって来た葵を、守るように抱きかかえ震える小さな身体を胸に抱いたまま眠りに就いた。

 真夜中に何度か、熱くて目を覚ました。その度に葵が居るのを確かめた。まるで酒に酔った様な酩酊感を覚え、頭の奥を溶かす様な陶酔感に襲われる。時折耳に届く甘い声に、脳の血管が焼き切れそうになったのを思い出す。
 これが欲しいと喰らいつき、何度も何度もそこに噛み付き、逃げる獲物を引き摺り戻しては、綴じ込め繋ぎ止めて捕食したんだ。



 あの時は、綴じた瞼の隙間から涙を溢していた。口からは絶え間なく熱い息を吐き、それに混ざるように甘い声を上げた。
 『そーじさん、そーじさんっ』
 俺の名を何度も呼び、縋るように腕にしがみついたっけ。

「あれが初めてだったんだよな…。ごめん。ちっとも優しくなかったな、俺」

 もっと大事にしたかった。けれど、理性のタガが外れてしまった。初めて経験する抗えない誘惑の香りに思考さえ奪われ、獲物を捕食するただの獣になってしまった。記憶さえ失くすほど。

「なぁ、葵。 お前、あの時の俺が、怖くなって逃げたのか?」


 あの翌日、昼過ぎまで惰眠を貪った俺は、起きて葵の姿が無い事を気にも留めなかった。朝早くに仕事に就くため、こっそりベッドから抜け出したのだろう、その程度にしか考えていなかった。
 甘い香りも、起こったであろう情交の跡も、綺麗に片付けられていたのだから。
 働き者の葵の仕業だろう。バカだな。泣き喚き罵ってくれてもよかったんだ。寧ろそうしてくれたらよかったのに。

 結局、家を出るまで葵には会えなかった。最後に見たのは出立の間際。使用人部屋の窓から、こちらに向かい小さく手を振る姿だ。あの時葵が何を思い、どんな顔をしていたのかすら分からない。



 
 綴じたままの瞼に隠れた、濡れたような漆黒の瞳を思い出す。大きな黒い瞳はあどけなく、いつだって真っ直ぐ俺を映した。言葉に出来ない葵の心を、あの瞳は雄弁に語るんだ。
 


「宝条さん。 番から離れたオメガは、長く生きてはいられないんです。 短ければ一年。長くても3年が限界です」

 老医師が静かに語り掛ける。
 知ってるさ、そんなの。中学校で習うバース教育でも教えてくれる。

「けれど稀に、長生きするオメガがいます。例えば私ですが」

 何の話だ。爺さんの昔話に付き合う暇は無いぞ。

「私の番は、若くして事故に遇い亡くなりました。けれど私には3人の子供がいます。彼女が亡くなった後、私はその子供らのお陰で生きて来られた」

 子供のお陰で生きて来られたって。じゃあ葵も、千津のお陰で今まで…。やるな、あのチビ。後で好きなだけ菓子でも玩具でも服でも、何でも買ってやろう。

「けれど、この歳まで長生き出来た、一番の理由は…。 彼女から受け取った、たくさんの愛情です」

「……愛情?」

「そうですよ、宝条さん。吉野さんもきっと。貴方から受け取った愛情を糧に、ここまで頑張ってきたんです」

 お二人に何があったのかは知りませんが、そう続けたオメガの医師は、それまでの柔和な顔付きから厳しい僧侶のような面持ちで、こう括った。

「忘れないでくださいね。この子を、生かすも殺すも、全ては番である貴方次第なんですよ」

 爺さんの昔話なんかじゃなかった。これは不誠実なアルファに対する、説教と戒めだ。


「───はい。 重々心得ました」


 眠る葵の顔を眺めながらそう言うと、ふっ、と笑う気配を残して、老医師は部屋を出ていった。



 俺が葵に与えた愛情か…。 そんなのせいぜい、あの石ころくらいのもんだろう。あんな物、この先幾らでもくれてやる。それにあんなもんじゃないぞ、葵。

「これからは、胸焼けするくらいの愛情をお前にあげるよ。覚悟しろよ」

 何しろこの世でたった一人の、俺だけのオメガだ。お前以外、俺をこんな気持ちにさせる奴なんか、どこにもいないんだからな。

 今なら双葉の気持ちが充分過ぎる程理解出来る。愛しくて愛しくて、堪らないんだ。
 ああ、そうだ。

「なぁ、葵。起きたらもう一つ、サプライズが待ってるぞ」

 きっと飛び上がるほど喜ぶだろう。お前に良く似た、あの仔犬と一緒に。








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