17 / 47
第一章
儚い夢
しおりを挟む
湖を囲む樹々の緑とキラキラと輝く水面、そして時折り吹く爽やかな風が、死にゆく心をわずかに癒す。
目にも鮮やかな光景は白の離宮に軟禁されていたシンシアにとって、久々に感じる命の息吹きだった。
「シンシア、気にいったか?」
「はい。美しい湖ですわね」
スラックスに白シャツという簡素な服装のダレンは、腕をまくりオールを力強く漕いでいる。
爽やかな笑みを浮かべるダレンの顔からは、シンシアを疑っている様子はない。
陽射し避けの帽子に、動きやすいデイドレス。――そして、上脚に隠し持った短剣は母からたくされたもの。
もちろん、ダレンを傷つけるつもりはない。己の死をちらつかせ、自由を勝ち取る。
一か八かの大勝負。
自分でもわかっている。
こんな脅すような真似をしたところで自由なんて手に入らないと。
――でも、馬鹿げた希望に縋ってしまう。
ダレンがアルファの本能ではなく、心で"シンシア"を欲しているのなら、訴えを聞いてくれるかもしれない。
回帰前のダレンの姿が脳裏をよぎる。
聖女リディアが現れるまでの幸せな記憶。
愛し、愛され、心からダレンを愛していたあの時、彼からの愛を疑うことはなかった。
『俺は一生、シンシアを愛し続ける。本能よりも大事なのは心だ。たとえ、運命の番が現れようとも、シンシア、君だけを愛すると誓う』
ベータに番という概念はない。アルファとオメガのように"番"という強固な関係を築くことは出来ない。
アルファであるダレンとベータであったシンシアの間にあるのは、心に刻まれた愛と信頼だけだ。
番の刻印もなく永遠を誓う行為は、相手を信じる気持ちだけで成り立つ。回帰前のシンシアに、その脆くも儚い愛を信じる力はなかった。
あの時――
本能より"心"だと言ったダレンの言葉を信じていたら、運命は変わったのだろうか。
薄暗い牢に囚われ絶望の中、何度も自問自答した。でも、死ぬ間際まで、その答えは出なかった。
そして、今もわからない。
回帰前と今のダレンは違うと分かっている。回帰前の記憶がないダレンは、シンシアを心から愛していた以前の彼とは違う。
心など関係ない。
本能がオメガを求めている。
そう言われた方が、よっぽど楽なのだろう。本能のまま獣に堕ちれば、これ以上心が傷つくことはない。
――でも、諦められない。
『本能より心だ』と言ったダレンの言葉を。
「どうした? 難しい顔をしている……」
ダレンが手を伸ばす。
頬を撫で、髪を一房取り、離れていく。
うつむくシンシアから、ダレンの表情はわからない。けれど、ここで躊躇えば、きっと後悔する。
シンシアは両手を握りしめ、意を決し、顔をあげた。
「ダレンさま、お願いがあります!」
「お願い?」
「……はい。どうか、白の離宮から出してください」
ダレンの表情がみるみる険しいものへと変わっていく。それでも、引くわけにはいかなかった。
ここで怯めば後に待ち受けるのは獣へと堕ちる未来だけ。
シンシアは折れそうになる心を奮い立たせ、言葉を紡いだ。
「隣国へと逃げるのは、あきらめます。もちろん、偽装番を演じろというなら、そうします。でも、白の離宮からは出してください」
「シンシア、言ったはずだ。離宮から出たら最後、エリセア教会から君を守るのは難しいと」
「それは、何処にいようと変わらないのではありませんか? 白の離宮は、石で出来た堅牢な要塞とは違います。逆に、同じ場所にとどまれば危険性は増す。違いますか?」
ダレンの視線が揺れる。
彼もわかっているのだ。
白の離宮は護りを重視して造られた要塞とは違う。森に囲まれ侵入しづらい造りではあるが、離宮と名の付く通り要塞とは違うのだ。同じ場所にとどまり続ければ、相手の思うつぼ。いつか侵入を許すことになる。
「ダレンさま、図星ですか? 白の離宮に居ようが、居まいが危険性は変わらない。それなのに、なぜ貴方は、私を出そうとしないのですか?」
「それは――」
「――私に味方をつくらせたくない。違いますか?」
「違う!? そんなつもりはない!」
「それなら、なぜ!? 家族に合わせてくれないの?」
一瞬、驚きの表情を浮かべ、ダレンが俯く。
今、彼はどんな表情をしているの?
今までの行いを恥じ、後悔している?
それとも、反旗を翻した私に怒っている?
――願わくは、ダレンに心が残っていて。
祈るように待つシンシアの耳に、絶望を宿す笑い声が聞こえた。
「な、何がおかしいのよ……」
俯き肩を震わせ笑うダレンの不気味さに、背が震える。得体の知れない恐怖に後退るも狭いボートの中では限界だった。
一気に距離をつめられ、ダレンに押し倒される。
「はっ、離して!!」
「シンシア、暴れるな。落ちるぞ。……まぁ、俺はシンシアと落ちるなら、本望だがな」
「馬鹿なこと、言わないで! そんなこと、思ってないくせに」
「そんなことはない。番を失った者の後追いは、珍しくもない。あぁ、白の離宮にとどめる理由だったか? シンシアの想像通りだよ。シンシアに味方がいなければ、君は俺を頼るしかない。だから、閉じ込めた」
「それは……それは、私がオメガだからなの!?」
「――あぁ、……」
オメガだから、オメガだから、オメガだから……
言葉が心を黒く、染めていく。
頭の中では、何度も想像していた。けれど、心のどこかでダレンを信じていた。
"シンシア"自身を愛して――いいや、違う。
とうの昔に、心は壊れていたのだ。
ダレンの心を得られない絶望に、壊れてしまっていた……
溢れ出した涙を止めることなんて、もう、出来ない。
頬を伝い流れていく涙と同じように、この想いも消え去ってくれたらいいのに……
いつかダレンさまと、ボート遊びをしたいわ。
泉で二人きりでボートに乗って過ごすの。素敵よね……
きっとよ。きっと、叶えてくださいね。
回帰前の記憶が走馬灯のように頭をめぐる。
――最期に夢が叶うなんて、皮肉ね。
覚悟を決め、短刀を手につかみ、ダレンへと刃を向けた。
目にも鮮やかな光景は白の離宮に軟禁されていたシンシアにとって、久々に感じる命の息吹きだった。
「シンシア、気にいったか?」
「はい。美しい湖ですわね」
スラックスに白シャツという簡素な服装のダレンは、腕をまくりオールを力強く漕いでいる。
爽やかな笑みを浮かべるダレンの顔からは、シンシアを疑っている様子はない。
陽射し避けの帽子に、動きやすいデイドレス。――そして、上脚に隠し持った短剣は母からたくされたもの。
もちろん、ダレンを傷つけるつもりはない。己の死をちらつかせ、自由を勝ち取る。
一か八かの大勝負。
自分でもわかっている。
こんな脅すような真似をしたところで自由なんて手に入らないと。
――でも、馬鹿げた希望に縋ってしまう。
ダレンがアルファの本能ではなく、心で"シンシア"を欲しているのなら、訴えを聞いてくれるかもしれない。
回帰前のダレンの姿が脳裏をよぎる。
聖女リディアが現れるまでの幸せな記憶。
愛し、愛され、心からダレンを愛していたあの時、彼からの愛を疑うことはなかった。
『俺は一生、シンシアを愛し続ける。本能よりも大事なのは心だ。たとえ、運命の番が現れようとも、シンシア、君だけを愛すると誓う』
ベータに番という概念はない。アルファとオメガのように"番"という強固な関係を築くことは出来ない。
アルファであるダレンとベータであったシンシアの間にあるのは、心に刻まれた愛と信頼だけだ。
番の刻印もなく永遠を誓う行為は、相手を信じる気持ちだけで成り立つ。回帰前のシンシアに、その脆くも儚い愛を信じる力はなかった。
あの時――
本能より"心"だと言ったダレンの言葉を信じていたら、運命は変わったのだろうか。
薄暗い牢に囚われ絶望の中、何度も自問自答した。でも、死ぬ間際まで、その答えは出なかった。
そして、今もわからない。
回帰前と今のダレンは違うと分かっている。回帰前の記憶がないダレンは、シンシアを心から愛していた以前の彼とは違う。
心など関係ない。
本能がオメガを求めている。
そう言われた方が、よっぽど楽なのだろう。本能のまま獣に堕ちれば、これ以上心が傷つくことはない。
――でも、諦められない。
『本能より心だ』と言ったダレンの言葉を。
「どうした? 難しい顔をしている……」
ダレンが手を伸ばす。
頬を撫で、髪を一房取り、離れていく。
うつむくシンシアから、ダレンの表情はわからない。けれど、ここで躊躇えば、きっと後悔する。
シンシアは両手を握りしめ、意を決し、顔をあげた。
「ダレンさま、お願いがあります!」
「お願い?」
「……はい。どうか、白の離宮から出してください」
ダレンの表情がみるみる険しいものへと変わっていく。それでも、引くわけにはいかなかった。
ここで怯めば後に待ち受けるのは獣へと堕ちる未来だけ。
シンシアは折れそうになる心を奮い立たせ、言葉を紡いだ。
「隣国へと逃げるのは、あきらめます。もちろん、偽装番を演じろというなら、そうします。でも、白の離宮からは出してください」
「シンシア、言ったはずだ。離宮から出たら最後、エリセア教会から君を守るのは難しいと」
「それは、何処にいようと変わらないのではありませんか? 白の離宮は、石で出来た堅牢な要塞とは違います。逆に、同じ場所にとどまれば危険性は増す。違いますか?」
ダレンの視線が揺れる。
彼もわかっているのだ。
白の離宮は護りを重視して造られた要塞とは違う。森に囲まれ侵入しづらい造りではあるが、離宮と名の付く通り要塞とは違うのだ。同じ場所にとどまり続ければ、相手の思うつぼ。いつか侵入を許すことになる。
「ダレンさま、図星ですか? 白の離宮に居ようが、居まいが危険性は変わらない。それなのに、なぜ貴方は、私を出そうとしないのですか?」
「それは――」
「――私に味方をつくらせたくない。違いますか?」
「違う!? そんなつもりはない!」
「それなら、なぜ!? 家族に合わせてくれないの?」
一瞬、驚きの表情を浮かべ、ダレンが俯く。
今、彼はどんな表情をしているの?
今までの行いを恥じ、後悔している?
それとも、反旗を翻した私に怒っている?
――願わくは、ダレンに心が残っていて。
祈るように待つシンシアの耳に、絶望を宿す笑い声が聞こえた。
「な、何がおかしいのよ……」
俯き肩を震わせ笑うダレンの不気味さに、背が震える。得体の知れない恐怖に後退るも狭いボートの中では限界だった。
一気に距離をつめられ、ダレンに押し倒される。
「はっ、離して!!」
「シンシア、暴れるな。落ちるぞ。……まぁ、俺はシンシアと落ちるなら、本望だがな」
「馬鹿なこと、言わないで! そんなこと、思ってないくせに」
「そんなことはない。番を失った者の後追いは、珍しくもない。あぁ、白の離宮にとどめる理由だったか? シンシアの想像通りだよ。シンシアに味方がいなければ、君は俺を頼るしかない。だから、閉じ込めた」
「それは……それは、私がオメガだからなの!?」
「――あぁ、……」
オメガだから、オメガだから、オメガだから……
言葉が心を黒く、染めていく。
頭の中では、何度も想像していた。けれど、心のどこかでダレンを信じていた。
"シンシア"自身を愛して――いいや、違う。
とうの昔に、心は壊れていたのだ。
ダレンの心を得られない絶望に、壊れてしまっていた……
溢れ出した涙を止めることなんて、もう、出来ない。
頬を伝い流れていく涙と同じように、この想いも消え去ってくれたらいいのに……
いつかダレンさまと、ボート遊びをしたいわ。
泉で二人きりでボートに乗って過ごすの。素敵よね……
きっとよ。きっと、叶えてくださいね。
回帰前の記憶が走馬灯のように頭をめぐる。
――最期に夢が叶うなんて、皮肉ね。
覚悟を決め、短刀を手につかみ、ダレンへと刃を向けた。
134
あなたにおすすめの小説
夫が運命の番と出会いました
重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。
だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。
しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
仮面王の花嫁
松雪
恋愛
婚約者を腹違いの妹に奪われ、新しい相手も見つからず修道院に行く覚悟を決めたルチア。修道女となるため髪を切った日の夜、王城から「国王がルチアを妻に望んでいる」という書簡を持った使者がやって来た。
しかし、従兄弟であり恋仲だったニールが国王のせいで死に至った過去を持つルチアは、国王からの求婚を喜べずーー。
愛しているこの想いが届かない
ララ愛
恋愛
大好きな婚約者には愛する人がいるらしい
それを知っても諦められず自分がみじめでもどんなに悲しくても側にいたかった
でも笑いかけてもらえない自分が愛されない自分が限界になった時お別れすることを
決めました
【完結】愛する人はあの人の代わりに私を抱く
紬あおい
恋愛
年上の優しい婚約者は、叶わなかった過去の恋人の代わりに私を抱く。気付かない振りが我慢の限界を超えた時、私は………そして、愛する婚約者や家族達は………悔いのない人生を送れましたか?
【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる
奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。
だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。
「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」
どう尋ねる兄の真意は……
大人になったオフェーリア。
ぽんぽこ狸
恋愛
婚約者のジラルドのそばには王女であるベアトリーチェがおり、彼女は慈愛に満ちた表情で下腹部を撫でている。
生まれてくる子供の為にも婚約解消をとオフェーリアは言われるが、納得がいかない。
けれどもそれどころではないだろう、こうなってしまった以上は、婚約解消はやむなしだ。
それ以上に重要なことは、ジラルドの実家であるレピード公爵家とオフェーリアの実家はたくさんの共同事業を行っていて、今それがおじゃんになれば、オフェーリアには補えないほどの損失を生むことになる。
その点についてすぐに確認すると、そういう所がジラルドに見離される原因になったのだとベアトリーチェは怒鳴りだしてオフェーリアに掴みかかってきた。
その尋常では無い様子に泣き寝入りすることになったオフェーリアだったが、父と母が設定したお見合いで彼女の騎士をしていたヴァレントと出会い、とある復讐の方法を思いついたのだった。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる