追放された貧乏令嬢ですが、特技を生かして幸せになります。〜前世のスキル《ピアノ》は冷酷将軍様の心にも響くようです〜

湊一桜

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第一章

19. アンドレ様、どうしてしまったの?

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「香織!! 」

 そう聞こえた気がした。思わず目を見開くと、目の前には少し取り乱したようなアンドレ様の姿があった。いつもは無表情のその顔は悲しげに歪み、余裕がなさそうに肩で息をしている。
 アンドレ様は何かを言ったが、鳴り止まない拍手に掻き消されて何も聞こえない。香織という呼び声すら幻聴だったのだろう。

 (それにしてもアンドレ様、どうしてしまったのでしょう)

 ここではっと我に返った。

 (きっとお怒りなんでしょう。
 アンドレ様は私がピアノを弾くことに対して、良く思わないのですから)

 とりあえず謝らなきゃいけないと思った時だった。
 アンドレ様はさらに私に近付き、そっと背中に手を回す。そして、耳元で告げた。

「君も疲れただろう。……もう休もう」

 (やっぱり、よく思っていないのですね……)

 アンドレ様は、今日は良き夫を演じている。そのため人前で怒鳴ったりなどはしないが、二人になった隙に怒られるのだろう。だが、アンドレ様の気持ちを知っていながらも、ピアノを弾いてしまったのは私だ。私は自分の非を認め、謝るしかないだろう。



 そのまま、アンドレ様は一言も話さずに、私を中庭へと連れて行った。その無言がこの上なく怖かった。アンドレ様が口を開いた時、一体どんな言葉が飛び出すのだろうか。

 それにしても、アンドレ様の距離が近い。背中に回されるその手が、微かに私の背中と触れ合うその胸が、沸騰しそうなほど熱い。アンドレ様はお怒りなのに、ドキドキしてしまう私はどうかしている。

 心なしが、アンドレ様もぎこちない。カチンコチンと言ったほうがいいだろうか。

 (きっと、怒りすぎてカチンコチンなんですわ)

 そう思うと、別の意味でドキドキしてしまうのだった。そして、この空気が耐えられなくなった私は、とうとう口走っていた。

「申し訳ございません。……勝手なマネをしてしまいました」

 私は、淑女として振る舞わねばならなかった。アンドレ様の妻として、目立つことはしないほうが賢明だった。アンドレ様の足を引っ張るようなマネをしてはいけなかった。
 怒りで固まってしまっているアンドレ様だ、どのような言葉を吐かれるのだろう。まさか、『結婚を辞めようか』など、言われないだろうか。……あの日、慎司に言われたみたいに。

 考えるだけで泣きそうになる。少しずつ、アンドレ様と距離が近付いてきたと思ったのに、ここで終わりだなんて……
 しかも、アンドレ様がなかなか返事をしないところを見ると、相当お怒りかもしれないのだ。


 だが、アンドレ様は私の背中に手を回したまま、静かに告げた。

「君の演奏を聴くと、胸が痛くなる」

「えっ!? そんなに酷かったですか!? 」

 思わずそう言ってしまい、慌てて口を手で塞ぐ。それにしてもショックだった。これでも前世ピアニストを目指していたのに、胸が痛くなるほど下手だったなんて……

 泣きそうな私を見て、アンドレ様はふっと笑った。

 (……笑った!? )

 その笑顔に釘付けになってしまう。もとから美男だとは思っていたが、アンドレ様の笑顔がこんなにも優しげで心が温まるなんて。おまけに、胸がきゅんきゅんと変な音を立てている。

「いや、素晴らしい演奏だった」

 そう言いながらも、思い返すように笑うアンドレ様。私は熱い胸を押さえ、頬を染めてアンドレ様に見入っている。

 アンドレ様は優しげな顔のまま、静かに私に告げた。

「もし良かったら、時々俺にもピアノを聴かせて欲しい」

「えっ!? 」

 予想外の言葉にまた大声を出し、慌てて口を塞ぐ。アンドレ様は、何を言っておられるのだろうか。私はてっきり……

「アンドレ様は、私がピアノを弾くことを好ましく思われていないものだと思っていました」

 素直に告げると、

「そんなことはない。とても好ましく思っているし……忘れていたあの感情を思い出すんだ」

アンドレ様は静かに答えた。

 まさか、アンドレ様とこんなにも普通に話が出来るとは思ってもいなかった。そして、私はこれからもピアノを弾いてもいいのだと嬉しく思う。
 なかなかすぐに恋人みたいにはなれないが、アンドレ様との距離は確実に近付きつつある。その事実が嬉しかった。それに、アンドレ様を思うと胸がざわざわする。今世人に対してこんな気持ちになったこともなかった。
 私はまだ、自分の心に芽生えたこの気持ちに、気付いていなかったのだ。



 それから、私はアンドレ様と庭園を一周して館に帰った。アンドレ様の隣にいると緊張したり、怒っていないかと怯える気持ちはもう無くなっていた。ただ代わりに、胸が甘い音を立てるだけだったのだ。
 アンドレ様と私が身を寄せ合って歩いているのを見て、人々が驚いていることなんて、私が知るはずもなかったのだ。
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