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ほのの町
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ほのは、車の運転をしながら、ラジオを聴いていました。
ラジオではパーソナリティがリスナーからの手紙を読んでいました。
「……人生はお天気模様。晴れたり曇ったり……」
手紙の内容は忘れてしまいましたが、妙にこのフレーズだけが心に残りました。
ほのは、幸せでした。更年期に入っていましたが、男の子二人と旦那さんの四人で仲良く暮らしていました。
それぞれの母親も元気に暮らしていました。
ほのの生活は比較的のんびりしたものでした。仕事もほどほど。家事もほどほど。子育てもほどほど。なのに、毎日目が回るようでした。
家族はいろいろ手伝ってくれましたが、それでも疲れていました。
ある日、ほのは考えました。
「わたし、どうしてこんなに疲れているのかしら」
友達に話すと、友達は言いました。
「あなたが、一人で抱え込んでいるからよ」
「そうかしら」
それからしばらくの間、ほのは呆然としていました。
考えてみると、その通りでした。
この二年間、思い出してみるだけで、五本の指がうまりました。
父の死の事。
大きくなった子供の事。
一人暮らしの母と義母の事。
一人で暮らす三人の叔母の事。
けがをしながらも長生きしたペットのハムスターの世話など……
ぜんぶ一人で抱え込んでいました。
親の死とペットの死は同列には考えられませんが、ハムスターの方はちゃんと最後までお世話をしたのできちんとお別れができました。親の方は……
友達は、言いました。
「そうよ。ほのは一人で考えすぎよ」
ある友達はそういうと肩をポンとたたきました。
「少しのんびりしたら?」
別の友達は、そう言って慰めてくれました。
ほのは、まわりの心配事をなるべく考えないようにしました。リラックスできるようにアロマをたいたり、雑誌を読んだりしました。雑誌はリラックス特集を隅から隅まで読みました。ストレスをためないように、運動教室にも通いました。笑いヨガにも通ってわっはっはと仲間と一緒に笑いました。仕事中は嫌なことも何もすべて忘れられるので、笑っていられました。
それがどうしたことが、ほのが一生懸命人生を楽しもうとすればするほど、空回りをし始めたのです。
心の奥深く沈ませたと思っていた小石は、どうやら沈み切れていなかったようです。
小石は、ぷかぷかと心の水面を浮かんだり沈んだりを繰り返しているのでした。
子どもたちも、それに合わせたかのように外へ出ようとしなくなりました。
仕事も以前は平日に働いていましたが、子どもが心配で土日に入れるようになりました。
子供は、ますます引きこもっていきました。
引きこもりは長く続きました。
ほのの気持ちも暗く沈んでいきます。
周囲の人が心配して、言いました。
「自分の事も大切にして」
ほのには、自分を大切にするということがどういうことかわからなくなっていました。
「子供たちはもう大きいのだから、少し子供から離れないと」
ほのの事を心配する友達がアドバイスしてくれました。
「あなたが心配……」
ほのは、そういわれても、と戸惑いました。
ひとり、またひとりと、自分の周りから知っている人々が消えていきます。
ほのは、自分の周りに氷の壁が建てられていくような気がしました。
「今はいろいろあって落ち着かないだろうけど、自分の生活を大事にして」
友達は、ほのの事を気遣ってくれました。
「そう……なの?」
ほのは、ぼんやりと答えました。
「私は、私の生活をしていいの?」
ほのが、おずおずと友達に聞きました。
「もちろんよ。あなたの人生を大切にして」
友達は、にっこり笑って答えます。
「子供も大きくなれば自分で解決できることが増えるのよ。それよりもあなたのこれからを大切にしないとね」
「私の人生……」
父親のお葬式では、突然の事で泣くことも忘れるほど忙しくて笑っていました。
父が作ってくれた卵焼きを思い出しては泣き、からりと揚がったてんぷらを見ては泣き、しばらく父の写真や文字もまともに見られない有様でした。
二年後のおばのお葬式でも、突然の死に叔母の体が小さな骨壺に収まるまで涙も出ませんでした。
もはや、どうすればよいのかわからなくなっていました。
気づくと、道の真ん中に立っていました。
ほのは、しくしく泣きました。
「どうして、こんなことになってしまったのかしら」
道の真ん中でぼんやりと立ちすくむほの。道行く人々は不思議に思ってほのの顔をちらちらと見ては、去っていきます。
「何をそんなに泣いているの?」
ほのが顔をあげると,子だぬきが幼い子供のようにじっと見上げていました。
「子どもが引きこもってしまったの」
ほのが説明しても、子だぬきはきょとんとしています。
「ひきこもるってなに?」
子だぬきは、ほのの顔を見つめました。
「家から外に出なくなってしまうことよ」
「ふうん。外に出ないなんてつまらないだろうねえ」
子だぬきは一生懸命考えてそれだけ言いました。
「それに、大好きだった父や叔母も死んでしまったの」
「ふうん。チチってお父さんの事だよね」
子だぬきはぼそりとつぶやきます。
町でタヌキを見かけても、タヌキと話すのは初めてでした。
目を大きく見開いてほのの顔を見ています。
「ぼく、たぬきのぽこぽんだよ。おばちゃんは、なんていう名前なの?」
子だぬきは、目をくりくりさせて聞きました。
「ほの、よ。」
「ほのさん。珍しい名前だね」
子だぬきは、おなかをぽこぽんとたたきました。
「親が、ほのぼのとした人になってほしいと名付けたらしいわ」
ほのは、しゃくりあげながら答えました。
「それで、子どもがひきこもったっていうけど……」
子だぬきは、きょとんとしてほのを見つめます。
「何か悲しいことでもあったの?」
子だぬきが聞きます。
「わからないわ。おじいちゃんが好きだったから、おじいちゃんがいなくなったのがきっかけになったかもしれないけど……とにかく、気づいたら家から一歩も外に出なくなってしまったのよ」
ほのは、またぐすぐすと泣き出しました。
「それは、大人になる前の儀式じゃないの?」
子だぬきはそういうとにっこり笑ってほのの足につかまり立ちました。
「ほら」
子だぬきがほのにもみじの葉っぱを渡します。
「なあに」
ほのがぽかんとしていると、子だぬきは言いました。
「これを手のひらに乗せてごらん。そうしたら、ほのの進む道が見えるから」
ほのは、赤ちゃんの手のひらのような葉っぱを見つめました。
気づくと、そこは見知らぬ町でした。
ほのも知らない不思議な町です。
電柱も何もないのっぺらとした、よく言えば閑静な街並みでした。
家がぽつりぽつりと建っています。しかし、家の明かりはついていないのでした。
町には、ほのしかいないように見えます。
小鳥がブロック塀の上でちゅんと鳴きます。
白い小さな家が一軒ありました。
子豚がすんでいそうなブロックでできた家でした。
窓から明かりが見えます。ほのは、ドアをとんとんと軽くノックしました。
「はーい」
ドアを開けると、白い無地のエプロンを付けたタヌキがいました。
「ようこそ、ほのの町へ」
タヌキがにっこり笑ったので、ほのも笑い返しました。
「ほのの町?」
タヌキは問いには答えず、険しい顔つきでほのの顔を見上げました。
「あなた、少しお疲れね」
タヌキに言われてほのは少しむっとしました。
「どうしてそう思うの?」
「だって、顔に疲れているって書いてあるもの」
タヌキは、ほのの顔を指すと言いました。
「そんな!」
ばかばかしいと思いつつ、ほのは自分の顔をなで回しました。手鏡をバックから取り出します。
「どこにも書いてないじゃないの」
ほのが、怒った声を出します。
「私には見えるの」
タヌキは、後ろ足で立ち上がりました。ポットとカップをお盆に乗せて持ってきます。
「あなたが歩んできた人生が見えるのよ」
タヌキは、カップにお茶を注ぐと、持ち手をほのの方へ向けました。
カップの受け皿には、もみじの葉っぱが置かれています。
ほのの目から涙があふれだしました。
「あなたは、これまで一人で頑張ってきたのね。いろんな困難を周りと協力して乗り越えてきたんでしょう」
タヌキは、そういうとほののお茶にそっともみじを浮かべました。
エプロンから、どんぐりクッキーを出してほのにすすめます。
「そうよ。家族やいろんな人と協力して親の死や子供のことや、一人きりになった親の事、遠く離れた叔母の事まで頑張って考えてきたのよ」
ほのは、涙を止めることができません。
ほのの手の中でクッキーがあたためられていきます。
「うそよ。母親は元気に一人で過ごしているわ。叔母の事は、父が死んでから考えたわ。というか父が叔母の世話をしていたから、父が亡くなったいまは娘の私が考えざるを得なくなったというのが本当よ」
ほのは、くすんと鼻をすすりました。
「冷たい姪っ子よ。私の名前も叔母の記憶の底に沈んだころ会いに行くのだもの。覚えてなくたって当然よ」
ほのの涙がぽたぽたとカップの中に入っていきます。
「父が生きていた時に、叔母が私の知っている叔母でなくなっていくと聞いて会うのが怖かったの。なくなること前に会えたことだけが唯一の救いかしら」
ほのが顔を手で覆って泣き出したので、タヌキが、あわててキッチンからどんぶりを持ってきました。
「おばさんも旅立ったのね」
タヌキが、エプロンをほどいてほのに渡しました。
ほのは、エプロンで顔を覆いながらうなずいています。
クッキーの粉がぽろぽろとエプロンの横からこぼれ落ちていきます。
「この人、なんでこんなに泣いているの? お母さんが一生懸命作ったクッキーが台無しだよ」
タヌキの娘でしょうか。赤いリボンを耳につけたタヌキが、不思議そうにほのを見上げています。
「一人でいろいろ頑張ってきて、ちょっと疲れてしまっているみたい」
タヌキが娘に説明しています。
タヌキは娘にもクッキーを渡しました。
「ふうん。お母さんがどんぶりを持ってくるほど涙がでるなんて」
クッキーを一口かじると飲み込みました。
「人生いろいろあるんだね」
子だぬきは、わかっているのかわからないのかどっちともとれるような声を出しました。
「生意気言って……」
タヌキは部屋に戻るよう娘に言いました。
「ごめんなさいね。タヌキの世界はそれほど複雑でないから、あの子には難しかったかもしれないわ」
タヌキがほのに謝ります。
「いいえ、人生なんて口に出してみると本当につまらないわよね。どうして、こんなにも悩んでしまうのかと思うわ」
ほのは、はあっと大きなため息をつきました。
エプロンでちんと鼻をかみます。
「若い頃は、ため息を一つつくと一つ年をとるというから、なるべくため息をつかないようにしてたの」
ほのが、ポットからお茶を注ぎながら言いました。
「だけど、そんなことを考えていたら、ため息をためる数だけ逆に老けていくことに気づいたの」
タヌキが、うなずいています。
「それからは、割り切ってため息をつきまくっているわ」
ほのはフフッと笑いました。
「それもありだわよ」
タヌキが、あははと笑いました。
「だけど、ため息ばかりつく人生っていうのも悲しいわね」
ほのがそういうと、タヌキは静かにうなずきました。
「私はね、ため息をつきそうになった時は、夕焼けや月を思い出すんだよ」
タヌキが窓の外を見ました。
「どうして」
ほのが聞きました。
「夕焼空は美しいだろ。あの景色を見ていると、(ああ、空がきれいだ。明日も頑張ろう)って思うんだよ。月を見れば、(ああ、私をお月様は見ていてくれる、いつだって慰めてくれる、理解してくれている)って思うんだよ」
タヌキを見ると、タヌキは夕焼けに染まって顔が赤っぽく見えました。
「がんばらなくてもいい、とも言ってくれるの?」
ほのがきくと、タヌキはほのの顔をじっと見ました。
「自然は、いつでも弱いものの味方さ」
タヌキに言われて、ほのはハッとしました。
「弱いもの……」
「タヌキも人間も同じさ。タヌキは人間ほど賢くはないかもしれないがね」
タヌキに言われて、ほのの目からまた大粒の涙がこぼれました。
「ここに来る人間はみんな疲れて途方に暮れた人たちなんだよ。みんな自分の進むべき道を見失ってやってくるんだ。もういいんだよ。自分の道をお進み」
タヌキに背中をポンと押されて、ほのは気づくと元居た場所に立っていました。
ほのはタヌキのエプロンを握りしめていました。
「人生はお天気模様」
遠くからタヌキの声が聞こえてきたような気がしました。
「雨の日もあれば晴れの日もあるさ」
空を見上げると、うっすらとお月さまがうかんでいます。
ほのが家に帰ると、子供がベッドから起き上がっていました。
「お母さん、どこに行っていたの?」
「ほのの町よ」
ほのの背中に夕焼け空が広がっています。
「ほのの町? どこにあるのその町」
子供の顔もほんのり赤く染まっていました。
「さあ……遅くなってしまったわ、夕飯を作りましょう」
ほのはそう言うと台所へ向かいました。
「お母さん、もう僕たちでご飯は用意したよ。お母さんは、疲れているようだからゆっくりしていて」
上の男の子がほのの肩をポンとたたきます。
下の子は、お皿を並べています。お皿の上にはスーパーのコロッケやとんかつ、刺身が乗っていました。
みんなでちぎったのでしょうか。レタスが大皿に乗っています。
旦那さんが言いました。
「ほら、手作りのドレッシングを作ったんだよ。かけてみてね」
ほのは、自分の頬をつまみました。
「だから、言ったでしょ。大人になる前の儀式じゃないのって」
子だぬきのぽこぽんがほのの横に立っていました。
白いエプロンのタヌキもいます。
娘のタヌキも、リボンを揺らしながら小躍りしています。
「これ、あげる」
リボンのタヌキが、おもむろに自分の赤いリボンをほどきました。ほのの手のひらにリボンが置かれます。リボンはもみじに変わりました。
「また迷ったらおいで、ほのの町はほのの町だから」
三匹のタヌキはそういうと、ふっと姿を消しました。
「エプロンは」
ほのが言うと、タヌキは手を振りました。
「ほのにあげるよ」
窓の外には夕焼けがもみじを敷き詰めたように広がっています。
「人生はお天気模様……明日は晴れるかな」
ほのは、エプロンを見つめながらつぶやきました。
ラジオではパーソナリティがリスナーからの手紙を読んでいました。
「……人生はお天気模様。晴れたり曇ったり……」
手紙の内容は忘れてしまいましたが、妙にこのフレーズだけが心に残りました。
ほのは、幸せでした。更年期に入っていましたが、男の子二人と旦那さんの四人で仲良く暮らしていました。
それぞれの母親も元気に暮らしていました。
ほのの生活は比較的のんびりしたものでした。仕事もほどほど。家事もほどほど。子育てもほどほど。なのに、毎日目が回るようでした。
家族はいろいろ手伝ってくれましたが、それでも疲れていました。
ある日、ほのは考えました。
「わたし、どうしてこんなに疲れているのかしら」
友達に話すと、友達は言いました。
「あなたが、一人で抱え込んでいるからよ」
「そうかしら」
それからしばらくの間、ほのは呆然としていました。
考えてみると、その通りでした。
この二年間、思い出してみるだけで、五本の指がうまりました。
父の死の事。
大きくなった子供の事。
一人暮らしの母と義母の事。
一人で暮らす三人の叔母の事。
けがをしながらも長生きしたペットのハムスターの世話など……
ぜんぶ一人で抱え込んでいました。
親の死とペットの死は同列には考えられませんが、ハムスターの方はちゃんと最後までお世話をしたのできちんとお別れができました。親の方は……
友達は、言いました。
「そうよ。ほのは一人で考えすぎよ」
ある友達はそういうと肩をポンとたたきました。
「少しのんびりしたら?」
別の友達は、そう言って慰めてくれました。
ほのは、まわりの心配事をなるべく考えないようにしました。リラックスできるようにアロマをたいたり、雑誌を読んだりしました。雑誌はリラックス特集を隅から隅まで読みました。ストレスをためないように、運動教室にも通いました。笑いヨガにも通ってわっはっはと仲間と一緒に笑いました。仕事中は嫌なことも何もすべて忘れられるので、笑っていられました。
それがどうしたことが、ほのが一生懸命人生を楽しもうとすればするほど、空回りをし始めたのです。
心の奥深く沈ませたと思っていた小石は、どうやら沈み切れていなかったようです。
小石は、ぷかぷかと心の水面を浮かんだり沈んだりを繰り返しているのでした。
子どもたちも、それに合わせたかのように外へ出ようとしなくなりました。
仕事も以前は平日に働いていましたが、子どもが心配で土日に入れるようになりました。
子供は、ますます引きこもっていきました。
引きこもりは長く続きました。
ほのの気持ちも暗く沈んでいきます。
周囲の人が心配して、言いました。
「自分の事も大切にして」
ほのには、自分を大切にするということがどういうことかわからなくなっていました。
「子供たちはもう大きいのだから、少し子供から離れないと」
ほのの事を心配する友達がアドバイスしてくれました。
「あなたが心配……」
ほのは、そういわれても、と戸惑いました。
ひとり、またひとりと、自分の周りから知っている人々が消えていきます。
ほのは、自分の周りに氷の壁が建てられていくような気がしました。
「今はいろいろあって落ち着かないだろうけど、自分の生活を大事にして」
友達は、ほのの事を気遣ってくれました。
「そう……なの?」
ほのは、ぼんやりと答えました。
「私は、私の生活をしていいの?」
ほのが、おずおずと友達に聞きました。
「もちろんよ。あなたの人生を大切にして」
友達は、にっこり笑って答えます。
「子供も大きくなれば自分で解決できることが増えるのよ。それよりもあなたのこれからを大切にしないとね」
「私の人生……」
父親のお葬式では、突然の事で泣くことも忘れるほど忙しくて笑っていました。
父が作ってくれた卵焼きを思い出しては泣き、からりと揚がったてんぷらを見ては泣き、しばらく父の写真や文字もまともに見られない有様でした。
二年後のおばのお葬式でも、突然の死に叔母の体が小さな骨壺に収まるまで涙も出ませんでした。
もはや、どうすればよいのかわからなくなっていました。
気づくと、道の真ん中に立っていました。
ほのは、しくしく泣きました。
「どうして、こんなことになってしまったのかしら」
道の真ん中でぼんやりと立ちすくむほの。道行く人々は不思議に思ってほのの顔をちらちらと見ては、去っていきます。
「何をそんなに泣いているの?」
ほのが顔をあげると,子だぬきが幼い子供のようにじっと見上げていました。
「子どもが引きこもってしまったの」
ほのが説明しても、子だぬきはきょとんとしています。
「ひきこもるってなに?」
子だぬきは、ほのの顔を見つめました。
「家から外に出なくなってしまうことよ」
「ふうん。外に出ないなんてつまらないだろうねえ」
子だぬきは一生懸命考えてそれだけ言いました。
「それに、大好きだった父や叔母も死んでしまったの」
「ふうん。チチってお父さんの事だよね」
子だぬきはぼそりとつぶやきます。
町でタヌキを見かけても、タヌキと話すのは初めてでした。
目を大きく見開いてほのの顔を見ています。
「ぼく、たぬきのぽこぽんだよ。おばちゃんは、なんていう名前なの?」
子だぬきは、目をくりくりさせて聞きました。
「ほの、よ。」
「ほのさん。珍しい名前だね」
子だぬきは、おなかをぽこぽんとたたきました。
「親が、ほのぼのとした人になってほしいと名付けたらしいわ」
ほのは、しゃくりあげながら答えました。
「それで、子どもがひきこもったっていうけど……」
子だぬきは、きょとんとしてほのを見つめます。
「何か悲しいことでもあったの?」
子だぬきが聞きます。
「わからないわ。おじいちゃんが好きだったから、おじいちゃんがいなくなったのがきっかけになったかもしれないけど……とにかく、気づいたら家から一歩も外に出なくなってしまったのよ」
ほのは、またぐすぐすと泣き出しました。
「それは、大人になる前の儀式じゃないの?」
子だぬきはそういうとにっこり笑ってほのの足につかまり立ちました。
「ほら」
子だぬきがほのにもみじの葉っぱを渡します。
「なあに」
ほのがぽかんとしていると、子だぬきは言いました。
「これを手のひらに乗せてごらん。そうしたら、ほのの進む道が見えるから」
ほのは、赤ちゃんの手のひらのような葉っぱを見つめました。
気づくと、そこは見知らぬ町でした。
ほのも知らない不思議な町です。
電柱も何もないのっぺらとした、よく言えば閑静な街並みでした。
家がぽつりぽつりと建っています。しかし、家の明かりはついていないのでした。
町には、ほのしかいないように見えます。
小鳥がブロック塀の上でちゅんと鳴きます。
白い小さな家が一軒ありました。
子豚がすんでいそうなブロックでできた家でした。
窓から明かりが見えます。ほのは、ドアをとんとんと軽くノックしました。
「はーい」
ドアを開けると、白い無地のエプロンを付けたタヌキがいました。
「ようこそ、ほのの町へ」
タヌキがにっこり笑ったので、ほのも笑い返しました。
「ほのの町?」
タヌキは問いには答えず、険しい顔つきでほのの顔を見上げました。
「あなた、少しお疲れね」
タヌキに言われてほのは少しむっとしました。
「どうしてそう思うの?」
「だって、顔に疲れているって書いてあるもの」
タヌキは、ほのの顔を指すと言いました。
「そんな!」
ばかばかしいと思いつつ、ほのは自分の顔をなで回しました。手鏡をバックから取り出します。
「どこにも書いてないじゃないの」
ほのが、怒った声を出します。
「私には見えるの」
タヌキは、後ろ足で立ち上がりました。ポットとカップをお盆に乗せて持ってきます。
「あなたが歩んできた人生が見えるのよ」
タヌキは、カップにお茶を注ぐと、持ち手をほのの方へ向けました。
カップの受け皿には、もみじの葉っぱが置かれています。
ほのの目から涙があふれだしました。
「あなたは、これまで一人で頑張ってきたのね。いろんな困難を周りと協力して乗り越えてきたんでしょう」
タヌキは、そういうとほののお茶にそっともみじを浮かべました。
エプロンから、どんぐりクッキーを出してほのにすすめます。
「そうよ。家族やいろんな人と協力して親の死や子供のことや、一人きりになった親の事、遠く離れた叔母の事まで頑張って考えてきたのよ」
ほのは、涙を止めることができません。
ほのの手の中でクッキーがあたためられていきます。
「うそよ。母親は元気に一人で過ごしているわ。叔母の事は、父が死んでから考えたわ。というか父が叔母の世話をしていたから、父が亡くなったいまは娘の私が考えざるを得なくなったというのが本当よ」
ほのは、くすんと鼻をすすりました。
「冷たい姪っ子よ。私の名前も叔母の記憶の底に沈んだころ会いに行くのだもの。覚えてなくたって当然よ」
ほのの涙がぽたぽたとカップの中に入っていきます。
「父が生きていた時に、叔母が私の知っている叔母でなくなっていくと聞いて会うのが怖かったの。なくなること前に会えたことだけが唯一の救いかしら」
ほのが顔を手で覆って泣き出したので、タヌキが、あわててキッチンからどんぶりを持ってきました。
「おばさんも旅立ったのね」
タヌキが、エプロンをほどいてほのに渡しました。
ほのは、エプロンで顔を覆いながらうなずいています。
クッキーの粉がぽろぽろとエプロンの横からこぼれ落ちていきます。
「この人、なんでこんなに泣いているの? お母さんが一生懸命作ったクッキーが台無しだよ」
タヌキの娘でしょうか。赤いリボンを耳につけたタヌキが、不思議そうにほのを見上げています。
「一人でいろいろ頑張ってきて、ちょっと疲れてしまっているみたい」
タヌキが娘に説明しています。
タヌキは娘にもクッキーを渡しました。
「ふうん。お母さんがどんぶりを持ってくるほど涙がでるなんて」
クッキーを一口かじると飲み込みました。
「人生いろいろあるんだね」
子だぬきは、わかっているのかわからないのかどっちともとれるような声を出しました。
「生意気言って……」
タヌキは部屋に戻るよう娘に言いました。
「ごめんなさいね。タヌキの世界はそれほど複雑でないから、あの子には難しかったかもしれないわ」
タヌキがほのに謝ります。
「いいえ、人生なんて口に出してみると本当につまらないわよね。どうして、こんなにも悩んでしまうのかと思うわ」
ほのは、はあっと大きなため息をつきました。
エプロンでちんと鼻をかみます。
「若い頃は、ため息を一つつくと一つ年をとるというから、なるべくため息をつかないようにしてたの」
ほのが、ポットからお茶を注ぎながら言いました。
「だけど、そんなことを考えていたら、ため息をためる数だけ逆に老けていくことに気づいたの」
タヌキが、うなずいています。
「それからは、割り切ってため息をつきまくっているわ」
ほのはフフッと笑いました。
「それもありだわよ」
タヌキが、あははと笑いました。
「だけど、ため息ばかりつく人生っていうのも悲しいわね」
ほのがそういうと、タヌキは静かにうなずきました。
「私はね、ため息をつきそうになった時は、夕焼けや月を思い出すんだよ」
タヌキが窓の外を見ました。
「どうして」
ほのが聞きました。
「夕焼空は美しいだろ。あの景色を見ていると、(ああ、空がきれいだ。明日も頑張ろう)って思うんだよ。月を見れば、(ああ、私をお月様は見ていてくれる、いつだって慰めてくれる、理解してくれている)って思うんだよ」
タヌキを見ると、タヌキは夕焼けに染まって顔が赤っぽく見えました。
「がんばらなくてもいい、とも言ってくれるの?」
ほのがきくと、タヌキはほのの顔をじっと見ました。
「自然は、いつでも弱いものの味方さ」
タヌキに言われて、ほのはハッとしました。
「弱いもの……」
「タヌキも人間も同じさ。タヌキは人間ほど賢くはないかもしれないがね」
タヌキに言われて、ほのの目からまた大粒の涙がこぼれました。
「ここに来る人間はみんな疲れて途方に暮れた人たちなんだよ。みんな自分の進むべき道を見失ってやってくるんだ。もういいんだよ。自分の道をお進み」
タヌキに背中をポンと押されて、ほのは気づくと元居た場所に立っていました。
ほのはタヌキのエプロンを握りしめていました。
「人生はお天気模様」
遠くからタヌキの声が聞こえてきたような気がしました。
「雨の日もあれば晴れの日もあるさ」
空を見上げると、うっすらとお月さまがうかんでいます。
ほのが家に帰ると、子供がベッドから起き上がっていました。
「お母さん、どこに行っていたの?」
「ほのの町よ」
ほのの背中に夕焼け空が広がっています。
「ほのの町? どこにあるのその町」
子供の顔もほんのり赤く染まっていました。
「さあ……遅くなってしまったわ、夕飯を作りましょう」
ほのはそう言うと台所へ向かいました。
「お母さん、もう僕たちでご飯は用意したよ。お母さんは、疲れているようだからゆっくりしていて」
上の男の子がほのの肩をポンとたたきます。
下の子は、お皿を並べています。お皿の上にはスーパーのコロッケやとんかつ、刺身が乗っていました。
みんなでちぎったのでしょうか。レタスが大皿に乗っています。
旦那さんが言いました。
「ほら、手作りのドレッシングを作ったんだよ。かけてみてね」
ほのは、自分の頬をつまみました。
「だから、言ったでしょ。大人になる前の儀式じゃないのって」
子だぬきのぽこぽんがほのの横に立っていました。
白いエプロンのタヌキもいます。
娘のタヌキも、リボンを揺らしながら小躍りしています。
「これ、あげる」
リボンのタヌキが、おもむろに自分の赤いリボンをほどきました。ほのの手のひらにリボンが置かれます。リボンはもみじに変わりました。
「また迷ったらおいで、ほのの町はほのの町だから」
三匹のタヌキはそういうと、ふっと姿を消しました。
「エプロンは」
ほのが言うと、タヌキは手を振りました。
「ほのにあげるよ」
窓の外には夕焼けがもみじを敷き詰めたように広がっています。
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ほのは、エプロンを見つめながらつぶやきました。
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こいちろう
児童書・童話
ヨシキは中学一年生。毎年お盆は瀬戸内海の小さな島に帰省する。去年は帰れなかったから二年ぶりだ。石段を上った崖の上にお寺があって、書院の裏は狭い瀬戸を見下ろす絶壁だ。その崖にあった小さなセミ穴にいとこのユキちゃんと一緒に吸い込まれた。長い長い穴の底。そこにいたのがいっすん坊だ。ずっとこの島の歴史と、生きてきた全ての人の過去を記録しているという。ユキちゃんは神様だと信じているが、どうもうさんくさいやつだ。するといっすん坊が、「それなら、おまえの振り返りたい過去を三つだけ、再現してみせてやろう」という。
自分の過去の振り返りから、両親への愛を再認識するヨシキ・・・
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