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【閑話】〜side七央〜
しおりを挟む啞然としている理央をそのままに、僕は理央の家から外へ出ると車を呼んだ。
「九条邸まで行って」
迎えに来たハイヤーの運転手にそう告げるとそのまま黙って目を綴じた。瞼の裏側に必死になって僕に追い縋る理央の姿が映った。
覚悟はしていたけど、思っていた以上の打撃だった。
理央から聞かされた話を思い出す。
『朝起きたら…ね。その……。し、下着が汚れてて……』
最初はおねしょを疑うなんて、まったく理央らしいね。それは間違いなく理央の体に訪れた性徴の証だ。大人になる第一歩。
大方この前のフライング発情期のせいだろう。理央本人にもその自覚はあったみたいだし。
とうとう僕の役目は終わったんだな。
これから急速に心も体も大人になる理央。その手を引くのは僕じゃダメだ。
僕にはその資格はないもの。
僕はもう、理央の一番近くにはいられないんだと、受け入れるしかない。
仕方がないね。
これからはあの駄犬の躾に全精力を注ぐことにしよう。うん。そうしよう。
理央は流星を選んだ。
僕が決めたんじゃなく、ちゃんと自分で選んだんだ。それも本能で。
理央の中のオメガが流星というアルファを選んだ。
『だからね、次の発情期は流星くんにぎゅってして貰うから、大丈夫なんだ』
嬉しそうにそう語る理央は可愛かった。発情期の本当の意味も知らないで、無邪気に楽しそうに笑ってた。
無知は罪だね、理央。
でも敢えて僕は何も言わないよ。理央には出来るだけ長く無垢なままでいて欲しいから。それが儚い希望だと解っているけど、ほら、親心ってそんなものじゃない?
流星は理央の言う『ぎゅっ』の意味をちゃんと理解しているかな。…いや、理解して貰わなきゃ困る。そんなに一足飛びに大人にならなくたって問題は無いもの。
あの駄犬には『待て』をとことん教え込もう。
精々煩悩と理性の狭間で大いに苦しめ。僕が手塩に掛けて大切に育てた可愛い仔猫を託すんだ。これくらいの躾は甘んじて受け入れさせる。
「ふんっ、流星め。そう簡単に理央を手に入れられると思うなよ」
「……なにか?」
「いいえ。何でもないよ」
つい本音がポロッと溢れた。ボソッと呟いたその声に運転手が訝しげに声を掛けてきた。それににっこり笑って雑に応える。僕は今、相当悪い顔をしているだろうな。
いけないいけない。
あの人の前でこんな顔したら怖がらせちゃう。
それにしても……。
これが、娘を嫁に出す父親の心境か。
何時だったか理央の話を昴さん聞いてもらった時に『まるで娘を持った父親のようだね』と言われたのを思い出した。
まだ結婚もしてないのに、父親の心境を味わわされるとは思ってもみなかったな。
随分と苦い予行練習になったけど、きっとあれで良かった。
まだ納得出来ていない理央の気持ちを思えば心が痛む。だけどこれ以上昴さんを悲しませるのは本意じゃない。
本当は気付いてる。理央を構う僕を、番である昴さんが気に病まない訳がない。
綺麗に笑って心を隠すのがとても上手な人。誰よりも脆くて柔らかく傷付きやすい心を持った僕の番。
何時だって彼は『七央の好きにしたらいいよ』と笑って許してくれる。僕より年上なのを気にして、常に冷静であろうと気を張って…。
そんなのちっとも気にしてないのに。本当は寂しがりやで意地っ張りで…。僕にまで心を隠さなくてもいいのに。
ううん。
今までずっと我慢させちゃったのは僕のせいだ。僕が何時までも仔猫ばかりを構うから、あの優しくて綺麗な人はきっと僕が思う以上に傷付いていた。
どんなに言葉を尽くしてもどれほどの愛情を注いでも、昴さんに届いたと満足出来る事が無かったのが何よりもの証拠だ。
突然の嵐のように番になった僕達。
『私を七央の番にして。私の全部を…、七央に奪って欲しい』
そう泣きながら縋り付いてきた昴さんを僕は迷わず番にした。
嬉しかったんだ。いつもツン…と澄ました大人の昴さんが、初めて曝け出した本音を聞けて。
だけどそれを、昴さんはずっと引け目に感じてる。
壊れやすいガラス細工のような彼の心を壊さないよう大切にしようと、僕はこれでも結構遠慮してきた。
でも…。あの時のようにまた、僕を欲しがってくれないかな。正直に全部を曝け出して、子供みたいに我儘を言われたい。言わせたい。
自然と僕の思考は、これから会う深窓の麗人へと切り替わっていた。
車窓から外の景色へと意識を向ければ、見覚えのある通りを走っている。
車は高速を降りて市街地を抜け小高い丘の入口へと進んだ。
暫くなだらかな坂道を進むと、車2台分の大きさの鉄柵の門扉が見えてくる。センサーで開いた扉を抜けて更に坂道を進んで行くと、やがて2体の女神像が出迎えてくれた。
車はゆっくりとその間を通り過ぎ、九条邸の玄関廻りへと入って行った。
九条家の執事に来訪を伝えると、心得てますと言わんばかりに「こちらです」と案内された。
一旦本邸の玄関を出て邸をぐるりと迂回し、北側にある別宅へと連れて行かれた。
一般的な戸建て住宅程度のそこは、僕の番である昴さんの住居だ。と言っても、普段会社勤めをしている昴さんは職場近くにマンションを持っていて、ここには週末くらいしか帰って来ない。それに結婚後は僕の実家が所有するマンションへと移り住むから、この別宅はいずれ所帯持ちの使用人用の寮になる予定。
執事は玄関口まで僕を送ると、一礼して本邸へと戻って行った。
「昴さん。七央です」
インターフォンに応じてくれた家主にそう告げると、一呼吸する間に玄関が開いた。
「いらっしゃい。…どうぞ」
「おじゃまします」
昴さんは綺麗な笑顔で僕を快く出迎えてくれた。
僕より少し背の高い、優しげな雰囲気の美しい人。その項には僕の番である証が刻まれている。
「ごめんなさい。急に来たりして…。迷惑じゃなかった?」
「どうして? 七央が来る事を、私が迷惑だなんて思う訳ないよ。……来てくれて、嬉しい」
スズランの清楚な香りがふわりと漂う。まるでその可憐な花のように少し俯けた顔を傾げながら、ほんのりと頬を染めて僕の突然の来訪にも『嬉しい』と言ってくれる。
こういう所が可愛いんだ。
もっと自覚して貰いたいのに、僕が可愛いって言うと『七央の方が可愛いよ』と言われちゃう。
まぁ…ね。僕は僕が可愛いって自覚してるし、何ならそれを武器にだって使う。
理央もそうだけど昴さんも、本当に可愛い人はどうしてこうも無自覚なんだろう。
まぁ、だからこそ惹かれるんだろうけど。
その純真無垢な心が愛しくて堪らないんだよね。
さぁ…て。
僕の愛しの番様。
これから大人同士の話をしましょう。
「昴さん…」
理央が大人になったよ。
もう僕の手から離れちゃったんだ。
だから仔猫のお世話はもうおしまい。
「なぁに、七央」
これからは大人しくじっと待っていてくれた、臆病な飼い猫のお世話をさせて貰うね。
「僕のこと…、好き?」
「…っ、!?」
ずる賢い子供の振りして“可愛い”を武器に、貴方が隠した本当の心を曝け出すまで、攻撃の手は緩めないから覚悟してね。
「ねぇねぇ…僕のこと好き? 愛してる? ねぇ、どっち? 教えて昴さん。ね…、おねがぁい」
「え、あ? ちょ…、な、七央!?」
先ずは言葉で愛を語り合いましょ。照れずに言えるようになるまで頑張りましょうね、昴さん。
「昴さんの声で聞かせて欲しいなぁ…。だめ? ……それとも、本当は僕なんか好きじゃないの? 愛してなかった……?」
「そ…、っ、そんな事、ない!」
「じゃあ、はい!言って。昴さんおねがぁい」
「ぅ……っ、っ、 ぁ……」
道のりは長そうだけど、大丈夫。僕らはもう結婚も決まってる婚約者だもの。時間ならたっぷりとあるもんね。
理央も頑張れ。
選んだその手をしっかり握っておくんだよ。
その駄犬の躾なら、僕が責任持ってちゃあんと引き受けるから心配しないでね!
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