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弐章 比良山の若天狗
三
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ささやかでも反抗できたのは良かった。日ごろの鬱憤にも近いものが少しは晴れたような気がしていた。だが、その代償は大きい。
お弁当どころか朝食すら食べずに家を出て、しかも追いつかれないように全力疾走したものだから、藍の胃袋は限界を迎えようとしていた。
「お腹、すいた……」
とてもじゃないが授業を聞いていられる状態ではなかった。
ないとわかっていても、何度か鞄の中をちらちら見てしまう。そしてそのたび、絶望する。
「仕方ない。購買部にパンでも買いに行こう」
藍はどちらかと言うとご飯派なのでその選択肢は避けていたが、背に腹は代えられない。鞄から財布を引っ張り出して立ち上がった。すると、小さな音が鳴った。
鞄についていた、鈴の音だ。
一瞬、息をのんだ。その鈴は、太郎から渡されたものだった。
愛宕山で鈴を預かった後、太郎が山南家にやってきた際に返却したのだが、代わりに別の鈴を渡されてしまった。
鈴そのものは太郎のものと同じだが、太郎のものと違って、持ち手として藍染の布が結わえられている。
『僕のとお揃いだよ』
そう言って嬉しそうに笑う顔は、忘れられない。
絶対につけるまいと思っていたが、顔を見かける度に着けていないのか、いつ着けるのかとしつこく言い募られて、仕方なく、目立つ場所に着けることにしたのだった。着けてみるとわかったことだが、この鈴、まったくと言っていいほど音が鳴らないのだ。
先ほどまではどれほど揺らしても音が鳴らなかったのに、今は簡単に鳴った。どうしたことか。
そう、思っていたら、今度は教室の外がなんだか騒がしくなった。驚愕、好奇、悲鳴……色々な声が入り交じっている。
藍も何かと思って廊下に近づいた。そして後悔した。近づいた瞬間に、声の中心にいた人物に声をかけられたのだ。
「藍! やっと会えた!」
太郎だった。公の場だからか、黒のスーツを身につけている。だが髪はぼさぼさのまま、目の下には隈があり、学校という場においては異様としか言えない出で立ちとなっていた。
当の本人だけは、そんなことを全く気にしていない。太郎は満面の笑みを浮かべ、手に持っていた包みを差し出した。
「はい、お弁当! お腹すいたでしょ? 作りなおしておいたから、アツアツの間に食べてね」
朝のメニューとはまた別らしい。なんと行き届いたことか……こんな形でさえなければ。
クラス中、それどころか隣のクラス、先生の視線まで受けて、そんな”厚意”の塊を突き返せるわけがなかった。
「あ……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
どういうわけか、藍が受け取ると同時に拍手まで起こった。周囲は完全に、太郎の味方についていた。
どう見ても親切な人。そんな認識で落ち着いたからか、教室から女子が一人、そろそろと近づいてきた。好奇心を隠しきれないといった表情を浮かべている。
「ねえねえ山南さん、この人は?」
「えぇと……」
何と言えばいいのかわからなかった。端的に言えば下宿人。つまりは同居人。一見すると藍たちと同年代か少し年上ほどの男性である太郎と”同居”しているというのは、大きな誤解を生む危険性がある。そんなことは言いたくないのだった。
だがいつまでも沈黙に耐えてくれるほど、クラスメイトも気長ではなかった。
「山南さんのお兄さん? でも敬語なのは変かな……」
「違うよ。お兄さんじゃなくて、許嫁だよ」
「違います! 許嫁じゃなくて、お兄さんみたいな人です!」
「……えぇと?」
首をかしげるクラスメイトにこれ以上何と言えばいいのか。思わず太郎とクラスメイトを見比べると、太郎もまた首をかしげていた。
「『お兄さんみたい』……この一週間でそんなにも距離が縮まってたの?」
どうやら喜んでいるようだ。許嫁と連呼している割に控えめな喜び方だと思えなくもない。だが、藍にとっては不本意だ。
「言葉の綾です。今のは気にしないでください。本当に……!」
「気にするよ」
「気にしなくていいからお家に帰ってください! 早く!」
「どうして? 別に急ぐ仕事もないし、いいじゃない」
「え、お兄さん、在宅ワークなんですかぁ?」
「お兄さんでもないです!」
「え、なに? やっぱり彼氏?」
大声で否定を重ねていると、なんと他のクラスメイトたちまでわらわらと集まり始めた。しかも何やら好意的だ。ここれまで彼にポジションを奪われるわけにはいかない。
(ポジションなんてないけど、先に取られることだけは……!)
「私の弁当なんかで時間とらせちゃってすみませんでした。もう大丈夫ですから、早くお仕事に……」
「何言ってるの。藍にお弁当を届けるのは重要な役目だよ。何を置いても……必ず成し遂げ……ないと……」
そう告げながら、太郎の体は倒れていった。まるで地面に溶けていくように。
「え……太郎さん!?」
お弁当どころか朝食すら食べずに家を出て、しかも追いつかれないように全力疾走したものだから、藍の胃袋は限界を迎えようとしていた。
「お腹、すいた……」
とてもじゃないが授業を聞いていられる状態ではなかった。
ないとわかっていても、何度か鞄の中をちらちら見てしまう。そしてそのたび、絶望する。
「仕方ない。購買部にパンでも買いに行こう」
藍はどちらかと言うとご飯派なのでその選択肢は避けていたが、背に腹は代えられない。鞄から財布を引っ張り出して立ち上がった。すると、小さな音が鳴った。
鞄についていた、鈴の音だ。
一瞬、息をのんだ。その鈴は、太郎から渡されたものだった。
愛宕山で鈴を預かった後、太郎が山南家にやってきた際に返却したのだが、代わりに別の鈴を渡されてしまった。
鈴そのものは太郎のものと同じだが、太郎のものと違って、持ち手として藍染の布が結わえられている。
『僕のとお揃いだよ』
そう言って嬉しそうに笑う顔は、忘れられない。
絶対につけるまいと思っていたが、顔を見かける度に着けていないのか、いつ着けるのかとしつこく言い募られて、仕方なく、目立つ場所に着けることにしたのだった。着けてみるとわかったことだが、この鈴、まったくと言っていいほど音が鳴らないのだ。
先ほどまではどれほど揺らしても音が鳴らなかったのに、今は簡単に鳴った。どうしたことか。
そう、思っていたら、今度は教室の外がなんだか騒がしくなった。驚愕、好奇、悲鳴……色々な声が入り交じっている。
藍も何かと思って廊下に近づいた。そして後悔した。近づいた瞬間に、声の中心にいた人物に声をかけられたのだ。
「藍! やっと会えた!」
太郎だった。公の場だからか、黒のスーツを身につけている。だが髪はぼさぼさのまま、目の下には隈があり、学校という場においては異様としか言えない出で立ちとなっていた。
当の本人だけは、そんなことを全く気にしていない。太郎は満面の笑みを浮かべ、手に持っていた包みを差し出した。
「はい、お弁当! お腹すいたでしょ? 作りなおしておいたから、アツアツの間に食べてね」
朝のメニューとはまた別らしい。なんと行き届いたことか……こんな形でさえなければ。
クラス中、それどころか隣のクラス、先生の視線まで受けて、そんな”厚意”の塊を突き返せるわけがなかった。
「あ……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
どういうわけか、藍が受け取ると同時に拍手まで起こった。周囲は完全に、太郎の味方についていた。
どう見ても親切な人。そんな認識で落ち着いたからか、教室から女子が一人、そろそろと近づいてきた。好奇心を隠しきれないといった表情を浮かべている。
「ねえねえ山南さん、この人は?」
「えぇと……」
何と言えばいいのかわからなかった。端的に言えば下宿人。つまりは同居人。一見すると藍たちと同年代か少し年上ほどの男性である太郎と”同居”しているというのは、大きな誤解を生む危険性がある。そんなことは言いたくないのだった。
だがいつまでも沈黙に耐えてくれるほど、クラスメイトも気長ではなかった。
「山南さんのお兄さん? でも敬語なのは変かな……」
「違うよ。お兄さんじゃなくて、許嫁だよ」
「違います! 許嫁じゃなくて、お兄さんみたいな人です!」
「……えぇと?」
首をかしげるクラスメイトにこれ以上何と言えばいいのか。思わず太郎とクラスメイトを見比べると、太郎もまた首をかしげていた。
「『お兄さんみたい』……この一週間でそんなにも距離が縮まってたの?」
どうやら喜んでいるようだ。許嫁と連呼している割に控えめな喜び方だと思えなくもない。だが、藍にとっては不本意だ。
「言葉の綾です。今のは気にしないでください。本当に……!」
「気にするよ」
「気にしなくていいからお家に帰ってください! 早く!」
「どうして? 別に急ぐ仕事もないし、いいじゃない」
「え、お兄さん、在宅ワークなんですかぁ?」
「お兄さんでもないです!」
「え、なに? やっぱり彼氏?」
大声で否定を重ねていると、なんと他のクラスメイトたちまでわらわらと集まり始めた。しかも何やら好意的だ。ここれまで彼にポジションを奪われるわけにはいかない。
(ポジションなんてないけど、先に取られることだけは……!)
「私の弁当なんかで時間とらせちゃってすみませんでした。もう大丈夫ですから、早くお仕事に……」
「何言ってるの。藍にお弁当を届けるのは重要な役目だよ。何を置いても……必ず成し遂げ……ないと……」
そう告げながら、太郎の体は倒れていった。まるで地面に溶けていくように。
「え……太郎さん!?」
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