79 / 109
其の伍 紡ぐ思い、解ける時間(とき)
十五
しおりを挟む
「百花さんと一緒におって、君は平気か?」
「それって、どういう意味ですか?」
ラウルが言葉を飲み込む様子が見えた。
初名は、自分が噛み殺してしまいそうな怒気を纏っていることに、自分で気付いていなかった。
ラウルは唇を噛み、再び口の中で言葉を選んでいる。その背後から、ひんやりとした声が聞こえた。
「俺から話す」
風見の声だった。いつものように陽気な空気はなく、冷徹で重厚な空気を纏っていた。風見はラウルを奥の席に追いやり、自分が初名の正面に座った。
「まず、ラウルのことを悪く思わんといたってくれ。ちゃんとした理由があった上で、悪意は一切ない。もちろん、百花を貶めるつもりもない。それだけ、言うとく」
「だから、その理由っていうのを早く聞かせてください」
風見にまでこんなに突っかかる物言いをしたことは、初めてだった。そのことに自分で驚きながらも、決して引き下がる様子を見せずに、初名は構えた。
「まず、百花がどういうあやかしか、知っとるか?」
「……確か絡新婦って仰ってました」
「絡新婦いうんは、男を誘い込んでその肉を喰らう人食いのあやかしや。男のせいであんなことになったんやから、それも頷けることやな」
「それが、何か?」
「今はどうやって”食事”しとると思う?」
「どうやってって……」
聞いた話では、ラウルは家族に協力して貰っている。辰三は目に見えないものを喰らっているから、地下街などでこっそり摂取できている。
では、人の肉を喰らう者は、どうしているのか。
「無宿者や、罪を犯して逃げてきたような者を喰らっとった……昔はな」
「昔は……じゃあ今は?」
風見は、静かに頭を振った。
「喰うてへん……この五十年ほど、ただの一欠片も。血の一滴すらも、な」
その言葉で、初名は初めて会った時の百花の様子を思い出した。
真っ白でか細い腕、乱れた髪、かすれた声、ぼんやりした視線。体を壊したと、百花は言っていた。いったい何の病で、とは聞かなかった。
「あいつは、ずっと飢えに苦しんどる。ある時から、ぱったりと食事をとらんようになったせいでな」
「ど、どうして……ですか?」
戦後すぐは梅田界隈も混乱状態だったという。人聞きの悪い言い方ではあるが、百花の餌は、見つからないこともなかったと言える。
では何故、飢え始めたのか。
初名は、うっすらと思い当たることがあった。だが、口に出すのが、恐ろしかった。
それを口にしてくれたのは、風見だった。
「俺が禁じた。何故なら、あいつはこの横丁の客人を喰おうとしたからや。その客人とは、当時お前と同い年くらいの娘やった者で、お前の祖母にあたる人間や」
「……おばあちゃん……?」
風見は、静かに頷いた。
「百花さんが、おばあちゃんを、食べようとした……?」
「ああ、そうや。だから梅子にも、もう来るなって言うた」
信じられなくて、初名は思わず風見から視線を逸らせた。俯いた初名の視界に入ったのは、自分の手のひらだけだった。
「で、でもこれ……昨日、怪我した時、薬を塗ってくれましたよ。血を舐めるような素振りなんて一切なくて、ごく自然に、すぐに手当てしてくれて……!」
風見とラウルが、絆創膏の貼られた指先をまじまじと見つめた。まだ怪訝な表情は残っているものの、二人揃って頷いた。
「確かに、何も起こってないね」
「そうやな、あいつも長年の間に何かしら変わったんかもしれへんな」
「だったら……」
「そやけどな、昨日は無事でも今日はわからん。今日は無事でも、明日は? 明後日は? 人を喰いたい欲求いうんは、お前にとっての食事と何も変わらん。お前は三日飲まず食わずでいた後に目の前に食べ物出されて、さらにあと三日耐えられるか?」
「だったらどうしろって言うんですか。私も、もうここに来るなって言うんですか!」
「それも致し方ないとは思うとる」
「そんなの横暴です! いくら何でも、私にまでそんなこと言う権利は……!」
「お前のためだけやない。百花のためでもあるから言うてるんや。最悪の状況になってからやったら何もかも遅すぎるんや! お前にも梅子にも、百花自身にも顔向けできへんやろが!」
初名の視線と風見の視線が、真正面からぶつかり合った。互いに、一歩も退く気はなかった。烈しい怒気のせめぎ合いに、ラウルがたまらず立ち上がった。
「ま、まあまあ……風見さん、そんな声荒らげんと。初名ちゃんも、な?」
少しでも空気を和らげようとしたが、今ばかりは無理だった。
「僕がいらんこと言うたばかりに申し訳ない。そやから二人とも、頼むから一旦落ち着いて、な?」
「……ほんまに、いらんこと言うてくれたなぁ、ラウルさん」
その凜とした声が、初名と風見の滾った空気を冷ました。
二人が同時に声の主を振り返る。そこには、想像していた通りの人物、百花が立っていたのだった。
「それって、どういう意味ですか?」
ラウルが言葉を飲み込む様子が見えた。
初名は、自分が噛み殺してしまいそうな怒気を纏っていることに、自分で気付いていなかった。
ラウルは唇を噛み、再び口の中で言葉を選んでいる。その背後から、ひんやりとした声が聞こえた。
「俺から話す」
風見の声だった。いつものように陽気な空気はなく、冷徹で重厚な空気を纏っていた。風見はラウルを奥の席に追いやり、自分が初名の正面に座った。
「まず、ラウルのことを悪く思わんといたってくれ。ちゃんとした理由があった上で、悪意は一切ない。もちろん、百花を貶めるつもりもない。それだけ、言うとく」
「だから、その理由っていうのを早く聞かせてください」
風見にまでこんなに突っかかる物言いをしたことは、初めてだった。そのことに自分で驚きながらも、決して引き下がる様子を見せずに、初名は構えた。
「まず、百花がどういうあやかしか、知っとるか?」
「……確か絡新婦って仰ってました」
「絡新婦いうんは、男を誘い込んでその肉を喰らう人食いのあやかしや。男のせいであんなことになったんやから、それも頷けることやな」
「それが、何か?」
「今はどうやって”食事”しとると思う?」
「どうやってって……」
聞いた話では、ラウルは家族に協力して貰っている。辰三は目に見えないものを喰らっているから、地下街などでこっそり摂取できている。
では、人の肉を喰らう者は、どうしているのか。
「無宿者や、罪を犯して逃げてきたような者を喰らっとった……昔はな」
「昔は……じゃあ今は?」
風見は、静かに頭を振った。
「喰うてへん……この五十年ほど、ただの一欠片も。血の一滴すらも、な」
その言葉で、初名は初めて会った時の百花の様子を思い出した。
真っ白でか細い腕、乱れた髪、かすれた声、ぼんやりした視線。体を壊したと、百花は言っていた。いったい何の病で、とは聞かなかった。
「あいつは、ずっと飢えに苦しんどる。ある時から、ぱったりと食事をとらんようになったせいでな」
「ど、どうして……ですか?」
戦後すぐは梅田界隈も混乱状態だったという。人聞きの悪い言い方ではあるが、百花の餌は、見つからないこともなかったと言える。
では何故、飢え始めたのか。
初名は、うっすらと思い当たることがあった。だが、口に出すのが、恐ろしかった。
それを口にしてくれたのは、風見だった。
「俺が禁じた。何故なら、あいつはこの横丁の客人を喰おうとしたからや。その客人とは、当時お前と同い年くらいの娘やった者で、お前の祖母にあたる人間や」
「……おばあちゃん……?」
風見は、静かに頷いた。
「百花さんが、おばあちゃんを、食べようとした……?」
「ああ、そうや。だから梅子にも、もう来るなって言うた」
信じられなくて、初名は思わず風見から視線を逸らせた。俯いた初名の視界に入ったのは、自分の手のひらだけだった。
「で、でもこれ……昨日、怪我した時、薬を塗ってくれましたよ。血を舐めるような素振りなんて一切なくて、ごく自然に、すぐに手当てしてくれて……!」
風見とラウルが、絆創膏の貼られた指先をまじまじと見つめた。まだ怪訝な表情は残っているものの、二人揃って頷いた。
「確かに、何も起こってないね」
「そうやな、あいつも長年の間に何かしら変わったんかもしれへんな」
「だったら……」
「そやけどな、昨日は無事でも今日はわからん。今日は無事でも、明日は? 明後日は? 人を喰いたい欲求いうんは、お前にとっての食事と何も変わらん。お前は三日飲まず食わずでいた後に目の前に食べ物出されて、さらにあと三日耐えられるか?」
「だったらどうしろって言うんですか。私も、もうここに来るなって言うんですか!」
「それも致し方ないとは思うとる」
「そんなの横暴です! いくら何でも、私にまでそんなこと言う権利は……!」
「お前のためだけやない。百花のためでもあるから言うてるんや。最悪の状況になってからやったら何もかも遅すぎるんや! お前にも梅子にも、百花自身にも顔向けできへんやろが!」
初名の視線と風見の視線が、真正面からぶつかり合った。互いに、一歩も退く気はなかった。烈しい怒気のせめぎ合いに、ラウルがたまらず立ち上がった。
「ま、まあまあ……風見さん、そんな声荒らげんと。初名ちゃんも、な?」
少しでも空気を和らげようとしたが、今ばかりは無理だった。
「僕がいらんこと言うたばかりに申し訳ない。そやから二人とも、頼むから一旦落ち着いて、な?」
「……ほんまに、いらんこと言うてくれたなぁ、ラウルさん」
その凜とした声が、初名と風見の滾った空気を冷ました。
二人が同時に声の主を振り返る。そこには、想像していた通りの人物、百花が立っていたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私の守護霊さん
Masa&G
キャラ文芸
大学生活を送る彩音には、誰にも言えない秘密がある。
彼女のそばには、他人には姿の見えない“守護霊さん”がずっと寄り添っていた。
これは——二人で過ごした最後の一年を描く、かけがえのない物語。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる