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最終話 扇丸逐電す
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風雲急を告げる桐島城。桐島家当代、弾正忠是久が自らの手勢を糾合し、二の丸馬場にて武芸大会を見分中の父、桐島源心入道に叛旗を翻したのである。その攻勢は、家督相続以来十年にもわたり権力に掣肘を加え続けられてきた鬱憤も重なって熾烈そのものであった。
この場には確かに、源心入道及び鞍山禅師それぞれの旗本衆があって、いずれ劣らぬ猛者揃いではあったが如何せん人数寡少、日ごろ帯びている大小以外には目立った得物も持たず、あまつさえ同じ城内から攻め寄せられたとあっては城の持つ防御機構もこの場合役には立たない。殲滅の憂き目を見るのは時間の問題であった。
さすが手練れの猛者連中だけあって、この状況で弾正是久を退け得るなどという甘い見通しを源心入道はじめ誰ひとり抱いてはいない。
口々に
「大殿さらばでごさる」
とか
「しばし時を稼ぎますゆえ、疾く腹召させたまえ」
とのたまいながら敵中に斬って出ては幾人かの敵を道連れに切り刻まれて討ち死に遂げる旗本数多。
「禅師も落ち延びられよ」
源心入道が肩口に刺さった矢を手ずから引き抜いて言った。
「お戯れを。累年大殿のご恩顧を賜ってきた拙僧が今になって落ち延びたとあっては名折れ。最後までお供仕る。西方浄土への道、過たずご案内致しまするゆえ、ご安心召されよ」
「それは心強い。では共に参ろうかの」
「待たれよ。その前に……。
扇丸、なにをもたついておるか! 疾く逃げ延びよと申すに!」
見れば目に涙を浮かべて名残惜しげに留まる扇丸。
「大殿様、坊さま、おいら……おいら……本当は生きてちゃいけない人間なんだ。おいら春をひさいで日銭を稼いで、その銭でお父やお母を助けることも出来たのに、そうしなかったんだ。
優しかったお父もお母も飢えて人じゃなくなった。おいらが手に入れてきた食べ物を奪って、しまいにはおいらを鎌で殺して食べようとした。だからおいら怖くなって逃げたんだ。
久しぶりに帰ってみたら二人とも垂れ流しながら死んでた。
親を見殺しにしたおいらに生きる資格なんてない。だから坊さま、おいらも西方浄土に連れて行っておくれよ!」
いまや敵勢は間近に迫り、事態は急迫の度を増している。問答のために無駄に出来る時間はない。それでもこの期に及んで扇丸のために慨嘆する時間をなお惜しまぬ源心入道。
「憐れなるかな扇丸! それこそ死を覚悟の上で武芸大会に臨んだ所以であったか。
案ずるな。人々を飢え苦しませた責はそなたではなく領主たるこのわしが負うべきものであり、そなたに罪はない。
我が手の者を以て送らせよう。誰かある!」
源心入道が供廻りを呼び寄せようとしたが、いずれも防戦に手一杯で駆け寄せる者がない。代わりに陣幕を蹴って荒々しく踏み込んできたのは敵の徒侍であった。
徒侍は最も手近なところにいる扇丸にまずは斬りかかった。扇丸の柔肌に振り下ろされる凶刃。あわれ露命もこれまでか。
「きえぇぇぇッ!」
にわかに響く金切り声。それとともに徒侍の打刀に鎖鎌が巻き付いた。
「蛇神開眼流氏家蛇ノ介とは俺のこと。貴様の相手をするのはこの蛇ノ介! 逃げよ扇丸!」
蛇ノ介が足止めしているのを尻目に、扇丸の手を取ったのは如意無限流槍術の片山権四郎であった。
「逃げるぞ扇丸!」
権四郎に手を引かれながら後ろを振り返る扇丸。
二の丸六角堂に姿を消す源心入道と鞍山禅師の後ろ姿を見たのが、両名を見た最後となった。
「坊さま、大殿様ぁ!」
間をおかず六角堂から火の手が上がった。
一代で下剋上を成し遂げ、一円に領域権力を振るった梟雄桐島源心入道は、鞍山禅師の読経が響く中、古式に則りみごと腹掻っ捌いて果てたと伝わる。
源心入道が滅びても、最期のとどめとばかりに雲霞の如く押し寄せる敵勢力。
扇丸の手を引きながら逃げる片山権四郎が、群がる敵を一手に引き受け自慢の槍を振るう。
「扇丸、そなたは槍しか知らなかったわしに性の悦楽を教えてくれた! おかげで心おきなくあの世へ旅立つことができるというもの。これはその恩返しだ。早く逃げろ!」
髻が切れて髪を振り乱す権四郎。そこへ合力に入ったのが梟聞坊であった。
「扇丸逃げよ! そなたは、そなたは生き延びて愛を世に広めるのだ。
人を呪い、神仏に見放されたわしにそなたは愛を教えてくれた。
見よ、この世には怒りと怨念、そして子が親を殺すになんの躊躇もない狂気が満ちあふれておる。そなたは愛によってこの荒ぶる世を鎮める一助となるのだ。
逃げよ扇丸!」
扇丸は逃げた。背後を三人に任せ、日が落ちて真っ暗になった険しい山道をひたすら逃げた。
険しい山道を行く扇丸の草鞋は激しく摩耗し、赤い襦袢はそこかしこから伸びる枝に絡め取られて、いつの間にか扇丸は赤裸となっていた。
扇丸が振り返ると、悪鬼の舌なめずりするが如き炎が、まさに桐島城二の丸を包み込んでいるところであった。炎が、その白くしなやかな扇丸の肢体を暗闇の中に照らし出す。
ここに疑問を禁じ得ない。
斯くも醜き現世に、斯くも美しき扇丸を下された神仏の思惑果たして那辺にありや。
逐電した扇丸の行方は誰も知らない。生き延びたものか、敢えなく殺されたものかも明確ではない。
しかし、この混乱の中で扇丸が落命したのだとしても、それは
――もうこれ以上、汚れた世に扇丸を置いてはおけぬ。
斯くお嘆きになった御仏の思し召しによって扇丸が救われた結果ではないかと、そう思われてならないのである。
(終)
この場には確かに、源心入道及び鞍山禅師それぞれの旗本衆があって、いずれ劣らぬ猛者揃いではあったが如何せん人数寡少、日ごろ帯びている大小以外には目立った得物も持たず、あまつさえ同じ城内から攻め寄せられたとあっては城の持つ防御機構もこの場合役には立たない。殲滅の憂き目を見るのは時間の問題であった。
さすが手練れの猛者連中だけあって、この状況で弾正是久を退け得るなどという甘い見通しを源心入道はじめ誰ひとり抱いてはいない。
口々に
「大殿さらばでごさる」
とか
「しばし時を稼ぎますゆえ、疾く腹召させたまえ」
とのたまいながら敵中に斬って出ては幾人かの敵を道連れに切り刻まれて討ち死に遂げる旗本数多。
「禅師も落ち延びられよ」
源心入道が肩口に刺さった矢を手ずから引き抜いて言った。
「お戯れを。累年大殿のご恩顧を賜ってきた拙僧が今になって落ち延びたとあっては名折れ。最後までお供仕る。西方浄土への道、過たずご案内致しまするゆえ、ご安心召されよ」
「それは心強い。では共に参ろうかの」
「待たれよ。その前に……。
扇丸、なにをもたついておるか! 疾く逃げ延びよと申すに!」
見れば目に涙を浮かべて名残惜しげに留まる扇丸。
「大殿様、坊さま、おいら……おいら……本当は生きてちゃいけない人間なんだ。おいら春をひさいで日銭を稼いで、その銭でお父やお母を助けることも出来たのに、そうしなかったんだ。
優しかったお父もお母も飢えて人じゃなくなった。おいらが手に入れてきた食べ物を奪って、しまいにはおいらを鎌で殺して食べようとした。だからおいら怖くなって逃げたんだ。
久しぶりに帰ってみたら二人とも垂れ流しながら死んでた。
親を見殺しにしたおいらに生きる資格なんてない。だから坊さま、おいらも西方浄土に連れて行っておくれよ!」
いまや敵勢は間近に迫り、事態は急迫の度を増している。問答のために無駄に出来る時間はない。それでもこの期に及んで扇丸のために慨嘆する時間をなお惜しまぬ源心入道。
「憐れなるかな扇丸! それこそ死を覚悟の上で武芸大会に臨んだ所以であったか。
案ずるな。人々を飢え苦しませた責はそなたではなく領主たるこのわしが負うべきものであり、そなたに罪はない。
我が手の者を以て送らせよう。誰かある!」
源心入道が供廻りを呼び寄せようとしたが、いずれも防戦に手一杯で駆け寄せる者がない。代わりに陣幕を蹴って荒々しく踏み込んできたのは敵の徒侍であった。
徒侍は最も手近なところにいる扇丸にまずは斬りかかった。扇丸の柔肌に振り下ろされる凶刃。あわれ露命もこれまでか。
「きえぇぇぇッ!」
にわかに響く金切り声。それとともに徒侍の打刀に鎖鎌が巻き付いた。
「蛇神開眼流氏家蛇ノ介とは俺のこと。貴様の相手をするのはこの蛇ノ介! 逃げよ扇丸!」
蛇ノ介が足止めしているのを尻目に、扇丸の手を取ったのは如意無限流槍術の片山権四郎であった。
「逃げるぞ扇丸!」
権四郎に手を引かれながら後ろを振り返る扇丸。
二の丸六角堂に姿を消す源心入道と鞍山禅師の後ろ姿を見たのが、両名を見た最後となった。
「坊さま、大殿様ぁ!」
間をおかず六角堂から火の手が上がった。
一代で下剋上を成し遂げ、一円に領域権力を振るった梟雄桐島源心入道は、鞍山禅師の読経が響く中、古式に則りみごと腹掻っ捌いて果てたと伝わる。
源心入道が滅びても、最期のとどめとばかりに雲霞の如く押し寄せる敵勢力。
扇丸の手を引きながら逃げる片山権四郎が、群がる敵を一手に引き受け自慢の槍を振るう。
「扇丸、そなたは槍しか知らなかったわしに性の悦楽を教えてくれた! おかげで心おきなくあの世へ旅立つことができるというもの。これはその恩返しだ。早く逃げろ!」
髻が切れて髪を振り乱す権四郎。そこへ合力に入ったのが梟聞坊であった。
「扇丸逃げよ! そなたは、そなたは生き延びて愛を世に広めるのだ。
人を呪い、神仏に見放されたわしにそなたは愛を教えてくれた。
見よ、この世には怒りと怨念、そして子が親を殺すになんの躊躇もない狂気が満ちあふれておる。そなたは愛によってこの荒ぶる世を鎮める一助となるのだ。
逃げよ扇丸!」
扇丸は逃げた。背後を三人に任せ、日が落ちて真っ暗になった険しい山道をひたすら逃げた。
険しい山道を行く扇丸の草鞋は激しく摩耗し、赤い襦袢はそこかしこから伸びる枝に絡め取られて、いつの間にか扇丸は赤裸となっていた。
扇丸が振り返ると、悪鬼の舌なめずりするが如き炎が、まさに桐島城二の丸を包み込んでいるところであった。炎が、その白くしなやかな扇丸の肢体を暗闇の中に照らし出す。
ここに疑問を禁じ得ない。
斯くも醜き現世に、斯くも美しき扇丸を下された神仏の思惑果たして那辺にありや。
逐電した扇丸の行方は誰も知らない。生き延びたものか、敢えなく殺されたものかも明確ではない。
しかし、この混乱の中で扇丸が落命したのだとしても、それは
――もうこれ以上、汚れた世に扇丸を置いてはおけぬ。
斯くお嘆きになった御仏の思し召しによって扇丸が救われた結果ではないかと、そう思われてならないのである。
(終)
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