47 / 109
其の肆 涙雨のあとは
三
しおりを挟む
初名が差し出した手を、男の子はおずおずと握り返した。
「さてと……どっちの方から来たか、わかる?」
尋ねると、男の子はふるふると首を横に振った。
「そっか、じゃあ……アナウンスしてもらった方がいいかな。お父さんとお母さんの名前わかる? というか、どっちと一緒に来たの?」
そう尋ねると、男の子はまたも首を横に振った。
「? まさか一人で来たの?」
男の子は、ようやく頷いた。初名は目を見張った。
男の子の格好は、シャツに簡素なズボン……それだけだった。鞄も何も持っておらず、身一つという状態だ。だからこそ、誰かと一緒なのだと思っていた。
「えーと、じゃあ……どこに行くつもりだったの? わかる所まで着いていこうか?」
その問いに、男の子はしばし迷っていたが、やはり首を横に振った。
「わからへん」
「”わからへん”……?」
「ここがどこか、わからへん。どこに行きたかったんかも、わからへん。どこに帰るんかも、わからへんようになった」
その声は、まるで清流のように澄んだ響きだった。だが迷いからか、ほんの少し震えていた。
「落ち着いて。じゃあまずは、どこから来たのか教えてくれる? どこか、遠いところ?」 初名は、男の子の手を両手で包み込んだ。冷房のよくきいている地下街において、自然では感じないぬくもりがじんわりと生まれた。
男の子はそのぬくもりを感じ取るかのように俯いて、考え込んでいた。
「……近く」
「そっか。この近くに住んでるんだ」
日本有数の巨大繁華街・梅田だが、ほんの十分ほども歩けばマンションなどが林立する場所もある。初名と同じく遠方からこちらに来た学生の中にも、この近隣に住んでいる者が数名いる。
それならば、この場所でこの軽装でいることも、どことなく理解できる。
「じゃあ、どこかに行こうとしてたのかな? 電車に乗るとか?」
男の子はまた考え込んで、首を横に振った。
「ここに、来たかった」
「ここ? 何かお買い物?」
「……友達に会いたかってん」
「と、友達?」
男の子は、静かに頷いた。
「友達って……待ち合わせしてたとか? それとも、ここのお店で働いてる人?」
男の子は、いずれの問いにも首を横に振った。だが、それ以上を答えることはなかった。何かを言おうとして、ぐっとこらえているようだった。
何か事情があるのか、それを聞いても良いのか、初名は迷った。だが迷って言葉を飲み込んでいると、男の子は急にふわりと笑って顔を上げた。
「ありがとう。でも、もう帰らなあかん」
「そ、そう? お友達は、いいの?」
「うん。もう、ここにはいられへんし……」
頷くものの、男の子の顔はどこか暗い。やはり、まだ心残りがあるのだ。
「……わかった。今日は帰らないといけないんだね?」
「うん」
「じゃあ、今度また、私と来よう」
「……え」
初名はもう一度男のこの両手をぎゅっと握った。
「私、ここ毎日通ってるから、少しはわかるよ。何かあれば地図を見たり、案内所に行けばいいんだし。だから、私と一緒に必ずお友達に会いに行こう」
「……うん」
男の子は、ほんの少し頬が赤く染まったようだった。俯いてしまったが、その口の端はうっすら笑っている。
嬉しい、ということだろうか。
「よし、じゃあとりあえず地上に出ようか」
初名はそう言うと、男の子の手をとって歩き出した。すぐ近くに旧泉の広場がある。そこから地上へ出る階段が伸びている。
階段と地下街の入り口はガラス戸で仕切られていた。開きっぱなしになっている時もあるのだが、今日は雨が降っているからか蒸し蒸ししているからか、閉じられていた。
初名がそのガラス戸を押し開くと、階段にかかる半透明の屋根を通して、曇天が目に映った。そして頭上からは初名が避けてきたざあざあという音も聞こえてくる。
「やっぱりまだ降ってたかぁ」
ほんの少ししょんぼりしていると、男の子が一歩、進み出た。
「ここで、ええよ」
「え?」
ここは、まだ地下街を一歩出たばかりの場所だ。男の子の家がどこかは聞いていないが、少なくとも住宅街まではまだ距離がある。
「えーと……道、わかる?」
「出口が、わからんかっただけやから」
男の子は静かに頷いて言った。そして、先ほどの不安げな面持ちとはまったく違う、柔らかな笑みを向けると、くるりと背を向けた。体重を感じさせない軽やかな動きだった。
「あ、待って」
初名が声をかけると、男の子はくるりと振り返った。ほんの少し、不思議そうな顔だ。
「これ、使って。濡れちゃう」
初名はそう言って、手に持っていた傘を差しだした。外はまだ大降りなのだ。ほんの数秒歩いただけでずぶ濡れになることは目に見えていた。
「……ええの?」
「いいのいいの。こっちこそごめんね、女物だから差すの恥ずかしいかも」
男の子はくすりと笑って、首を横に振った。
「ありがとう。”今度”、必ず返す」
「うん、お願い。そうだ、名前は? いつ会えるかな?」
「……いつになるかは、わからへん。でも……」
男の子は、傘をぎゅっと握りしめて、初名に近づいた。手を繋いで歩いたときよりもずっと近くに。そうして、初名の耳元に唇を寄せて、囁くように言った。
「清友」
「せ、清友?」
「それが名前やから……覚えといて」
そう言って、男の子は……清友は、ニコリと笑った。そしてその次の瞬間、空気に溶けるかのごとく、消え去った。
「……あの子って……」
もしや、また……そんな考えが、初名の思考を占めたのだった。
「さてと……どっちの方から来たか、わかる?」
尋ねると、男の子はふるふると首を横に振った。
「そっか、じゃあ……アナウンスしてもらった方がいいかな。お父さんとお母さんの名前わかる? というか、どっちと一緒に来たの?」
そう尋ねると、男の子はまたも首を横に振った。
「? まさか一人で来たの?」
男の子は、ようやく頷いた。初名は目を見張った。
男の子の格好は、シャツに簡素なズボン……それだけだった。鞄も何も持っておらず、身一つという状態だ。だからこそ、誰かと一緒なのだと思っていた。
「えーと、じゃあ……どこに行くつもりだったの? わかる所まで着いていこうか?」
その問いに、男の子はしばし迷っていたが、やはり首を横に振った。
「わからへん」
「”わからへん”……?」
「ここがどこか、わからへん。どこに行きたかったんかも、わからへん。どこに帰るんかも、わからへんようになった」
その声は、まるで清流のように澄んだ響きだった。だが迷いからか、ほんの少し震えていた。
「落ち着いて。じゃあまずは、どこから来たのか教えてくれる? どこか、遠いところ?」 初名は、男の子の手を両手で包み込んだ。冷房のよくきいている地下街において、自然では感じないぬくもりがじんわりと生まれた。
男の子はそのぬくもりを感じ取るかのように俯いて、考え込んでいた。
「……近く」
「そっか。この近くに住んでるんだ」
日本有数の巨大繁華街・梅田だが、ほんの十分ほども歩けばマンションなどが林立する場所もある。初名と同じく遠方からこちらに来た学生の中にも、この近隣に住んでいる者が数名いる。
それならば、この場所でこの軽装でいることも、どことなく理解できる。
「じゃあ、どこかに行こうとしてたのかな? 電車に乗るとか?」
男の子はまた考え込んで、首を横に振った。
「ここに、来たかった」
「ここ? 何かお買い物?」
「……友達に会いたかってん」
「と、友達?」
男の子は、静かに頷いた。
「友達って……待ち合わせしてたとか? それとも、ここのお店で働いてる人?」
男の子は、いずれの問いにも首を横に振った。だが、それ以上を答えることはなかった。何かを言おうとして、ぐっとこらえているようだった。
何か事情があるのか、それを聞いても良いのか、初名は迷った。だが迷って言葉を飲み込んでいると、男の子は急にふわりと笑って顔を上げた。
「ありがとう。でも、もう帰らなあかん」
「そ、そう? お友達は、いいの?」
「うん。もう、ここにはいられへんし……」
頷くものの、男の子の顔はどこか暗い。やはり、まだ心残りがあるのだ。
「……わかった。今日は帰らないといけないんだね?」
「うん」
「じゃあ、今度また、私と来よう」
「……え」
初名はもう一度男のこの両手をぎゅっと握った。
「私、ここ毎日通ってるから、少しはわかるよ。何かあれば地図を見たり、案内所に行けばいいんだし。だから、私と一緒に必ずお友達に会いに行こう」
「……うん」
男の子は、ほんの少し頬が赤く染まったようだった。俯いてしまったが、その口の端はうっすら笑っている。
嬉しい、ということだろうか。
「よし、じゃあとりあえず地上に出ようか」
初名はそう言うと、男の子の手をとって歩き出した。すぐ近くに旧泉の広場がある。そこから地上へ出る階段が伸びている。
階段と地下街の入り口はガラス戸で仕切られていた。開きっぱなしになっている時もあるのだが、今日は雨が降っているからか蒸し蒸ししているからか、閉じられていた。
初名がそのガラス戸を押し開くと、階段にかかる半透明の屋根を通して、曇天が目に映った。そして頭上からは初名が避けてきたざあざあという音も聞こえてくる。
「やっぱりまだ降ってたかぁ」
ほんの少ししょんぼりしていると、男の子が一歩、進み出た。
「ここで、ええよ」
「え?」
ここは、まだ地下街を一歩出たばかりの場所だ。男の子の家がどこかは聞いていないが、少なくとも住宅街まではまだ距離がある。
「えーと……道、わかる?」
「出口が、わからんかっただけやから」
男の子は静かに頷いて言った。そして、先ほどの不安げな面持ちとはまったく違う、柔らかな笑みを向けると、くるりと背を向けた。体重を感じさせない軽やかな動きだった。
「あ、待って」
初名が声をかけると、男の子はくるりと振り返った。ほんの少し、不思議そうな顔だ。
「これ、使って。濡れちゃう」
初名はそう言って、手に持っていた傘を差しだした。外はまだ大降りなのだ。ほんの数秒歩いただけでずぶ濡れになることは目に見えていた。
「……ええの?」
「いいのいいの。こっちこそごめんね、女物だから差すの恥ずかしいかも」
男の子はくすりと笑って、首を横に振った。
「ありがとう。”今度”、必ず返す」
「うん、お願い。そうだ、名前は? いつ会えるかな?」
「……いつになるかは、わからへん。でも……」
男の子は、傘をぎゅっと握りしめて、初名に近づいた。手を繋いで歩いたときよりもずっと近くに。そうして、初名の耳元に唇を寄せて、囁くように言った。
「清友」
「せ、清友?」
「それが名前やから……覚えといて」
そう言って、男の子は……清友は、ニコリと笑った。そしてその次の瞬間、空気に溶けるかのごとく、消え去った。
「……あの子って……」
もしや、また……そんな考えが、初名の思考を占めたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私の守護霊さん
Masa&G
キャラ文芸
大学生活を送る彩音には、誰にも言えない秘密がある。
彼女のそばには、他人には姿の見えない“守護霊さん”がずっと寄り添っていた。
これは——二人で過ごした最後の一年を描く、かけがえのない物語。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる