恋情を乞う

乙人

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記憶

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『可愛いひとだね。』
 それが嘘だと分かるのに、時間は要さなかった。

 魖菫児太后は、自身の宮で、物思いにふけっていた。
 今から、どれくらい前なのだろう。妃嬪として入宮したのは。その頃、まだ、太后は少女だった。
 夫となった人は、とても美しく、優しい人だった。とても嬉しかった。だが、目的は、忘れることはなかった。
『誰。』
 散策しているうちに、迷ったらしい。辺りを見回していると、七、八くらいの娘が花を抱えていた。女童だろうと思った。
『そこの娘。来なさい。』
 誤解したまま、手招きした。青い襖裙を召し、細工の凝った銀の簪を挿している。
『無礼な。』
 娘は睨みつけた。
『徳妃様に、何を!』
 その当時、太后は魖徳妃と呼ばれていた。
『無礼は其方だわ。私は永寧。妃如きが容易く呼ばないで頂戴。』
 目つきの鋭く、愛想のない、そんな印象を受けた。
 永寧大長公主、当時の永寧長公主は、孤独だった。母には先立たれ、離宮を与えられていた。
 魖家が従っていた、櫖家の縁の公主だと知り、憎悪を抱く。そして、他にも、嫌悪するには、理由はあった。
 -白い肌。つった、切れ長の目。茶色の髪。
 似ていた。誰に。太后の嫌っていた、父の妾に。
『妃嬪なんて、妾と同じじゃない。何を威張っているのだか、私には、分からないわ。』
 はっとした。母を見、父を見、二人とは違う人生を歩みたいと、誓った。妾には、なりたくなかった。母は、父の妾を、とても恨んでいたから。
(なんてこと…………)
 妃嬪と言いながら、実際は、妾なのだ。この世で一番尊い人の、妾なのだ。
 太后は虚しかった。
 永寧長公主は、その頃、夫の娘だと思われていた。実際は、十しか違わなかったのに。それなのに、世間では受け入れられていた。問い詰める高官は、いなかった。
 理解した。
 魖家は、決して、力を持っている家ではないのだと。夫である妟纛が本来の歳を隠していることを知らなかったのは、政の中心にいる家では、魖家しかいなかったのだ。
 夫は、自分の者には、なってくれない。何故か、そう、此処が後宮だからである。此処に存在する、恋情は、ただ、果てるのみ。それが叶うことは、恒久に有り得ない。女にとって、それ以上の地獄があるだろうか。いや、無いだろう。
 永寧は、夫妟纛の娘ではなかった。だが、憎む心は消えなかった。
 せめて、せめて、あの娘だけは、排除したかった。

 十年程後の話だ。太后には、御子がいた。旲瑓と云った。愛らしい子供だった。だが、それには、太后の血は流れていなかった様である。
 当時、永寧大長公主は十八だっただろうか。公主でありながら、未だに縁談の一つもない、行き遅れた女だ。
 旲瑓は、太后よりも大長公主を、母として慕っていた。永寧も、旲瑓を息子の如く慈しんだ。
 見ていて、吐き気が、した。
 幸せそうな永寧大長公主が、あまりにも、憎かった。
 数年前して、降嫁に失敗した永寧大長公主は、不幸のどん底にまで堕とされた。

 気がついた。
 人は、自分から幸せを掴むのではないのだと。
 人の幸せを犠牲にして、その犠牲の上に立ち、それを、幸せと呼ぶのである。
 簡単な話だ。それに、何故、気が付かなかったのだろうと、笑ってしまった。
 己は、決して、幸せではない。きっと、いつかは、名さえ忘れられてしまうのだろう。
 ならば、それに抗おう。
『いやしい女だこと。』
 昔、愛想のない娘は言った。
 そんなこと、百も承知だ。だから、そうしているのだ。
 自分には、理性は無いと思われている。だが、逆だ。本当の感情を押し殺しているのだ。
 でなければ、後宮では、生きて行けないのだから。
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